胡蝶の夢



⭐︎第一夜⭐︎

2007年週刊ジャンプ35号
Cカラー
JET 142〜143p










「井上、8月の予定はもう埋まっているか」

ルキアからそんな電話がかかってきたのは、まだ新年度になったばかりの4月頭のことだった。

「えと…流石に今のところは、まだ全然——あ、初旬に泊りの出張があるかな」
「ああ、毎年恒例の研修会か。でもそれなら、中旬あたりは空いてるよな?」
「うん」
「では、うちの別荘に一緒に行かないか? というか、是非来て欲しいんだ。
実は、手伝ってもらいたいことがあってな。
勿論、報酬は払うぞ——と言っても、我らは副業禁止の身ゆえ、滞在中の食事の提供と、何らかの現物支給ということになるが」
「——とりあえず、内容を教えて貰ってもいいかな」

ルキアからの頼みであるのだから、罷り間違っても違法性など無かろうし、友人として手を貸すことに否やは無い。
しかしながら、自分の手に負える範疇かも分からないのでは、返事のしようもない。

「書庫の整理と、書物の補修だ」
「ああ、それなら…」

本職であり、得意分野である。
よくよく話を聞けば、補修対象の中には和綴本もあるとのこと。
前年に受けた講習と、以後の自主学習の成果を発揮できるかも…と、織姫は心が浮き立つのを抑えられなかった。

是非に——と弾む声で返事をすれば、電波の繋がる先からも、安堵のため息が漏れ聞こえてくる。
自然と笑みを深くした織姫だったが、続くルキアの言葉に、思わず携帯電話を取り落としそうになった。

一護と恋次も、同行すると言うのだ。

「我ら其々、9月頭にレポートを提出せねばならぬ研修課題があってな。
件の別荘は、もともと書物保管を目的に建てられたもので、資料集めもほぼ邸内で済みそうだし、我らが缶詰になるにはもってこいなのだ。
加えて司書の其方がレファレンスに協力してくれるなら、鬼に金棒というもの。
ちなみに蔵書は全てデータベース化、検索ソフト導入済みだ」
「そりゃ…私で役に立つなら……でも…」
「そうかそうか、引き受けてくれるか! 恩に着るぞ、井上!」
「く、朽木先生——っ!」
「そうそう、帰りは途中海へ寄って、茶渡と石田とも合流して、皆で遊ぶ予定だ」
「石田君と、茶渡君も?!」
「ああ。本当は彼奴らも別荘行きに誘ったんだが、石田はその時期、子持ちの医師に休みを譲ることが多いというし、茶度はジムの合宿があるとかで、日帰りが精一杯と言うのでな。
ところで井上、其方、水着は持っているか?」
「え? う、ううん…」
「では、売り場に並ぶ時期になったら、一緒に買いに行こう!
くくく…今から其方の水着姿に見惚れて呆然とする、一護の顔が目に浮かぶわ!」
「そ、そんなことには…」
「なるに決まっておろうが! ああ、楽しみだ。さぞかし見ものであろうよ!
ではまた明日、学校でな!」

ふつり…と、電波が途切れる。
織姫は困惑顔のまま携帯を持つ手を膝に下ろし、ふう…と肩が大きく下がるほどのため息をついた。
そのまま、腰掛けていたベッドに仰向けに倒れ込む。

「朽木家の別荘に、お泊まり……黒崎先生も、一緒に…」

体を横たえているにも、関わらず。
脳がくらりと揺れる感覚に襲われ、織姫はたまらず目を閉じた。
かつて、朽木の本邸に泊まったときのことを思い出したのだ。

一緒に年越しようとルキアに誘われ、てっきり2人で過ごすのだと思っていたら、年が明ける直前に一護と恋次もやってきて。
皆で夜道を歩いて、初詣に行ったのだ。
帰宅後はそれぞれ早々に部屋に引き取ったけれど、翌朝には白哉と緋真、当主の銀嶺も交えて、雑煮とお節の重の並ぶ食卓を皆で囲んだ。

そのとき、朝風呂にでも入ったのか、一護の髪はまだ少し湿り気を残していて。
いつもは整髪剤で立ち上げている前髪が額にかかり、目元に影を落としている様を目にした瞬間、とくり…と。
心臓が高く強く音を立てたことを、織姫はよく覚えていた。

「黒崎、せんせ…‥」

きゅう——と。
苦しくもひどく甘い胸の痛みが、鮮やかに甦る。
また、あのどこか無防備で、常より幾分幼い印象を受ける一護の顔を、姿を、目にすることができるのだろうか。
しかも、7日間連続で。

「……でもそれって、私の素の部分だってたくさん見られちゃうかもってことだよね」

別に普段から分厚い猫の皮を被ったり、別人格を演じるなんてことはしていない。
化粧も薄めだから、素顔を見られて「お前は誰だ?」などと仰天されることも、恐らくは無いはずだ。

それでも——と、織姫は小さくため息を吐く。
ある程度長い期間、生活を共にすれば、良くも悪くもこれまで見えなかったもの、気づかなかったことに触れる、触れられてしまうことは、互いに避けられまい。

「うっかりノーブラで廊下歩いたりしないように、気をつけなきゃ…」

万が一にもそんな姿を一護に見られ日には、羞恥で死ねる。

「それに…水着…………ぇえええぇえ?!」

今なら額の上で、冷凍庫にストックしている大判焼きを、一瞬でほんわか食べ頃な温度にまで解凍できるんじゃないだろうか——。
そんなことを思いながら、織姫はパタパタと自分の顔を手で煽いだ。










「よし、終わった!」

満足気に呟いたルキアを、ちろりと見やって。
恋次は苦笑まじりに「お疲れさん」と声をかけた。

「良かったな、井上が承知してくれて」
「うむ! レポートを書くのは面倒だが、彼女とひとつ屋根の下で一週間も共に過ごせると思うと、それだけで心が踊る」
「そうか」

恋次はますます苦笑を深くしたが、嫉妬の念は湧かなかった。
長く同性の友人に恵まれなかったルキアを近くで見守ってきた彼にとって、織姫はその存在自体が有り難く、感謝の対象でしかない。

「それにしても面白かったな、一護の反応は」

くつり——と、恋次は思い出し笑いに喉を鳴らした。
ルキアはスピーカー状態にして通話していたから、やりとりは漏れなく恋次も聴いている。
最初は全く乗り気でなかった、むしろ断る気満々なのを隠そうともしていなかった一護が、織姫も誘う予定だとルキアが言った途端に、明らかに動揺する気配を見せて。
しばしの沈黙の後に「仕方ねぇ、付き合ってやる」という言い方で承諾してきたとき、恋次は腹の底から込み上げてくる笑いを堪えるのに必死だった。
あくまでも、強く誘われて渋々なのだという体を装ってはいたが、織姫の名が出る前と後とでは声のトーンに雲泥の差があったのだから。

「素直に喜べばいいのによ」
「仕方あるまい、奴のカッコつけは今に始まったことではないからな」
「違いねぇ! かと言って、石田みてぇな反応と受け答えもどうかと思うが」
「まったくだ」

今度はルキアが、苦笑を浮かべる。
雨竜は話を一通り聞くなり、「要するに、今回僕に期待されているのは、良き『あて馬』であれということかな?」と、皮肉たっぷりの口調で言ったのだ。

全くもってその通りである——の、だが。
あまりに身も蓋もない物言いである。

「では僕は、極力井上さんのそばに張りついて、2人一緒に黒崎の視界に入るよう心がけるとしよう。
勿論、井上さんを不快にさせない程度にね」

——全く、なんて世話の焼ける男なんだ。
そんな雨竜の心の声が、ルキアと恋次にはしっかり聞こえていた。

まぁ、気持ちは理解る。
理解りはするが、だがしかし——。
もう少し、オブラートに包んだ言動をお願いしたいところではある。

「結局のところ、何だかんだで1番常識人なのは、茶度だよな。人一倍気遣いもできるし、いろいろと道理ってもんがわかってやがるしよ」
「本当にな!」

恋次の言葉に、ルキアもまた深く頷いたのだった。











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