夕風 花の香 茜雲
【第二話】
以前、私が主担当となって締結した契約の満期が近づき、有り難くも先方から更新のご依頼をいただいて。
三年ぶりに訪れた街で無事手続きを済ませての帰り道、私は駅へと向かうには少し遠回りになる、閑静な住宅街へと足を踏み入れた。
「……確か、この先の角を曲がった奥だったよね…」
かなり朧気になってしまった記憶を頼りに、通りを先へと進む。
曲がり角が近づくにつれて、次第に速まっていく鼓動。
どくりどくり…と心臓が血液を送り出す音が、耳につく。
ついさっきまで会っていた取引会社の重役相手にだって、ここまで緊張しなかったのに…と、知らず苦笑を漏らしたときだった。
ふうわり…と、夕風に乗って届いた甘い香りに、とくり…と一際高鳴る胸。
同時に、じわり…と身体の芯が熱を持つ。
もうすぐだ……!
気が付けば、小走りになっていた。
カツカツと足音を響かせながら、勢いよく角を曲がって……その次の、瞬間。
「うわっ!」
「きゃ…っ?!」
どすっ…という鈍い衝撃音を、反射的に目を閉じたことで作られた闇の中で聞いた。
同時に、じんじんと地味な痛みが額に広がっていく。
所謂、出会い頭の衝突…という奴をやらかしてしまったのだ。
「……大丈夫ですか?」
「あ、はい…すみません! よく確認せず、いきなり角を曲がってしまったも…の……で………っ、?!」
目を閉じたまま、お詫びのために一度深く頭を下げて。
次に、額を押さえつつゆっくりと上体を起こした私は、ぶつかってしまった相手の顔を視界に捉えるなり瞠目し、大きく息を呑んでしまった。
その精悍で整った顔立ちには、残念ながら見覚えがなかったけれど。
夕陽を紡いだような橙色の頭髪に、三年前のあの日、もう一つ先の曲がり角ですれ違った男性だと確信する。
「……あの…もしかして、息子のクラスメイトのお母さんだったりしますか?」
「えっ?!」
「だとしたら、申し訳ありません。私は妻と違って、人の顔を覚えるのが苦手で……」
頭が真っ白になってしまった私が、不躾にも無言のままで男性の顔をじろじろと眺め続けていたからだろう。
どうやら男性は私のことを、顔を記憶しておくべき知り合いだったのではないか…という不安にかられたらしい。
「あ、や、ちちちちち違います違います!!! 仕事でたまたま通りかかっただけで、この街の住人ですらないですよ!!」
慌てて私が首をぶんぶんと横に振ると、男性は「よかった」と呟きながら、ほっ…と小さく安堵のため息を吐いた。
眉間に寄っていた縦皺もまた、緩む。
『……あら。眉間皺の有る無しで、随分と印象の変わる人だわ…』
そんなことを、ふ…と思った時だった。
アスファルトを蹴る軽やかな足音がこちらへと近づくとともに、「おとーさぁんっ!」という子供特有の高い声が路地に響き渡った。
「待って! やっぱり僕も一緒に行くぅ!」
そう言って男性の腕に飛びついたのは、やはり橙色のふわふわした頭髪を戴いた男の子。
再び、目を見開く私。
記憶の中よりぐんと背が伸び、幼児と言うよりも少年と呼ぶべき容姿へと成長していたけれど、確かにあの時の男の子に違いなかったからだ。
「お母さんに断ってから、出てきたのか?」
「うん!」
父親の問いかけにこっくりと頷いた男の子は、次に私へと視線を向けると、ぱちくりとひとつ瞬きをして。
大きな黒目がちの瞳が転げ落ちはしないかと心配になるほどに目を見開きながら、私の顔をじーっと見つめてきた。
その視線の真っ直ぐさに軽く気圧され、無意識に足を後ろに引きかける私。
だがしかし、である。
「……やっぱり、ラベンダーのお姉さんだ!」
にぱっ…と。
それこそ天使としか形容出来ない愛らしい笑顔を浮かべて男の子が発した言葉に、私は天地がひっくり返るかと思うほど仰天してしまった。
三年も前の…しかも僅か数分の出来事を、こんなに幼い子が記憶していてくれたことに対する、驚きと戸惑いと。
それ以上に、得も言われぬ喜びと嬉しさとが心の中で渦を巻き、息苦しさすら感じるほどだ。
「覚えていてくれたんだ…」
「うん!」
力強く頷き返してくれた男の子の横で、父親が「…相変わらず、凄ぇ勘だな」と小さな呟きを漏らす。
記憶力ではなくて、勘…?と内心で首を傾げていると、男の子はその小さな手で私の手を取り、「ねぇねぇ、ちょっとこっちに来て!」と路地の奥、親子の住まいがある方向へと私を引っ張り始めた。
「わわ、ちょっと待って!」
急な動きにたたらを踏んだものの、なんとか体勢を立て直して、手を引かれるがままに歩き出す。
追ってきた父親が私の隣に並び、申し訳なさそうな口調で話しかけてきた。
「突然、申し訳ありません。でも、もしお時間が許すようでしたら、このまま少し息子につきあってやっていただけますか?」
「あ、はい! 私は大丈夫です。
時間は全然問題ありませんし…あの、ご不快に思わないで頂きたいのですが、私も三年前に奥様と息子さんからラベンダーをいただいたときのことが忘れられなくて……。
今回もせめて通りすがりの塀越しに、お宅のラベンダーを堪能させてもらおうかな…なんて思っていたものですから………」
見知らぬ他人に庭を覗き見られるなど、人によっては不愉快と感じるな行為であろうから、冷や汗をかきつつごにょごにょと言い訳がましく言葉を並べ立てる。
けれど父親は怒るどころか穏やかな微笑みを浮かべて、ゆっくりと首を横に振ってくれた。
「三年前のことは、私も妻と子から聞いて知っています。ちょうどお誕生日だったそうですね」
「は、はい! 今年も無事、二日前にひとつ歳をとりました」
「それは、おめでとうございます」
「あ、ああああの、その、どうもありがとうございますっ!」
なまじ顔立ちの整った相手に、落ち着いた低めの声でもって言祝がれたものだから、思わずどきり…と鼓動を跳ねさせてしまった。
これ、意識してやっているのだとしたら相当なタラシだろうし、無意識無自覚でやっているのだとしても、ある意味最も質の悪いタイプと言える。
『……奥さん、結構苦労してるんじゃないかしら』
そんな下世話な心配が脳裏を過ぎった頃、私たち三人は、見覚えのあるブロックと金属製のフェンスで作られた塀の前にたどり着いた。
フェンスの向こうでは、薫風の発生源である紫色の花穂が、夕風に身を任せてゆうらりと揺れている。
「お父さん、お願い」
子供が父親に向かって両腕を伸ばすと、父親は子供の背後からその身体を抱き上げ、ブロックとフェンスの境目のところに足を乗せてやった。
父親に背を支えられながらフェンスをしっかりと掴んだ子が、庭の奥に建つ家に向かって大声を張り上げる。
「おかあさぁああんっ、ちょっと、出てきてぇぇえええっ!」
ゆっくりと五つ数えた頃だろうか、からり…と履き出し窓が開き、一人の女性が姿を現した。
緩く一つに結んだ髪を片方の肩に寄せて流し、長めのスカートにエプロンを身につけたその人は、あの日確かに私にラベンダーを差し出してくれた女性であり、男の子の母親だ。
「どうしたの、かず君…一護君も。えと、そちらの方は……?」
つっかけサンダルを履いて庭に降り立ち、こちらに近づきながら僅かに首を横に傾げる。
そんな仕草まであの日のままで、なんだか奇妙な感動を覚えてしまう。
「お母さん、お母さん! この人、ラベンダーのお姉さんだよ!!」
「……ああ!」
ぱぁ…っと、母親の顔が笑顔に変わった。
雲から顔を出した夕陽が、実にタイミング良くその姿を照らしたことも相まって、まるで天女が降臨したかのような錯覚をおこしてしまう。
「お久しぶりです、今日もお仕事でこちらに?」
「あ、はい、そうなんです」
「それは丁度良かったです!」
「…………は?」
「うーん…やっぱり、かず君の勘は凄いなぁ……ね、一護君…?」
「………だな」
ここでもまた「勘」という、会話の流れから考えるとかなり不自然な言葉が出たことに、戸惑う私。
ちらり…と男の子の様子を伺えば、両親の会話をにこにこと笑いながら聞いている。
「そんなことよりお母さん、あれ! あれ!!」
「ああ、ごめんなさい。そうだったね」
ちょっとお待ちになってくださいね……と。
私に笑いかけながら踵を返した母親が家の中へと戻って行くと、父親が少し困ったような顔をしながら、「気味が悪いと思われるかもしれませんが…」と前置きをしたうえで、躊躇いがちに説明を始めた。
少し前に子供のクラスメイトの母親数人に頼まれて、ラベンダーを挿し木し、苗を作っていたこと。
無事に根が出てきたので、今日の午前中に鉢に分けて植え替えたこと。
そのとき、頼まれていた数よりも一つ多く鉢を用意して欲しいと息子さんが言い出したこと……。
「あなたが来る気がする……そう、言い張ったんです。
普段はあまり我が儘も言わず、何かを強請ったりすることも少ない子なんですが……時々、思いも寄らないことを言い出しては、ガンとして譲らないことがあるんです。
そういうときのこの子の言うことは、大概、外れたことが無くて……」
「……そうなんですか。
あ、でも…私はそういうの、何とも思わないですよ!
高校時代から親しくしている同級生に、やっぱり第六感の働きがとても強い子が居りまして……。
だから私は、勘が強いとか霊感が在るということを、例えば人並み外れて音感が良いとか、ずば抜けて運動神経が良い…というようなこととほぼ同列に捉えているんです」
「……なるほど」
ほっ…としたように、父親が微笑む。
恐らくはこれまでに幾度が、心ない言葉を親子共々浴びたことがあるのだろう。
それでも、目の前の男の子が屈託のない笑顔を浮かべていられるのは、両親や周囲の身近な人たちから、沢山の愛情を注がれて育っているからに違いない。
「お待たせしました!」
柔らかに弾むソプラノに振り返れば、母親が再び庭に降り立ったところだった。
片手に、小さな紙袋を下げて。
「ラベンダーの苗です。お荷物になってしまって申し訳ないのですけれど、受け取っていただけないかしら…?」
「はい…喜んで……!!」
私が頷くと、母子は顔を見合わせて、それはそれは嬉しそうに笑ってくれた。
そして母親から子へと渡された紙袋が、更に父親の手をリレーして、私へと渡る。
袋の中には、小さなプラスチックの鉢に植えられたラベンダーの苗がちょこんと納められていた。
「出来るだけ早く、もう少し大きな鉢か地面かに植え替えてください」
「わかりました」
「お仕事でお疲れなのに、引き留めてしまってごめんなさいね」
「いえ…こんな素敵なプレゼントを誕生日の翌々日にいただけるなんて……なんて幸先良い一年の始まりなんだろうと思っています」
ありがとうございました…そう感謝の言葉を述べながら深く腰を折れば、頭上から三人分の微笑む気配が零れてきて。
そのことに、心の奥の方が一段とほんわり暖かくなる。
ああ…またこの場所に来ることが出来て、本当に良かった……。
不意に、空から大音量で音楽が降ってきた。
多分、自治体の防災無線用のスピーカーから流されたものだろう。
「……やべ、もうこんな時間か。急がないと、ルキア達が来ちまう」
「一護君、鯛焼き未だ買ってきてないんだよね?」
「ああ、これからだ」
「苺花ちゃん…カスタードが売り切れてたら、怒っちゃうかなぁ…?」
何やらわたわたと慌てだした家族の様子に、私も今が去り時と悟って暇を告げる。
「道中、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます。ラベンダー、大切に育てますね!」
もう一度深く、お辞儀をして。
私は踵を返すと、仕事帰りとは思えないような軽い足取りで、駅へと向かって歩き出した。
「お姉さん、またね!」
背後から聞こえた声に立ち止まり、私もまた「またね」と答えながら手を振り返す。
勘が良いという男の子の言葉に、数年後の再会を期待しながら……。
終