アンソロジー寄稿作
【優しい雨】
ぱしゃん……と。
車が水飛沫を跳ね上げる音で、目を覚ました。
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、至近距離に黒崎君の寝顔。
とくん…と鼓動を高鳴らせながら見つめたその顔は、眉間の皺が消えているせいか、起きているときの彼よりも、ほんの少しだけ年若く見える。
……ううん。
むしろこの寝顔こそが、彼の本当に素のままの表情なのかもしれない。
10代半ばの頃から、周囲の男の子達に比べて、ずっとずっと大人びた顔つきをしていた黒崎君。
恐らくは…お母さんの死と共に、彼の無邪気な子供時代もまた、終わってしまったのだろう。
加えて死神代行となったこともまた、彼が大人になることを急がせたのに違いない。成人にすらして達していない身で、彼は何度もその肩に世界の存亡を背負って、戦い続けてきたのだもの……。
そんな事をつらつらと考えてきたら、切ない気持ちが胸の奥からじわじわとこみ上げてきて。瞼の裏側が熱くなるのを感じながら、そっ…と彼の前髪に触れてみた。
いつものように整髪剤のつけられていないその髪は、ふわふわと柔らかくて滑らかで……まるで、橙色に染め上げられた極上の糸のようだ。
ぱしゃん……。
再び、派手な水音が聞こえて。
私は黒崎君を起こさないように細心の注意を払いながら、そろり…と上体を起こした。
腕を伸ばし、カーテンの端をそっとめくる。
案の定、窓の外は雨だった。
空を覆うは、重く垂れ下がった鉛色の雲。
静かに降り注ぐ粒の細かい雨は、銀色に光る軌跡を長く引いて。それが幾重にも重なって、まるでオーガンジーの布越しに見ているかのように、世界を白く霞ませている。
「これじゃあ、今日のお出かけは無理かなぁ…」
ほう…と。ひとつ、溜息を吐いた。
事前に黒崎君と立てていた計画では、少し離れた隣町の公園まで歩くことになっていたのだ。
お弁当と水筒を持って、ちょっとした遠足気分を味わおうと。
残念……と、口の中で独りごちる。
だけど心の片隅では、どこか安堵してもいた。
昨日、駅までわざわざ出迎えに来てくれた黒崎君の顔を見た瞬間、私は思わず息を飲んで立ちすくんでしまったのだ。それはそれは酷い隈が、彼の目の下を痛々しく彩っていたから……。
彼、曰く。レポートを仕上げるのに思っていた以上に時間がかかり、ここ数日殆ど眠っていなかったのだ…とのこと。
「それなら、予定をキャンセルしてくれても良かったんだよ……?」
私との約束があったばかりに、必要以上の無理をさせてしまったのだろうか…と。申し訳なさに泣きそうになりながら、呟けば。
彼は苦笑気味に微笑みながら、ゆっくりとその首を横に振ってくれた。
「お前の所為とか、そんなんじゃない。単に俺が、逢わずにいることに我慢できなかったんだ」
それから繋いでいた手を強く引き、電柱の影へと私を引き込むと、苦しいくらいに力強く私を抱きしめて。
やっと、充電出来る…と。
掠れた声で呟きながら、優しいくちづけを私の唇に落としてくれたのだった……。
「ふふ…嬉しかったなぁ……。吃驚もしたし、ちょっと恥ずかしくもあったけど」
普段の黒崎君なら、人前で手を繋ぐことにも躊躇する。だから、いくら深夜近くて人通りの無い住宅街の小道だったとは言え、あんな大胆なことをされるとは夢にも思わなくて……。
それだけ彼も、私に逢いたいと願ってくれていたのかと思えば、嬉しさで胸の奥と瞼の裏が熱くなってくる。
……幸せだなぁ。
ふ、と小さく微笑んで。
その弾みでうっかりこぼしてしまった涙を慌てて指先で拭いながら、すんっ…と軽く鼻を啜った。
その、瞬間。
「……ひゃあぁっ」
突然、強い力で布団の中へと引きずり込まれて。
戸惑う暇すら与えられずに、唇を塞がれてしまった。
「…ん、」
次第に深まるくちづけに、呼吸が出来ずに苦しくなって。酸素を求めて必死に反らせた喉に、ちりり…と微かな痛みが走る。
「…くろさき、く……?」
私に覆い被さっている彼の身体が、少し重くて。
苦しい息の下、掠れる声で名を呼べば。
私の首筋に唇を押しつけたままの黒崎君の口から、ぼそり…と低い声が漏れた。
「別れる…とか、そんなの絶対ぇに認めねぇし」
「…………え、と?
私の言動の何処をどう解釈すれば、そういう発言へと繋がることになるのかしら?」
困惑を声に出さないよう、努めて。
母親が子供を宥めるように、彼の背を撫でつつ静かに問いかければ。
彼から返ってきたのは「腕の中から、抜け出したじゃねぇかよ…」と、それはそれは、盛大に拗ねまくった声。
「……俺の隣は、嫌なのかよ」
「お天気が気になって、窓の外を見ていただけよ?」
「……溜息、吐いてた。鼻も、啜ってただろ」
「だって、あんまり幸せな気持ちだったから……」
「……幸せ?」
「うん。昨日のこと、思い出してて……ほら、道端で…その…」
「…………」
ゆっくりと、黒崎君が顔を上げて。
漸く重なり合った、視線の先。前髪の隙間から覗く茶の瞳には、不安とバツの悪さとが入り交じって揺れていた。
「おはよう、黒崎くん…」
出来うる限り、優しく微笑んで。
そっと…軽く触れるだけのくちづけを、彼に贈る。
「……はよ、井上」
挨拶の言葉と共に返された彼からのキスは、私からのものよりも、ほんのちょっびり長めだった。
「雨…降ってんのか……?」
「うん」
「そっか…」
どおりで、肌寒いわけだ……と。そう呟きながら、今度は私の肩口に額を押しつけてくる黒崎君。
身体は脇へとずらしてくれたから、呼吸は随分と楽になったけど、頬に当たる橙色の髪が、少しくすぐったい。
いっそ私から頬を擦り寄せてみれば、身体に回されている彼の腕の力が、至極僅かに強まった。
「あったけぇな…」
「うん…」
「……すっげぇ、落ち着く…」
「黒崎くん…」
ふぅ…と。
彼の口から、深くて重い吐息が漏れる。
「……やっぱり、雨は嫌い?」
片方の手で、ゆっくりと彼の背を撫でて。
もう片方の手の指先で、橙色の髪を弄びながら尋ねれば、数拍の間を置いた後、自嘲とも苦笑ともとれる響きを含んだ声が、胸元から上がった。
「……好きには、なれねぇな…」
その言葉に、締め付けられるように痛む胸。
あんなに何度も命をかけて戦って、沢山の命を救ってさえも、彼の心の傷が癒えることは無いのか…と。
だけど、それはやはりどうにも仕方のない事なのかもしれない。
時折お邪魔させていただくだけの私ですら、容易に理解できるのだ。黒崎君とご家族にとって、お母様の存在がどれほど大きなものであるか…と、言うことは。
こみ上げてくる切なさと、馬鹿なことを訊いてしまったという後悔に、そっと唇を噛みしめる。
そのとき、だった。
「井上、は?」
「…え?」
自分の思考に沈み込んでいて、反応が遅れた。
何を問われたのかを咄嗟には理解出来ず、瞬きを繰り返す。その間に、黒崎君は軽く上体を起こして、私の頭と同じ位置まで身体をひき上げると、頬杖をつきながら私の顔をのぞき込んだ。
「井上は…雨、好きなのか?」
「……うーん…」
黒崎君から視線をはずし、天井をぼんやりと眺めながら暫し思案する。
ここで「私も、好きじゃない」と応えるのが、「彼女として」の模範的解答なのかもしれないけれど、そんな追従を望むような彼ではないし……。
「嫌いには、なれない……かなぁ…」
躊躇いながらも、正直に応えて。
恐る恐る彼へと視線を戻せば、そこにあったのは穏やかな微笑みだった。
そっか……と。
目を細めながら相槌をうってくれる姿に、密かに安堵の息を吐く。
「それって、何か理由があんの…?」
黒崎君へと向き直った拍子に、頬にかかってしまった髪一筋。それを耳の後ろへと払ってくれながら、彼が再び問いかけてきて。
不器用ながらも優しい手つきに、うっとりと目を閉じながら、私は「お兄ちゃんの影響かな…」と呟いた。
「昊さん、の…?」
「うん…多分、そうだと思う……。
お兄ちゃんが好んで聴いていたCDの中に、雨の恵みを歌ったものがあって…私もそれ、好きだったし。
それに…お兄ちゃん自身が、雨が降ることに対して、あまりネガティブな言葉を使わない人だったの。
例えば『木やお花が喜ぶね』とか、『これでまた一歩、春に近づくよ』とか、冬場なんかだと『この湿気で風邪の流行が収まるといいね』とか…」
「ふぅん…」
……やっぱり、お前の兄貴は凄ぇな。
そう言いながら、私の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す大きな手に、誇らしい気持ちが半分、切ない気持ちが半分。
いずれにしても、彼に対してどんな顔をして良いものかわからなくて。目を閉じたままされるがままになっていたら、ふいに耳朶に柔らかな感触。
え?…と思う間もなく今度は軽く甘噛みされて、悲鳴をあげながら慌てて目を開ければ、してやったり…と言わんばかりの表情で、黒崎君が私を見下ろしていた。
「………えっち」
軽く睨め上げつつ抗議をすれば、まるで悪戯に成功したやんちゃ坊主みたいな顔をして笑う。
そしてもう一度、くしゃり…と私の髪を軽くなぶると、彼はその視線を私の顔から外して、窓の方へと向けた。
「雨、止みそうにねぇな……」
「……うん」
話をしている間に、雨粒が大きくなったのだろうか。私か目を覚ましたときと比べて、随分はっきりと雨が屋根や窓を叩く音が聞こえる。
「これじゃあ、散歩は無理だな」
「……だね」
「どうすっか……代わりに、映画でも観に行くか?」
そう私に提案した直後、くわっ…と大口開けて欠伸をして。それからごそごそと肩まで布団の中に潜り直した黒崎くんは、私を引き寄せると、こつん…とおでこをくっつけてきた。
とくん…と鼓動が高鳴って。
嬉しさと気恥ずかしさから、身体が浮くような感覚に襲われる。
ああ…なんて、幸せなんだろう……。
「映画もいいけど……」
ゆるり…と、彼の首に腕を回して。
鼻の頭に軽くくちづけると、私からも別のプランを提案した。
「今日はこのまま…お部屋でのんびり過ごしませんか?」
「……井上…?」
少し顔を離した黒崎君が、戸惑いを色濃く浮かべた表情で私の瞳を覗き込む。
「それじゃあ、折角ここまで来た甲斐ってもんが…」
「甲斐なら、充分すぎるほどあったよ?
だって…黒崎君と逢えて、お話が出来て、一緒のベッドで眠れて。今だってこうして、ぎゅっ…てして貰ってる。
こんなに嬉しくて、幸せだなぁ…って感じるなんて、他にはそうそう無いことよ?」
「…いのう…え……」
「そりゃ…一緒にどこかにお出かけするのも、勿論好きだし楽しいよ?
でも別に、それが目的で黒崎君とお付き合いしているわけじゃないし、ここに来たのでもないもの」
「………」
「黒崎君と一緒に居られるなら、それだけで本当に充分なの。
それに…黒崎君、随分と疲れているみたいだし……。
もしも無理させて、体調崩されでもしたら…私、あんまり申し訳なくて。その後悔でこれから先、黒崎君と逢う約束することを躊躇うようになっちゃうかもしれない…」
「……そいつは、困るな」
ふ…と、苦笑して。
もう一度私の身体を引き寄せ、今度は髪に顔を埋めながら、黒崎君は「…適わねぇなぁ……」と呟いた。
「黒崎くん…?」
「……サンキュ、な。正直な話……今、無っ茶苦茶怠くて、眠くて…さ」
「うん。いいよ、気にせずに眠って?」
「……ごめんな」
「だから、気にしないで…って」
「や…そじゃなくて、さ」
「………?」
「情けねぇ、彼氏だな…って…」
「……そんな風に思ったことなんて、一度も無いよ?」
「………」
「大好きよ。いつでも、どんな黒崎くんでも……」
橙色の髪に頬を擦り寄せながら、彼の背中をぽんぽんっ…と叩く。
まるで、泣く子をあやすかのように……。
「ふふ……やっぱり、雨の日も悪くないって思っちゃうなぁ……」
「……何でだよ」
「甘えたさんな黒崎君に、逢えるから」
「…………」
「嬉しい、よ。こんな私でも、黒崎君の傍に居ていいんだ…って…そんな気持ちになれるから」
「……莫ぁ迦。一体何を言い出すんだ、お前は」
べしっ……と。
黒崎君の手が、私の頭を軽く叩いた。
「痛ぁっ!」
「……『こんな私』なんて言い方、二度とすんなよな」
「くろ…さ……」
「お前が居てこそ、なんだよ。だからこそ、俺は……」
「…くろさき…くん……」
ごめんなさい……と。
消え入りそうな声で呟けば、ぎゅう…と強く抱きしめられて。
涙が零れそうになるのを堪えながら、私もまた彼の背にしがみつく。
音が響く、部屋の中で。
私たち、ふたり…どのくらいの時間、そうして抱き締めあっていただろう……?
やがてゆるゆると、彼の腕から力が抜け始めて。
ひどく眠たげな声が、いのうえ…と私の名を呼んだ。
「……なぁに?」
「お世辞とかじゃ…ねぇ、から……ホントに…」
「黒崎くん…」
「………あの、さ」
「うん…?」
「いつもなら、さ……二度と、眠れねぇんだよ。雨音で、目が覚めちまった時には…さ……」
「…っ、」
「………すげぇ…落ち着く……おまえ…の、鼓動…と…体温……」
すう……と。
彼の呼吸が、安らかな寝息へと変わる。
その規則正しい音と、静かな部屋に響く雨音に眠気を誘われて。ひとつ小さく欠伸をすると、私もまた、静かに瞼を落とした。
『二人一緒に、居られるならば
雨音でさえも、優しい子守歌になる』
眠りに落ちる、その間際に
ふ、と…そんな事を、思いながら……。
終
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