アンソロジー寄稿作



窓から緩やかに吹き込む風が、天蓋から垂らされた薄布を静かに揺らす。
時折、鳥のさえずりや葉擦れの音が聞こえる以外に特段物音のしない室内で、俺の耳は微かに響く井上の呼吸音をだけを注意深く拾い上げていた。
それが苦しげでは無いことに安堵しつつも、相変わらず血の気の失せた青白い顔を目にすれば、不安と心配とで、心臓をぎゅう…と握り潰されたような感覚に襲われる。

「勇音さんは、命に別状は無い…って言ってたけど……」

加えて、現世とは比較にならないほど霊子濃度の高い尸魂界に居るのだから、回復も早い筈だ——とも説明されていた。

「それでも、なぁ……」

平時での井上の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
喜怒哀楽を素直に反映してくるくると変わる表情と、健康的な薄紅色の頬。
印象的なその二つの要素を欠いた目の前の井上は、間違いなく本人であるはずなのに、どこか見知らぬ他人のようにも映る。  
 
「相当、無理をしたのかな……」

恐らく井上自身には、そんな自覚は無いだろうけれど…と、彼女が兕丹坊の腕を直したときの記憶を掘り起こしながら、溜息を吐く。
優しすぎる上に、どこか自分自身の命を軽んじている節のある井上は、一度治療に集中してしまうと、自分のことについては二の次、三の次…と、どこまでも下方へと優先順位を下げていってしまうのだ。

これまでは、鈍感で気の利かない俺はともかくとして、石田やチャド、夜一さんや浦原さんあたりが、それとなく井上を気遣い、旨く休憩を取らせていた。
しかしながら、流石に今回ばかりは、仲間内の誰しもにそこまでの余裕など無かったのだ。
 
「……ごめんな」

呟きながら、改めて井上の寝顔を見つめる。
睫、随分と長ぇんだなぁ…なんてことを、ぼんやりと思って。
そう言えば…と、こんなにも近くでじっくりと井上の寝顔を眺めたことなんて、これまでのつき合いの中で一度も無かったことに気が付いた(まぁ同性じゃねぇんだし、特別おかしなことでは無いのだろうけれど)。

ヤミーから俺を庇おうとして井上が重傷を負った際には、自分のせいで…という負い目の感情があまりに強くて、井上が起きているときにホンの数分見舞うのが精一杯で。
銀城達を倒した後のことについては、井上が完全に月島の術から脱していると確認できるまで、時折障子戸の隙間から様子を伺い見ることはあっても、側近くに長居することは出来なかった。

今思い返しても、我ながら卑怯で情けねぇ話だとは思う。
だけど…意識を取り戻した井上から、あの濁りのない真っ直ぐな瞳を向けられて、月島の生死など問われたりしたら——。
正直、冷静に受け答えする自信など、当時の俺には皆無だったのだ。

井上の記憶から、月島のことがすっぽりと抜け落ちたと知って。
偽の記憶を挟まれている間中、井上が月島へと向けていた笑顔が、再び俺へと向けられたあの日、あの瞬間——俺はどれほど、安堵したことだろう。

「ゆっくり休んで、目が覚めたら…そしたらまた、いつも通りに微笑ってくれよな?」

問いかける言葉に、当然ながら返事はない。
30分、1時間……と時間が過ぎていくうちに、いつしか俺の胸には、じわりじわり…と焦りと不安とが広がり始めていた。

『もしも…もしも、勇音さんの見立てが誤りで。
井上がこのまま、目を覚まさない…などということがあったら……?』

ふいに脳裏を掠めた不吉極まりない未来図に、頭から冷水をかけられたような悪寒が、瞬時に全身を覆っていく。
 
『万が一にも、そんな未来などあってたまるか!』

膝に乗せていた手を、掌に爪が食い込むほど強く握りしめた。
無意識に食いしばってしまった奥歯もまた、ぎり…と嫌な音を立てて軋む。

『何か、俺に出来ることはないだろうか……』

暫し、思案して。
俺はおもむろに井上の胸元あたりに手をかざすと、静かに目を閉じた。

鬼道の才、特に回復系の能力は空っきしであることは、誰に指摘されるまでもなく承知している。
けれど、例えどんなに微力だろうと、ただ傍らにぼけーっと座っているよりは、なんぼかマシに違いないと考えたからだ。

だがしかし、である。

初めて尸魂界に来て、空鶴さんのところで砲弾を作る練習をしたときもそうだったけれど…俺は色や形がないものを、まるで目に見えるもののように、触れられるもののように想像する…ということが、恐ろしく苦手なのだ。
少なくとも30分は集中して頑張った筈なのだが、ちろり…と薄目を開けて井上の顔色を伺えば、全く改善された様子がない。

「くそ、やっぱり上手くいかねぇっ…!」

あんまり自分が不甲斐なくて、情けなくて。
両手を頭髪の中に突っ込み、ぐしゃぐしゃとかき毟りながら、ついうっかり、そこそこの声量で悪態を吐いてしまった。
その、直後。

「……ん…」

微かに耳に届いた声に、ぴきっ…とその場に凍り付いた。
恐る恐る瞼を持ち上げれば、苦しげに顔を歪めた井上が、目を閉じたまま布団の中で身じろいでいる。

『——やべ、起こしちまったか……?』
 
固まったまま息を詰めて様子を伺っていると、やがて井上は、ころり…と俺の座っている側に顔を向ける形で寝返りを打った。
程なくして、再び規則正しい寝息を立て始める。

俺は音を立てないよう慎重に椅子に座り直すと、どほーっと重く息を吐き出した。
回復を助けるどころか、安眠妨害しているようでは話にならない。

ごめんな…と、口の中だけで呟いて。
ほぼ同時に目に留まったのが、井上の手首から上の部分だった。
寝返りを打った拍子に、掛け布団の外に投げ出されてしまったのだろう。よくよく見れば、肩もまるっきり剥き出しの状態になっている。

布団をかけ直してやろうと腰を浮かせば、たまたま彼女の胸元がモロ視界に入ってしまった。
慌てて視線を逸らせたけれど、服の間から覗く胸の谷間と肌の白さは、俺の網膜に鮮明に焼き付いてしまって。
思い出すな、気にするな…と理性が叫べば叫ぶほど、健全な青少年としての本能は、脳内での映像再生を繰り返してしまう。

「……全く…浦原さんも井上も、何を考えているんだか……」

こんなトンデモ衣装を作る浦原さんも浦原さんだが、俺が喜ぶだろう…などと言われて素直に着てしまう井上も、正直如何なものだろうか。
まぁ、そんなところも、井上らしくて可愛いけどさ……。
 
「——って、こんな時に何考えてんだ、俺は!」

雑念を払うべく、頭を一振りして。
井上の肩の上までそっと掛布団を引き上げ、ついでに胸元も見えなくなるように布団の端を引っ張り、最後に、手を仕舞ってやろうと細い手首を軽く掴んだところで、はた…と思いついた。 

井上に直接触れながら、なら。
それならば。
もう少し旨く、回復鬼道を使えるんじゃねぇのかな……と。

一度、井上の手を離して。
椅子に腰掛け直すと、目を閉じて呼吸を整える。
ゆっくりと瞼を持ち上げて。
今度は井上の掌を覆うようにして、そっと自分の手を重ね置いた。

再び、目を閉じて。
手から手へ…と霊力が流れていく様子を、脳内でイメージし続ける。
それは、空中に手をかざしているときに比べたら、何倍も容易なことに思えた。
重なる掌から伝わる井上の体温が、イメージの構築を助けてくれたからだ。

『…頑張れ、井上……!』 

俺はただひたすら無心に、井上の回復を祈り続けた。
 






……どのくらい、時間が経ったのだろう。

俺が再び目を開けたとき、部屋に差し込む日差しの色は、橙色を帯び始めていた。
眩しさに、目を細めて。
明るさに目が慣れたところで、井上の顔へと視線を移す。

井上の寝顔からは、寝返り直後に刻まれていた眉間皺が綺麗に消えて。
何よりもその頬には、ほんのりと薄紅色が戻ってきていた。
ほう…と。肩が大きく下がるほど深く、安堵の息を吐きだす。
そして、重ねていた手を離そうとした……の、だが。

「——っ、!」

うっかり声を出しそうになって、慌ててもう片方の手で口を塞いだ。
何とはなれば。
井上の細くて白い指が、俺の指先をきゅう…と掴んできたからだ。
まるで、手を離さずにいてくれ…とでも言うかのように。
 
「まさか…起きてるわけじゃねぇよな……?」

ひらひらと井上の眼前で手を振ってみたが、何の反応も無い。
良くも悪くも井上は嘘をつけないから、狸寝入りしているとも思えなかった。

さて、どうしたものか…と、天井を見上げて溜息を吐いて。
再び視線を井上の顔へと戻した俺は、軽く目を見張って息を飲んだ。
 
『……なんて顔してんだよ』

口の端にほのかな笑みを刻み、心底安心しきった表情を浮かべて眠る井上。
それはまるで、甘えん坊の幼い子供のようで……。
例えば井上の兄貴が生きていた頃には、こんな風に手を繋ぎながら、眠りに就く夜もあったのだろう——そんなことを、ふ……と思う。
それこそ、今、この瞬間。
井上は夢の中で、兄貴と幸せな時間を過ごしているのかも知れない。

「仕方ねぇな……俺の手なんかで良けりゃ、もう少し貸しといてやるよ」

苦笑気味に、呟いて。
その直後に、大きな欠伸が口を吐いて出た。
井上の状態が上向いたことに、俺の気もまた緩んだのかもしれない。
ここ数日、朝から晩まで復旧作業に奔走していた俺の体だって、それなりに疲労を溜め込んでいるのだ。
そして、一度眠気を自覚してしまえば抗うことは難しく、瞼は一層重くなり、意識は朦朧としてくるばかりだった。

「……駄目だ、すっげぇ眠ぃ…」
 
もう一度、大口開けて欠伸をして。  
ホンのちょっとの間だけ……と、眠れる井上に心の中で言い訳しながら、ベッドの端にうつ伏せる。
俺と井上の手は、重なったまま。
そこから伝わる井上の体温、その心地良さは、ゆるゆると…でも確実に、俺を夢の国へと誘っていった。

「元気になったら…皆で一緒に、現世に帰ろ…な……」 

俺の声が聞こえたわけでもないだろうに、微かに強まる井上の指先。
俺もまた、ほんの少しだけ力を込めて、井上の小さな手を握り返した。
 
「…おやすみ、井上……」





潮が引くように、意識が遠のいていく——その、間際。
さや……と。
窓から吹き込む風が、俺の髪を柔らかく乱していった。
その、くすぐったさを伴う優しい感覚は、まるで幼子の頭を撫でる父母や兄姉の手のようで……。
知らず、口元が綻んだ。







終
3/3ページ
スキ