冬恋詩~ふゆのこいうた
1月3日。
俺一人残った自宅は、とても静かで。
親父や妹達の狙いどおり(?)、受験勉強の進みはかなり良かった。
黙々と向き合う、問題集と参考書。
しかしながら、正午を過ぎて。
窓から差し込む陽の光が次第に橙色を帯びて来るのに従って、俺は段々と落ち着かない気分になってきていた。
………いっそ明日の夕方、ここで出待ちすっかな。
昨日耳にした見知らぬ男の声が、脳裏に木霊する。
もしもあの男や別の誰かが、それを実行に移したら?
そしてその男の告白を、井上が受け入れたとしたら?
うん……それならまだ、いいんだ。
いや勿論、俺的には全然よろしくないのだけれど、少なくとも、井上は幸せになれるって事だから。
寧ろ、気がかりなのは。
井上が、交際の申し込みを断って。
その事に逆上した相手に、何か危害を加えられるような事があったりしたら?……と、言うこと。
最近は特に、おかしな奴が多いから。
「……………井上…」
闇色が、空の半分を覆い始めた頃。
俺は上着をひっつかみ、家の外へと飛び出していた。
神社に着くと、散歩する風を装って外周を一周。
幸い、怪しげな人影は無い。
ほっ……と一息吐きつつ、参道の入り口から井上の居る売場の様子を伺った。
三が日最後の夕暮れ時ともなれば、境内には参拝客の姿も既に無く。
そろそろ仕舞いにしましょうか……と言う神主さんのものらしき声が、俺の耳にも微かに届いて。
思わず、境内に足を踏み入れた。
神社に来るまでの道中、ずっと。
いや、昨日水色に言われてから。
………いいや、それも違う。
そんな、最近の話なんかじゃなくて。
もうずっとずっと以前から、俺は心の奥底で叫び続けていたんだ。
彼女を、他の誰にも渡したくない………って。
昨日引いた、お神籤の結果を思い出す。
恋愛欄に書かれていたのは、「先手必勝」の四文字。
「………一か八か…やってみるか」
口の中で呟いて…歩く速度を、僅かに上げる。
売場では俺に気づいたらしい井上が、その大きな目を一段と大きく見開いて、こちらを凝視していた。
困惑した表情で俺を見つめる井上に、未だ大丈夫かと問えば。
彼女は慌てたように「どうぞ」と肯いた。
「………何か、買い忘れ?」
「ん………まぁ…ちょっと、な」
目の前に並んだお守り袋を、じっと見つめる。
どくん…どくん……と鳴る自分の鼓動が、やけに大きく耳についた。
井上に聞こえてしまわないかと、心配になるほどに。
静かに深く、呼吸して。
意を決し、俺は一つのお守り袋を手に取った。
袋に縫い取られた刺繍の文字は「恋愛成就」。
あわよくば、それで俺の気持ちに気づいてくれはしないか……という、希望もあったんだ。
だけど………。
井上に渡した瞬間、彼女の表情が強ばった。
必死に取り繕うとしていたけれど、昨日よりも一昨日よりも遙かに手際の悪い様子に、彼女が動揺しているのは明白で。
………なあ、井上。
お前…今、何を考えてる………?
やがて。
包み終わったお守りを、井上が俺に差し出した。
「御利益がありますように………」
声が震えているように聞こえたのは、俺の気のせいか?
無理をして笑っているように見えるの、も。
………ごめん、な?
こんな、試すような事をして。
でも…もし井上がひとかけらの動揺もなく、屈託のない笑顔をみせたなら。
俺の事なんて眼中に無いものと諦めて、何も言わずに帰るつもりで居たんだ。
でも、さ?
今のお前の、その顔。
そんな切なげな表情を見せてくれるって事は、さ。
俺……期待しても、いいのかな………?
受け取った包みを、上着の胸ポケットに仕舞って。
バイトはもう終わりかと尋ねれば、こくりと肯く井上。
「家まで、送る」
驚いて目を見張った井上が何かを言いかけるよりも先に、前のコンビニで待っていると告げて。
踵を返して、走り出す。
どうか……どうか、神様。
この想いを、彼女にきちんと伝えられますように。
そして、願わくば。
彼女がそれを、受け入れてくれますように………。
強く強く心の中で祈りながら、鳥居の下を駆け抜けた。
コンビニで待つこと、約20分。
時間潰しにと雑誌を数冊めくってみたけれど、視線は紙面を滑るばかりで、何も頭に入っては来なかった。
………やがて。
店の硝子越し、俺の正面に井上が立った。
その表情はどこか不安げで、俺の心中を探ろうとでもするかのように、瞳の奥をのぞき込んでくる。
急いで店外に出ると「じゃ、行くか」と短く声をかけ、先に立って歩き出した。
俺の隣には並ばすに、少し後ろをついてくる井上。
幾度か思い切って振り返ってみたけれど。
その度にびくり…と身を竦める井上の様子に、隣に誘う事は出来なくて………。
会話もないまま、数分。
気づいてみれば、そこはもう井上の暮らすマンションの前だった。
「どうもありがとう、黒崎君」
井上の声に背後を振り返れば、彼女は薄茶の瞳をくりっとさせて。
どこかおどけたような声音で、俺に言った。
この先、好きな子以外にこんな事しちゃ、ダメだよ………と。
ああ…そうだよ、井上。
俺が今日、神社まで行ったのも。
ここまでお前を、送ってきたのも。
全部、全部……お前だからだ。
お前だからこそ………。
「また、新学期にね!」
………行くなよ、井上。
此処から。
俺の、傍から。
だって、俺は。
俺、は………!!!
「…井上……っ!」
振り返った井上が、戸惑ったように小首を傾げる。
俺は体中から、勇気と声とを振り絞るようにして、彼女に告げた。
「…………俺…井上が、好きだ…」
………だけど。
井上はその場に凍り付いたように動かないまま、いつまでも返事は返ってこなくて。
高揚していた気持ちが、急激に冷えていく。
やっぱり……彼女は俺の事なんて、何とも思っていなかったのかな…って。
脈ありと思えた様々な仕草も言葉も、結局は俺の勘違いに過ぎなかったのか……と。
のろのろと、胸ポケットからお守りを取り出す。
目の前に掲げて揺らしながら、うっすらと苦笑した。
今の俺がすべき事は、これ以上、井上を困らせないこと。
だから、敢えて冗談めいた口調で呟いてみせた。
「御利益、無かったか………」
悪かったな………と、出来るだけ明るい口調で言って。
「じゃあな」と手を挙げ、踵を返す。
あまり上手に笑えなかったけど、勘弁してくれな?
始業式には、さ。
それまでには……今までどおりの只の仲間に戻って、普通に挨拶してみせるから………。
ゆっくりゆっくり、踏みしめるように歩いていく。
そうして、何メートルくらい進んだろうか。
背後から駆け寄る、軽い足音が一人分。
井上が追ってくるなんて…そんな都合の良いことがある筈無い……と。
必死に振り向くのを堪えていた俺の耳に、届いたソプラノ。
「待って……っ!」
それは間違い無く、彼女の声で。
慌てて振り返ろうとした瞬間、何故だか腰に、強い衝撃を受けた。
「うぉあっ?!」
そのまま体勢を崩し、地面にどさりと落ちる。
呻きながら起こした身体には、妙な違和感があって。
視線を下に落とせば、腹の上に乗った小さな二つの手が見えた。
井上の腕が、背後から俺の胴に回されているのだと気づき、かっ……と身体が熱くなる。
慌てて立ち上がろうとした俺を引き留めるように、きゅう…と井上の腕の力が強まって。
狼狽えて彼女の名を呼んだ俺の鼓膜に、とても微かな彼女の声が届いた。
「……す、き………です……。私も…くろさ…くん、が………すき………」
………瞬間。
明るく弾ける、視界。
晴れた日に、勢い良くカーテンを開けた時のように………。
そして。
心の奥、溢れて止まらなくなるのは、彼女に対する愛おしさ。
「井上……」
夢じゃ、ない。
夢なんかじゃ、ない。
だって……地面に打った尻が、未だこんなにも痛むから。
大きくひとつ、息を吐き出す。
俺にしがみついたまま泣きだした井上の手を、そっとほどいて。
彼女に向き合うように、身体を180度反転させる。
彼女の肩に手を置き、ゆっくりと俺から離して。
俯いたままの彼女の耳に、静かに囁いた。
「ありがとな、井上…………」
弾かれたように顔をあげた彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
頬を包むようにして添えた手、その親指で涙を拭き取って。
愛しさのままに、彼女を引き寄せ抱きしめた。
躊躇いがちに、彼女の腕が俺の背に回る。
そんな彼女の仕草が嬉しくて、ちょっとだけ抱く腕の力を強くした。
そして……もう一度、彼女の形の良い耳に向かって囁く。
ありったけの、彼女への想いを込めて。
好きだよ…………と。
黒崎一護、18歳。
「護るべきたったひとつ」を得た、冬の日の出来事………。
終