夕風 花の香 茜雲



【第一話】





仕事で初めて訪れた土地、見知らぬ街角。
風が運んで来た甘い香りに、思わず足を止めた。
きょろきょろと周囲を見渡せば、手入れの行き届いたこじんまりとした庭の片隅に、綺麗な薄紫色をした小さな茂み。
先端に沢山の花を咲かせたひょろ長い茎が、ゆらゆらと風に揺れている。

「……やっぱり、ラベンダーだ…!」

まるで花の香に誘われた蝶や蜂のように、どこかふわふわとした夢見心地な足取りで鉄柵に近づいて。
軽く目を閉じると、胸いっぱいにその芳香を吸い込んだ。
流石はリラックス効果があると言われるだけあって、仕事の疲れが幾分和らいだような気がする。

特急と連絡の良い電車の時間までかなり間があったことと、道路に人影がないのをいいことに、深呼吸をしてはうっとりと花を眺める…ということを暫く繰り返していたら、不意にガラリ…と庭に面した掃き出し窓が開いた。
完全に気を抜いていた私は、驚きのあまりその場に硬直。
そしてカーテンの陰から姿を現し、すらりとした白い足先にサンダルをつっかけながら庭へと降りて来た女性の姿に、思わず大きく目を見張った。

肩のあたりでゆるく一纏めにされた髪は、綺麗な胡桃色で。
形の良い眉、くっきりとした二重まぶたの下の大きな瞳は、まるで良質の茶水晶のようだ。
すっ…と通った鼻梁といい、大きすぎず小さすぎず、摘みたての苺のような唇といい…それこそ、
絵に描いたような美女だ。
それでいて、全身に纏う空気は酷く優しく穏やかで、とっつきにくさは微塵も感じない。
そう…まるで以前旅行で訪れた古い教会の入り口に建っていた白亜のマリア像に、神様が色彩と命とをお与えになったかのような…そんな不思議な雰囲気だ。

その女性が、私の姿を見留めて軽く首を傾げた。
きょとん…という擬音が聞こえて来そうなどこか幼い仕草に、思わずどきり…と鼓動が高鳴る。
年の頃は、二十代半ばから後半…と、私と幾らも違わないと思うのだが、その愛らしさは至極自然で、あざとさは感じない。

まるで映画のワンシーンでも目にしているような、どこか非現実的に感覚に浸っていた私を、「何か御用ですか?」と優しく尋ねるソプラノの声が現実へと引き戻した。
慌てて首を横に振り、しどろもどろな口調で、ラベンダーの香りに惹かれて、つい立ち止まってしまったのだ…と説明する。
すると女性は、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。

「夫の母が…もう故人なんですけど……かつて夫の実家の庭で育てていた株から、分けていただいたものなんです」

その口調と表情から、彼女がどれだけ旦那様と旦那様のご家族とを大事になさっているのか、そしていかに良好な家族関係を築いているのかが、何とは無しに透けて見える。

「ラベンダー、お好きなんですか?」
「はい」
「でしたら、少し持っていかれませんか?
お切りしますので」
「え……良いんですか?!」
「ええ。好きな方に愛でていただけるのですもの、義母もきっと喜びます」

ふわり…と笑って。
女性は一度家の中へ戻ると、手に花切り鋏を持って再び庭へと降り立った。
そして花穂のついた茎を数本切り取ると、家の中へと向かって少し大きめの声を張り上げた。

「かずくーん! この前、いちかちゃんのママから貰った千代紙、一枚持って来てくれる?」

はーい!…と、幼児特有の高い声が聞こえて。
トテトテ…という軽い足音とともにひょこりと窓から姿を現したのは、女性よりも更に一段明るい髪色…まるで、夕陽を紡いだような頭髪を持つ、小さな男の子だった。

「おかしゃん、これでいい?」
「うん! ありがとう、かずくん」

女性が男の子から千代紙を受け取り、花穂をブーケのように包んでいく。
男の子は私と目が合うと、軽く目を見張ったあとで、ぺこり…と頭を下げてきた。
女性によく似たくりっとした大きな瞳が、その髪色とともに強く印象に残る顔立ちだ。

やがて花穂を包み終えると、女性は私の方へと歩み寄り、柵越しに花束を差し出してくれた。
そのスカートの影に隠れるようにして、男の子がチラチラとこちらを盗み見ている。
私はお礼を口にしながら花束を受け取ると、実は今日が誕生日なのだと告白した。

「わ…! それはおめでとうございます!!」
「ラベンダーは誕生花でもあるので…おすそ分けいただいて、本当に嬉しいです」

ありがとうございました…と、もう一度頭を下げると、「それなら尚更、お引止めした甲斐がありました」と女性がふうわりと微笑む。

「あのね、あのね! ぼくのおとしゃんも、もうすぐ誕生日なの! だから今日はね、おかしゃんと一緒にナイショのプレゼントと、ケーキの材料を買ってきたんだよ!」
「そうなんだ! それはすっごく楽しみだね!」

笑顔で相槌を打ちながら、果たしてナイショのプレゼントとやらは最後までナイショのままでいられるのかしら…と、他人事ながら一抹の不安が脳裏をよぎった。
子供相手のナイショの約束ほど、アテにならないものはないのだから。


最後にもう一度お礼の言葉を口にし、頭を下げて親子の元を立ち去る。
角を一つ曲がったところで、長身の男性とすれ違った。
思わず振り返ってしまったのは、その高身長と整った顔立ち、スタイルの良さもさることながら、頭髪の色に目を奪われたからだ。

それ、は。
まるで今、この時の空のように、鮮やかな夕焼
け色をしていたのだった。


















終
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