Engage
※ そして、三年後……
ふぅ……と。
大きいとは言えないけれど、小さいとも言い難い吐息が、井上の口から漏れる。
そのかそけき音を鼓膜に捕らえた俺の肩が、反射でぴくりと…跳ねあがった。
床に落としていた視線をそろり…と上げれば、普段は穏やかに緩んでいる眉間には、俺の専売特許であるはずの深い深い縦皺が刻まれている。
手にした紙へと向けられた視線は、紙を射抜かんばかりに真っ直ぐで。
薄茶色の綺麗な瞳には僅かな動揺すら見受けられず、静かに落ち着いた色をしていた。
そのことに、寧ろ恐怖を感じる俺。
暖房の効いた部屋の中にいるにも関わらず、吹雪く屋外へと放り出されたような寒気が全身を覆う。
「………約束、だよ。黒崎くん」
長い長い沈黙ののち、俺と視線を合わせながら、井上がゆっくりと口を開いた。
視線を逸らせたくて、でも、出来なくて…ただ身体を強ばらせて、続く言葉を待つ。
緊張のせいで痛いくらいに乾いてしまった喉に、ごくり…と音を立てて、無理矢理唾を流し込んだ……その、直後だった。
「一度、白紙に戻そうね……?」
その言葉、に。
心臓を抉られるような痛みを胸に覚えつつ、きつく目を閉じる。
「……………わかった」
掠れた声を、喉の奥からどうにかこうにか絞り出しながら。
膝に乗せていた両手を、掌に爪が食い込むほどに強く握り込んだ。
ルキアの結婚式から、数日後。
俺はついに、井上に「いつか、必ず」と約束していた言葉を伝えた。
恋次に背中を押されたから、だけじゃない。
未だ学生の身分ではあったけれど、大学での成績はそこそこ上位をキープし続けていたし、鰻屋のバイトにしても、俺を指名してくれる固定客がつくなどして、多少なりとも自分に自信を持てるようになっていたからだ。
だが、しかし……である。
笑顔を見せてくれるとばかり思っていた井上は、予想に反して柳眉を顰め、戸惑いも顕わに俺の顔を見返した。
そして、躊躇いがちに言ったのだ。
自分とのつき合いが、この先の勉学や就職活動の妨げになったりはしないのか……と。
勿論、告白前にそのことが脳裏を過ぎらなかったわけじゃない。
でもそれは、俺の努力次第でどうにでもなると思っていたし、何よりも俺自身に、「いつか」を先延ばしにし続けることの限界が訪れ始めていた。
片想いだと思いこんでいた時期に比べ、両想いだとわかった上で自分の気持ちを押さえる続けることは、想像の何倍もしんどかったんだ。
井上は暫くの間、口元に手を当てて考え込む様子をみせていたが、やがて俺に対して条件を出した。
それは、俺の三年生終了時の成績がこれまでと比べ僅かでも下がるようなことがあったら、その時点で一度全てを白紙に戻し、俺が無事に卒業して職を得るまで、以前通りの「仲間」の関係に戻るというもの。
……正直、内心大いに怯んだ。
今期は比較的苦手な科目を多く履修していたこともあったし、得意な分野にしても、どうにも教授との相性が悪かったり…など、苦戦を強いられていたから。
それでも俺は、黙って首を縦に振った。
そのくらいクリア出来ないようでは、昊さんに顔向け出来ないと思ったし、当時、井上が年輩の常連客から「孫と見合いをしてほしい」としつこく誘われていることを竜貴経由で聞かされており、これまでにない焦燥感を抱えていたことも大きかった。
かくて。
ついに交際をスタートさせた俺と井上だったが、それはもう「清い」と言う表現に尽きる日々だった。
俺の中で「お付き合い資格判定期間」という精神的縛りがあまりにも強く、先を急くことに対する罪悪感が半端なかった…というのが一番の理由だったが、例えば二人で並んで歩いているとき、偶然手や腕が触れただけで顔を真っ赤にする井上の様子を見ていると、軽々しく手を出すような真似はとてもじゃないけど出来ないと思ったんだ。
何よりも、少しでも井上が無理強いだと感じるようなことは、絶対にしたくなかったし……。
そんなこんなな俺たちの様子は、端から見れば、それまでと何も変わらぬように見えたに違いない。
だけど、電話やメッセージを送るのに必死に理由を探す必要もなく、「たまたま通りかかった」なんて言い訳抜きでバイト先に迎えに行けて、肩が触れるほどの近さに並び歩いてマンションまで送ることが出来て……それら全てが俺にとっては十分に大きな変化であり、幸福と感じる時間だったのだ。
でもその高揚した気持ちは井上が危惧していたとおり、無意識化のどこかで、俺の中の「緩み」へと繋がっていたのだろう。
自分では、告白以前と何も変わらず勉学に励んでいたつもりだった。
しかしいざ学年末となり、大学のパソコンから成績を開示してみれば、本当に僅かな差ではあったのだけれど、三学年末の成績は前年度までの成績を下回っていたのだ。
俺は暫くの間、ただ呆然と画面を見つめることしか出来なかった。
後ろで順番待ちをしている学生が居なかったら、そのまま何時間も座り込んでいたかもしれない。
大学によっては携帯から成績を見られるところもあるけれど、俺のところは学内に設置の専用パソコンからしかシステムにアクセス出来ないようになっている。
だから数日後、自宅に親父宛の成績通知が届くのを待って井上を自宅に招き、通知を見せ……そして、今現在の状況に至っている…というわけだ。
成績の下降は本当に僅かなものだったから、もしかしたらお目こぼしがあるかもしれない……そんな甘えた考えを、井上はばっさりと断ち切った。
そのことを、恨めしく思う気持ちはない。
寧ろ、井上らしいと思う。
身に纏うふんわりとした柔らかい雰囲気とは対照的に、一度こうと決めたら梃子でも動かない…そんな頑固さを持ち合わせていることは、仲間としてつきあってきた数年の間に、よく解っていたことだから。
だから俺は、井上の言葉に頷くしかなかった。
不安を感じつつも条件を呑むと決めたのは俺自身だったし、鰻屋で引き受けた屋外での仕事が原因で、土壇場で体調を崩しかけた…なんてことも、自己管理という側面から見れば、ただの言い訳でしかない。
よくよく振り返ってみれば、以前はアプリを利用して苦手範囲などを学習していた時間を、少なからずデート先の候補検索に使ったりしたなぁ…なんてことにも思い当たる。
そういった些細な油断の積み重ねが、結局は「白紙に戻す」という結果を生んだのだろう。
まさに、自業自得というわけだ。
「……そんな顔、しないで…?」
膝に置いた俺の手に、そろり…と井上の手が重なった。
反射的に視線を上げれば、至近距離に黒目がちの大きな瞳。
困ったように眉尻を下げ、口元にほんのり微かに笑みを浮かべながら、井上が俺の顔をのぞき込んでいる。
「別に、これきりもう逢わない…なんて話をしているわけじゃないんだよ?
黒崎君が嫌だと言わない限り、またちょくちょくお店のパンやお菓子を持って遊びに来るし、漫画や本も持ってくるし、そのついでに遊子ちゃんたちにお食事に誘われたら、遠慮なく上がり込んじゃうつもりだよ?
これまでと、ほとんど変わらない。
そうだなぁ…ほんのちょっとだけ、時間を巻き戻す…って感じかなぁ……?」
その『ほんのちょっと』を失うことが、何よりも辛ぇんじゃねぇか!……とは、口に出せなかった。
代わりに腕を伸ばして井上の肩を引き寄せ、その華奢な身体を腕の中に閉じこめてしまう。
「く、くく、くろさ…っ?!」
「悪ぃ…でも、今だけ……ほんの、少しの間でいいから…!」
耳元で絞り出すように囁けば、俺を押しのけようとする動きはぴたり…と止んだ。
井上の身体からゆるりと強ばりが解かれ、同時に、俺の肩に額を押しつけながら少しずつ体重を預けてくる…そのことが息が詰まるほど嬉しくて、胸の奥底からこみ上げてくるる愛しさに、抱きしめる腕の力を強くする。
胡桃色の柔らかな髪に頬を擦り寄せれば、仄かに甘い香りが鼻腔を優しくくすぐった。
「ねぇ、黒崎君…。私だって、淋しくないわけじゃないんだよ……?」
「……ああ」
「でも、ね…? 黒崎君が、お兄ちゃんに対して胸を張れるような人間になりたい…って言ってくれたみたいに、私だって黒崎君のお母さんに、胸を張れる私でいたいんだよ。
もしも私のせいで黒崎君の成績が下がったり、夢を叶えることの妨げになるようなことがあったら、それこそ申し訳なくて顔向け出来ないって思っちゃう……」
「井上……」
「黒崎君の足手まといになるのは、嫌。それだけは、絶対に嫌なの……」
「……わかった」
井上を足手まといだなんて、高校の頃から今まで一度も思ったことはない。
だけど、俺の不甲斐なさ故に彼女がそんな思いを抱いてしまうのならば、やはり俺が、俺自身を生きることを頑張るしかないのだ。
「あともう一年だけ、待っててくれ。絶対に留年なんてしないし、きちんと就職もしてみせるから……」
「……うん!」
華奢な肩に手を置き、ゆっくりと身体を離しいけば、俺を見上げた井上が、それはそれは綺麗に笑う。
「大丈夫だよ! 私の気持ちだって、あの日から全然変わっていないんだから……ううん…あの頃よりも、もっとずっと大好きなんだよ!!」
「い、井上…っ?!」
さらり…と凄い告白をして俺を仰天させておきながら、天然な井上は自分が何をしたのかまるで分かっていないようで、目を白黒させて狼狽える俺をきょとんとした顔で見返すばかり。
なんとなくムカッ腹が立った俺は、ぐい…と井上に顔を近づけると、にぃと意地悪く口の端を吊り上げた。
「…ど、どどどどうしたの、くろさきくん…?」
「覚悟しとけよ……次に告る時には、指環用意して臨むつもりだからな!」
その言葉は、俺にとっては一世一代の告白のつもりであり、井上に対しての強力なカウンターになる…筈だった。
だけど……。
「……あ…じゃあ三年前のあれは、やっぱりそういう意味じゃなかったんだ」
「………は?」
「やだなぁ、もう…あたしってば本当に自意識過剰で……あは、あははは…」
「い、いのうえ…?」
予想とは大分違った狼狽えかたをする井上に、戸惑いつつ首を傾げる。
やがて井上は困ったように微笑みながら、自分の左手の薬指を指し示した。
「三年前…ここに銀色のリボンを巻いてくれたでしょう? リボンの端についていた、綺麗な青い飾り玉と一緒に……」
井上の言葉に、俺は黙って頷いた。
ついでに言うなら、今、その飾り玉つきのリボンが、エンラクの首に巻かれているのも知っている。
「……あの、ね? 私の誕生石って、サファイアなんだよね」
「…っ?!」
「だから私、てっきりそういう意味も含んでのことなのかな…って……ずっとそう、思い込んでて………」
大きく目を見開く、俺の視線の先で。
それこそ熟れた苺のように頬を真っ赤に染めあげた井上が、ちろり…と小さく舌を出し、肩をすくめて微笑った。
終