紅い花、ひとつ/想恋歌・双恋歌
【相恋歌・双恋歌】
あんなにも男の欲を露わにした顔を見せたのは、初めてで。
だから、俺を怖がった井上が、待ち合わせをすっぽかす可能性は充分にあると思っていた。
だけど……。
「……くろさき、くん…?」
聞き覚えのありすぎる声に、優しく名を呼ばれて。
慌てて地面に落としていた視線を上げれば、ふうわりとした微笑みを湛えた井上がそこに立っていた。
これまでと何ら変わらぬその様子に、安堵するよりも寧ろ困惑してしまって。
挨拶の言葉すらろくに返せぬまま、再び地面の足下へと視線を落として黙り込む。
その俺の上着の裾をそっと引っぱりながら、井上が言った。
これから家に、来ませんか……と。
弾かれたように顔をあげ、井上の顔を凝視する。
俺を真正面から見返す瞳は、とても静かで、落ち着いていて……それ故に、俺の心に沸き上がったのは、喜びではなく疑念と不安のほうだった。
「……別れ話する気なら、行かねーぞ」
「どうしてそんな話になるの」
困ったように、井上が笑う。
「店長さんに、今日が期限のチョコムースを2ついただいたの。
箱を持って歩き回るのも何だし、黒崎君のおうちにお裾分けするには数が足りないし……だから…」
……うちで、食べよ?
井上はにこり…と微笑みながらそう言うと、くるりと踵を返して歩き出した。
慌てて後を追いかけ、横に並ぶ。
「……なぁ」
「はぁい?」
「今日、このタイミングで、俺を家に呼ぶ…って、さ。それがどういう意味を持つのか……お前、ちゃんとわかってんの?」
ひゅっ……と、軽く息を呑む音がして。
視線だけを真横に向ければ、髪の間から覗く耳が、夜目にも赤く俺の瞳に映った。
うつむき加減に歩く横顔は胡桃色の髪に隠され、その表情は伺えない。
「…いのうえ……?」
自分でもぎょっとするほど、声が掠れていた。
喉がからからに乾いているのは、多分きっと、うだるような外気温のせいだけじゃない。
「……………わかってるよ」
耳に届いたかそけき声に、どくり…と派手な音を立てて、鼓動が高鳴る。
通りを吹き抜けた生温い夜風に、街路樹の枝葉がざわり…と揺れた。
先に入るよう促されて上がった、マンションの一室、井上の部屋。
キッチンと部屋の境目あたりに所在なく佇む俺の耳に、かちゃり…と鍵を回す音が、やけに大きく響く。
「ムース、今すぐ食べる? 後のほうが、いい?」
「………後」
わかった……と。
無邪気とさえ言える笑顔と口調とで頷きながら、俺の前を横切り、冷蔵庫にケーキの箱を仕舞う井上。
ぱたん…と、扉を閉じる音が聞こえた瞬間、遂に俺の中で何かが爆ぜた。
一歩踏みだし、腕を伸ばして。
まだこちらに向き直りきっていない井上の身体を、力一杯引き寄せ、抱きしめる。
「…くろ、さ……?」
「なぁ……後って? 本当に、ちゃんとわかってて言ってんの?」
「………」
問いかける言葉に、答えはない。
だけど、腕に囲った細い身体がびくり…と強ばったのち、微かに震え出したのには気が付いていた。
ひとつ溜息を吐きながら腕を緩め、井上の顔をのぞきこむ。
前髪の隙間から俺を見上げた井上の瞳には、この前と同様に怯えの色が浮かんでいた。
「……あの、さ。この前はああ言ったけど……どうしても嫌なら、無理強いする気は無ぇんだぞ…?」
小さな子供に諭し聞かせるように、ゆっくりとした口調で伝えれば。
くしゃり…と今にも泣き出しそうに歪む、井上の顔。
ああ…やはり無理をしていたのか……と。
罪悪感でいっぱいになりながら抱きしめ直そうとしたのだが、しかしながら井上は、俺の胸板に両手をついて、力いっぱい俺の身体を押し返してきた。
呆然として瞠目する視線の先、俺を見返す井上の目から、みるみるうちに涙があふれ出す。
「い、いの…っ?!」
「……どうして今更、そんなこと言うの…? この数日、私がどれだけ……」
続く言葉は声にならず、井上は両手で顔を覆って俯いた。
震える細い肩を目の前にして、胸の内を抉られるような後悔に襲われる。
ひとつ、息を吐いて。
俺はもう一度腕を伸ばし、細い身体を囲い込んだ。
今度は大人しく腕の中に収まり、まるで溺れかけた人が縋りつくかのように、俺のシャツの胸元を掴む井上。
彼女の背に回していた手を片方はずし、そっと頬を包み込んで。
髪に、こめかみに、額に、目尻に…と、触れるだけの口づけを順に落としていけば、眉間にしわが寄るほど力を込めて閉じられていた瞼が、うっすらと持ち上がった。
未だ涙で潤み、不安定に揺れつつも。
俺を映す瞳の奥底に、先刻までは無かった筈の艶やかな光が灯っていることに気づき、思わずごくり…と唾を飲み込む。
「……全然怖くない…って言ったら、嘘だよ。でも…」
井上の両の手がゆっくりと持ち上がり、頬に触れていた俺の手を掴んだ。
そして優しく頬から引きはがすと、顔の角度を変え、俺の手首にそっと唇を押し当てる。
ちり…と皮膚の上を走る、微かな痛み。
その瞬間、ぞわり……と全身が総毛立つと同時に、火を吹くような勢いで身体が熱を持った。
手首に、接吻ける。
その意味するところを井上に教えたのは、数日前の俺だ。
「同じ、だから……同じ、気持ちだから……だから…!」
大丈夫……と。
俺に伝える声も身体も、相変わらず震えていた。
だけど俺にはもう、物わかりの良い紳士のフリなど続けられなかった。
噛みつくようなキスを繰り返しながら、少しずつ少しずつ、井上の身体を部屋の奥へと追い詰めて。
やがてたどり着いたベッドの上に、二人諸共に崩れ落ちる。
汗が、風呂が……と、最初のうち井上は盛大に狼狽え、もがいていたけれど。
両手で彼女の顔を挟み込み、視線を重ね、もう待てない……と馬鹿みたいに掠れた声で呟けば、それきりばたり…と抵抗は止んだ。
布団の上に投げ出された井上の左手を取り、手首の内側に口づけ、吸い上げる。
白い肌に浮かび上がるは、紅い紅い小さな花弁。
しばしの間それを見つめたのち、ふわり…と笑って井上は言った。
「……お揃い、だ」
その言葉を、合図に。
ぎりぎり指の先で掴んでいた理性という名の手綱を、俺は完全に手放した。
終