実様へ押し売りした短文集










「黒崎さん、黒崎さん!」

名を呼びながら、食堂に駆け込む。
彼はもうじきやってくる夏に備えて、食堂の片隅で網戸の補修をしているところだった。

「そろそろ、買い出しに行きませんか?」

私を振り返りながら、立ち上がった彼は。
苦笑気味に笑いながら、ぽんっと軽く自分の胸のあたりをひとつ叩いて。
それからゆっくりと、首を横に振った。


「………あ」


思わず、口を押さえる。

急速に顔に集まる、熱。
赤くなっていくところを見られたくなくて、慌てて視線を床に落とした。


こつ、こつ………と。
フロアを横切り、近づいてくる靴音。

やがて、彼の靴の先が視界に入って。
おそるおそる顔を上げた視線の先、彼が悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。

どきり………と、跳ねる心臓。

再び俯いてしまった私に、院の小さな子供たちにするように身を屈めて。
瞳に愉しげな光を踊らせ、橙色の前髪の隙間から私の顔を覗き込んでくる。

その口元には、余裕の微笑み。
そして……何かを促すように、僅かに首を傾ける。

本人、きっと何気なくやっているんだろうけれど………。
その仕草も表情にも、妙な色気があるものだから困りものだ。


抵抗なんて……出来ない………。





『………あぁ、もう!』

ずるい、なぁ………と。
小さくひとつ、ため息を吐く。

一度、目を瞑って。
そっと静かに、深呼吸。
ゆっくりと瞼を持ち上げて。
蜂蜜色の瞳を、真っ直ぐに見つめて。

口を、開いた。



「………一護、さん」



出すことの出来たのは、思ったよりもずっとずっと小さな声で。

情けなくて、恥ずかしくて。
赤い顔をしたまま、再び俯く。
その私の頭に、そっと乗せられる大きな手。


『良く、出来ました』

 
そんな感じに、頭髪をくしゃりと撫でられて。
頬に滑ってきた手に仰向かせられれば、視線の先、愛しい人が目を細めるようにして微笑っていた。

つられるように、笑って………その、次の瞬間。

つきん………と。
細い針で貫かれたように、胸に走る痛み。





『………聞きたい、よ』





お兄ちゃんより、少し低めで。
ちょっとだけ、ぶっきらぼうで。
でも……この世の何より心を落ち着けてくれた、あなたの声で。

もう、一度。
もう一度だけで、いいから。

呼んで欲しかった。
あなたに。

呼ばれたかった。
私の、名を。

耳元で、囁くように。
織姫………と。









喉元にせり上がってくる、熱い塊。
歪む顔を見せたくなくて、逞しい肩口に額を押しつける。

どうしたのかと尋ねるように肩を叩く手を無視して、きゅうとその胸元にしがみつた。
そして大きく、息を吸う。


………昔。
彼の居場所が、空にあった頃。
彼の肌からはいつも、微かにオイルの匂いがした。

でも……。

今は、違う。
院の子供達と、同じ。
それ、は。
優しく暖かい、お日様の匂い………。









ああ、私は。
私の、心は。

なんて、浅ましく愚かで醜いのだろう。


海に溶け、空に溶け、風になって。
もう二度と、逢うことは出来ないのだ………と。

そう思っていた筈の、愛しい人が。

生きて。
呼吸して。
私の隣で、微笑んで。
以前と変わらぬ力強さで、この身体を抱きしめてくれていると言うのに。





………馬鹿な、織姫。

この、夢のように幸せな日々に。
これ以上の、更なる何を、望むというの………?










背を宥めるように叩いてくれていた手が、ふと止まった。
私が訝しんで顔を上げるよりも先に、彼に左手をとられる。

そのまま持ち上げられた私の手、指の先。
押し当てられる、彼の唇。
驚いて手を引っ込めようにも、彼の力に私がかなう筈もなく。

戸惑い、瞬きを繰り返す。

その時。
指の下で、彼がゆっくりと唇を開いた。

思わず、目を見開く。


 ……お…り…ひ…め……


彼の唇は、確かにその音の形に動いたのだ。



「一護…さ………」

それから彼は、にこりと笑って。
私の手を解放すると、今度は右手を動かした。

それは、筆談のみでは何かと不便だから………と。
二人で覚え始めたばかりの、手話の一種。
指文字。


 ……お…り…ひ…め……
 




「…………一護、さん……!」




  
  ……お…り…ひ…め……

     ……お…り…ひ…め……


 ……お…り…ひ…め……





まだ、覚え始めたばかりだから。
その動きはどこかぎこちなく、たどたどしいのだけれど。

それでも、確かに。

一字ずつ、彼の指が綴っていく。
私の、名を。




   ……お…り…ひ…め……





何度も、何度も…………。

  
 


「…一護……さん………」

堪えきれず、溢れて頬に流れた涙を、優しく指で拭われて。
そっと唇に落とされる、口づけ。

離れていく、間際。
触れるか触れないかの位置で彼の唇が動き、微かに空気が揺れた。



 ……… あ い し て る ………




私、も………と。
彼の首に腕を回し、つま先立って、耳元で囁いて。

ゆっくりと、身体を離す。


彼はもう一度、柔らかく笑って。
それから今度は少し不安そうな顔をして、私のお腹へと手を伸ばし、そっと指の先で触れた。

「あ……報告遅れて、ごめんなさい! 順調…だ、そうです」

ほう……と、安心したように息を吐いて。
ほんの少しだけの頬と鼻のあたりを赤くしながら、彼が笑う。
そしてもう一度、やさしく肩を引き寄せられ、腕の中に閉じ込められた。




お腹は未だ、ちっとも目立たないけれど。
私は今日、妊娠16週目を迎えた。
有り難いことに悪阻らしい悪阻も殆どなく、院の仕事も妊娠前とさほど変わらぬ量をこなすことが出来ている。

様々な公的・私的機関からの援助があるとは言え、決して楽ではない院の運営。
私の代理の先生を雇う期間は、少なくて済むに越した事は無く……元気に働ける事を、神様に感謝する日々だ。

産まれてから先の事にも、さほど不安は感じなかった。
だって………私の側、には。
優しく頼りになる、素敵な旦那様と。
お母さん代わりの、優しい院長先生と。
赤ちゃんのお兄さん、お姉さんになってくれるであろう、沢山の元気な子供たちが居るのだから………。










「ああ、いけない! お夕飯に間に合わなくなっちゃう! 買い出し行きましょう、買い出し!!」

時計台の鐘の音に、慌てて我に返る。
そのまま彼の手を引いて、食堂を出ようとした私を制して。
一度、私の顔を指さした後、一護さんは顔を洗う真似をしてみせた。

「あ……そう、ですね。涙の跡が残ってたら、子供たちを心配させちゃいますもんね。
急いで、洗ってきます!」

小さく、頷いて。
微笑みながら、門のところで待っている……と、手話で伝えてくれる旦那様。

『走る・いけない・転ぶ・赤ん坊・危険・ゆっくり』
「了解であります!」

敬礼と共に、元気に返事をして。
踵を返し、私は洗面所へ向かって歩きだした………。












終戦から、十年。

新緑の眩しい、穏やかな季節。
何気ない一日、平和な午後の一時。

風見鶏の見守る、孤児院にて………。
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