一織プチonly「strawberry*Love」様へのweb企画投稿作』



【いつか、隣に立つ日まで】







窓の外、路地裏に響く子供たちの歓声で目を覚ました。
瞼を持ち上げれば、目の前に井上の寝顔。
彼女が寝たふりをしていないことを確かめてから、静かに身を起こして。
カーテンの端をめくって外の様子を伺うと、硝子の向こう側には、紫雲たなびく茜色の夕焼け空が広がっていた。


……今更晴れたって、遅ぇんだよ。


胸の内で毒づきながら、軽く舌打ちをする。
だけど……。

井上の寝顔に、視線を戻して。
額にかかった前髪をそっとなで上げながら、今度は溜息まじりに呟いた。

「まぁ……結果オーライ、ではあるのかな…」







俺に比べたら、井上の方がはるかに眠りは浅い。 しかも女性であるためか、あるいは幼稚園教諭という職業柄故なのか、幼い子供の声には特に敏感だ。
だのに、先刻から甲高い声が響くなか、いっかな目を覚ます様子がない。
それは俺と同じかそれ以上に、彼女もまた疲労しているのだという事実に他ならなかった。

「……ったく…いつも俺にばかり気を遣って、自分のことは二の次にしやがるんだから……」

徹夜続きで目の下に派手な隈をつくったまま、井上を駅まで迎えに行った俺。
そんなヘロヘロぐでぐでな状態でも彼女の来訪を断らなかったのは、何よりも俺自身が彼女に逢うことを望んだから。
だけど……。
過ぎるほどに優しい井上は、俺の姿を見留めた瞬間、大きく目を見開いてその場に立ち竦んでしまったのだ。
次第に曇る表情に、後悔を色濃く滲ませながら……。

「キャンセルしてくれても良かったんだよ……?」

今にも泣き出しそうな表情と声音で呟く彼女の、俺を心配する優しさに胸の奥が熱くなって。
反面、そんな顔をさせてしまった自分の不甲斐無さに、息が詰まって苦しくなって。
深夜近い時間帯、路地に俺たち以外の人影が見えないのを良いことに、電柱の影へと彼女を引きずり込んで、貪るようにくちづけた。

井上が、俺の隣に居る。

ただそれだけのことに、俺がどれほどの幸福を感じているのか……それを、少しでも伝えてくて。
ましてや、遠方から訪ねてきてくれたことを「迷惑だ」などと思うことは、絶対にあり得ないのだ……と。
それだけは、どうしても解って欲しかったから。

ようやっと、俺から解放されて。
苦しげに肩で息をしつつも、俺を見上げてはにかむように微笑んでくれた井上の。
その笑顔を目にした瞬間、俺はどれほど安堵したことだろう。

彼女を悲しませることなど、いつだってどんなときだって、俺の本意ではないのだから。










「……それにしても、何でこの時期に…?」


それは十日前、彼女から俺に、この週末の都合を問う電話がかかってきたときからずっと、抱き続けていた疑問だった。
短大を卒業した彼女が、幼稚園教諭として働きはじめて今年で三年目。
過去二年の間、連休や祝日、学期末休業とも絡まないこの時期に、彼女がこちらに来たことは一度もなかった。
それだけ、本来なら多忙で余裕のない生活を送っているのであろうことは、想像に難くない。

……にも関わらず、かなり強行軍な日程になるのを承知で、俺の元へと来ることを切望した彼女。
理由を尋ねてみても、「ただ、逢いたいだけ」と苦笑混じりに答えるばかりで……。
どこか腑に落ちないものを感じながらも、普段滅多に我が儘を言わない彼女の願いを断る理由などあるはずもなく、笑顔で約束を交わしてその日の電話を切った。
楽勝だと思っていた課題に思いのほか手こずって、徹夜明けの状態で出迎えざるを得なかったのは、それこそ大誤算だったのだけれど……。

ただ、正直なところを言ってしまえば。
もしや別れ話をしに来るつもりでは……と、そんな不安がちら…と脳裏をかすめたのは事実だった。

新年度から彼女の職場に年上の男性教諭が採用になって、しかもそいつが何処となく昊さんに似ているのだ……と。
井上からそんな話を聞かされたのは、ゴールデンウィーク中の予定を相談していたときのこと。
以来、何かと話題に出てくるそいつの名前に、いつも笑って頷きながらも、本当は心の奥底で嫉妬の火種をぶすぶすとくすぶらせていた俺。
そんな醜い感情に加え、普段、彼女の傍に居てやれないことに対する後ろめたさも手伝って。
今朝がた目を覚ましたとき、たまたま俺の腕の中から抜け出て背を向けていた彼女の。
すんっと鼻をすすり上げた音を耳にした途端、突如カッ…と頭に血がのぼってしまった。


……別れるなんて、絶対に認めない。


布団の中に彼女を引きずり込んで、かなり強引にくちづけたのちに、そんな言葉を口走って。
半ば言いがかりだ…と自覚しつつも、腕の中から抜け出したこと、そして鼻を啜っていたことを詰ってしまえば。
彼女から返ってきたのは、天気が気になって窓の外を見ていたことと、昨夜の道端でのキスの余韻に浸っていたことを打ち明ける、嘘偽りなど微塵も感じられない穏やかな声だった。



……このときに感じたバツの悪さを、俺はこの先一生忘れられないんじゃないかと思う。
もし叶うことなら時間を巻き戻して、無かった事にしてしまいたいくらいだ。








「疑ったりして、ごめんな…?」

そっと彼女の頬に触れながら、至極小さな声でつぶやく。
あの後もう一度二人で目を覚ましたときに、シリアルをかき込みながら彼女から聞いた。
その昊さん似の先生は、実は園長の娘の婚約者であること。
そもそもサラリーマンを辞めて学校に入り直してまで資格を取ったのは、ゆくゆくは幼稚園の経営を継ぐためであることを。
要するに、今は将来に備えての修行中というわけだ。
挙式は、この秋の予定だという。


「ほんとに、ごめん……」


親指の腹で頬骨のあたりを優しく撫でてやれば、無意識ながらも微笑みを浮かべてすり寄ってきた。
そんな彼女が可愛くて、愛しくて……だからこそ尚更、気になって仕方がないのだ。
彼女が、此処に来た理由が。
心なしか、連休中に逢ったときよりも痩せて見えることについても……。


「なぁ……何か、あったのか?」


まるで俺の問いかけに呼応するかのように、そのとき不意に枕元の携帯が震えた。
手に取ってみれば、竜貴からのメール。
出来れば、井上には気づかれないように読んでくれ…という書き出しに、心がざわり…と不快に波立つ。

息を詰めるようにして、画面上の文字を追って。
最後まで読み切ったと同時に、俺は深く溜息を吐いた。

メールに記されていたの、は。
井上が今年度受け持っているクラスの子供の親に、クレーマー気質な母親が居たこと。
子供たちの降園後には、ほぼ毎日その母親から小一時間に渡る電話が園に掛かってきていたこと。
通話の内容の大半は井上の指導に関するクレーム(という名の言いがかり)で、井上は事を荒立てぬよう慎重に言葉を選びながら、真摯に対応をし続けていたこと。
そもそもその母親が井上に絡みだしたのは、子供が井上にえらく懐いたことに対する嫉妬心が原因で。
それを知る同僚たちは彼女に同情し、怒りを露わにすることもあったらしいけれど、彼女自身は「自分がいたらないせいだから」と微笑むばかりで、決して母親に対する苦言も泣き言も口にしなかったこと。
それでもやはり…というか、当然というか、精神的な負担は相当にきつかったのだろう、最近あまりよく眠れないのだ…と、病院で軽い眠剤を処方してもらっているらしいこと。

……そんな、読んでいるだけでも胸が苦しくなるような辛い事柄で。

我知らず食いしばっていた奥歯が、ぎり…と音を立てて鳴った。
彼女が辛い状況に置かれていることに、ちっとも気づけなかったことに対する情けなさと。
同時に、どうして何も話してくれなかったのか…という、彼女に対する怒りにも似た感情とがない交ぜになって、心の中で荒れ狂う。

しかし、そんな俺の狭量さを見透かしたかのように、竜貴からの続きのメールが届いた。
どうか、井上を責めないでやって欲しい……と。
俺に一言の相談もなかったのは、俺を信じていないからだとか、俺を頼りなく思っているからだとか、そういう事ではなくて。
幼稚園教諭として日々懸命に働く彼女の、社会人としてのプライド故なのだから……と。


「仕事を持つ者としての、プライド……かぁ」


それについては確かに、未だ学生という身分である俺にはいま一歩理解の及ばないところだ。
ただ、なんとなく想像は出来る。
俺だってきっと、おいそれと彼女に愚痴をこぼすようなことはしないと思うんだ。
患者についての守秘義務なんかは勿論だけど、やはり自分自身で選んだ道だという理由は大きい。

そうして俺は、改めて思い知らされてしまうんだ。
「ひと」として、彼女は俺の一歩も二歩も先の道を歩いているのだということを。

彼女の手を引いて歩いていたつもりが、いつの間にかその背を追いかけて走っている。

資格を得るまでに、最低でも六年に及ぶ学習が必要で。
そこから更に二年の研修期間を要する「医師」という職を目指している以上、それはどうにも仕方のない事ではあるけれど……。










……なぁ、井上。
悪いけど、後もう少しだけ待っていてくれな?

きっと、追いつくから。
隣に、行くから。











『幸い…という言い方は適切ではないかもしれないけれど、その親子、旦那の転勤で遠方に転居・転園するらしいよ。
私それを聞いて、思わず「良かったね」って言っちゃった!
やっぱり、神様って居るんだね。
まぁ…実際に死神が居るくらいだもの、神様だって居て当然かな。

とにかくこの週末、織姫のことをよろしく頼むわね。
ゆっくり甘えさせてやんなさいよ。

じゃあね。



有沢たつき』









「……了解、竜貴」

苦笑混じりにつぶやきながら、携帯を置いて。
井上へと、向き直る。
相変わらず眠り続けているその寝顔に、隣を並んで歩く未来を誓いながら、ごく軽く額にくちづけた。
しかしながら、その直後。

「…ぅ…ん……?」

僅かに開いた彼女の唇から漏れた声に、一瞬、大いに慌ててしまった。
だけど、カーテンの隙間から差し込んでくる陽の光が、一層茜色を増したこと。
壁の時計の指し示す時刻から、一度ここいらで起こした方が良いかもしれない…と思い直す。


そして、眠っているお姫様を起こす方法は…と、言えば……?


むくり…と沸いた悪戯心のままに、己の唇を彼女のそれに重ねて。
軽く触れるだけのキスを、二度、三度と繰り返せば、ついに彼女はその瞼を持ち上げた。
ぼんやりとした色素の薄い瞳が焦点を結び、俺の顔を見留めたと同時に、ふうわり…と笑み崩れる。



「……くろさき、くん」



まだ目覚めきっていないのか、どこかとろん…と溶けたような表情と。
舌足らずに俺の名を呼ぶ甘い声に、一瞬理性が崩壊しかけた。

だけど…彼女が来てくれてから既に二十時間近く経つというのに、二人でシリアル食った以外はただ眠っていただけ…という事実は、男のプライド的には結構心に痛くて。
少しでも不甲斐無さの巻き返しがはかれれば…と、ベッドから引き剥がすようにして身を起こしつつ、夕飯は外食しないかと提案してみた。

「勿論、寝倒しちまったお詫びに俺が奢るし。雨も上がったから、昼間散歩できなかった分、帰りにどっか近くの公園に寄って、星でも眺め……」
言葉途中で俺が黙り込んでしまったの、は。
立ち上がりかけた俺のシャツの裾を、井上の手が思いがけない強さで引っ張ったから。

「いの……?」
「……お腹、空いてない」
「え? あ…まぁ、それもそうか。ずっと寝てたんだもんな。それなら、どっか喫茶店で軽くお茶とケーキセットとか…」
「…………………が、いい」
「へ…?」

彼女が何を言ったのか、うまく聞き取れなくて。
肩越しに会話していたのを、きちんと体を反転させ、目の高さを合わせるようにして井上の前に屈み込めば、何故か彼女はもの凄い勢いで俺から視線を反らせてうつむいてしまった。

「……?」

いったいどうしたのか…と。
問いかけようと口を開きかけたところで、ふと気が付いた。
薄暗い室内でもそれと分かるほど、井上の髪からのぞく耳や、シャツの袖からのびる細い腕が、真っ赤に染まっていることに……。

「い、いのうえっ?!」

熱でもあるのかと、慌てて首筋に手を当てた…その俺の手首に、彼女の細く白い指が絡みつくように触れる。
反射的に身体を強ばらせた俺の顔を、ゆっくりと振り仰ぐ…その顔は、やっぱり真っ赤で。
潤んだ瞳には、ゆらゆらと光が揺れていた。


急速に、喉が乾いていくのを自覚する。
その俺の耳に、囁くような…だけど、聞き違えようがない程度にはしっかりとした響きを持つ、彼女の声が届いた。







…………くろさきくんが、いい。







数週間振りに逢えた彼女に、こんな風に誘われて。
お断りできる男なんて、果たしてこの世に存在するんだろうか。

もしかしたら、一人くらいは居るのかもしれない。
でもそいつは、少なくとも俺のことではない。



折角建て直した理性と言う名の壁が、実にあっさりと崩壊して。
本能が濁流のように渦巻いて流れ出す音を聞きながら、首に回された細い腕に引き寄せられるがままに、彼女の上へと倒れ込んだ。
まるで飢えた獣のように、彼女の唇に幾度もくちづけを落として。
細い身体、その白く柔い肌に散らしていくのは、所有を印す紅い花弁。
幾枚も、幾枚も……あらんかぎりの、想いを込めて。











『……甘やかすって、別にそう言う意味じゃなかったんだけど?』

井上の口から漏れる、甘い甘い啼き声の合間に。
そんな皮肉めいた竜貴の声が、一瞬、聞こえたような気がした。





終
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