一織プチonly「strawberry*Love」様へのweb企画投稿作』



【夢じゃない SIDE:15】







それは、今日の放課後のこと。
独りHRに残って明日の数学の範囲を予習していたら、後ろの引き戸が静かに開いて。

「…くろさき、くん?」

聞き覚えのある柔らかなソプラノに反射的に背後を振り向くと、井上がひょこり…と顔を覗かせたところだった。
どうしたのかと問えば、忘れ物を取りに来たのだ…と、言う。

俺こそ何故残っているのかと彼女に尋ねられ、数学の予習をしていたこと、解けない問題があると答えれば。
井上は、俺の席へと近寄りながら「……どの問題?」と訊いてきた。

教科書を開いて鉛筆のケツで指し示すと、俺の手元をのぞき込もうとして若干前屈みになる井上。
さらり…と流れ落ちた、胡桃色の長い髪。
それを、井上の細い指が掻き上げる。
微かに甘い香りが、ふわりと空気を揺らして。
露わになった彼女の横顔が思いのほか近くて、俺は慌てて教科書に視線を落とした。

「え、と……あ、問3はね?」

教科書の頁をめくろうと、井上が身を乗り出す。
……そうなると。
俺の顔のすぐ横に、彼女の胸が来ることになったりなんかするわけで……。

「…っ、?!」

ついつい横を向きたくなる男の本能を、必死に理性でねじ伏せる。
そんな俺の内心の葛藤など知りようもない井上は、至極真面目な口調で解説を始めた。

「この例題の、応用だよ。だから、この値をこっちに代入して……」
「あ、そっか!」

邪念を振り払うために、も。
井上のアドバイスを参考に、真剣に問題に取り組んでみる。

「…解けた! さっすが、井上!!」

ノートを差し出してみせれば、少し照れたように微笑む井上。
その笑顔が、すげぇ可愛くて。
もう少し彼女と一緒に居てみたくなって、別の問題についても質問しようとした…まさに、その時だった。
スピーカーから流れてきたのは、帰宅を促すアナウンス。
はっ…として窓の外を見れば、すっかり日が落ちていた。

「うわ、やっべ…! 門限っ!!」

慌てて帰り支度をし、席を立つ。
井上に礼を言いつつ、そろそろ帰宅しなければならないと告げると、思いも寄らない言葉が彼女の口から飛び出した。

「……もし良かったら、電話して?」

思わず大きく目を見開き、彼女の顔をまじまじと見返してしまった。
だって…常日頃から竜貴の奴が、野郎共には安易に電話番号など教えるな…と、彼女に言い含めているのを目にしていたからだ。
そして、彼女がそれを忠実に守っている事も知っている。
それにも関わらず…の、しかも彼女自らの申し出であるのだから、平然と聞き流せる筈がない。





……や、べ。
なんかすっげぇ、嬉しいんですけど。





もしかしたら、俺が期待するような意味などないのかもしれないけど。
寧ろ、安全牌認定されてしまった可能性の方が高いような気もするけど。
それでも合法的に彼女の電話番号を入手出来る、この機会。
逃す手など、あるものか……!


しかしながら。
呆然とする俺の様子を、彼女はどうやら真逆の意味に解釈したらしい。

「あ…ご、ごめんなさい! お節介、過ぎ…だよね……あは、は…」

真っ赤な顔をして、わたわたと。
慌てた様子で「今の、ナシ」と、必死に否定をし始める。

俺はただ黙って彼女から視線を外すと、ポケットから携帯電話を取り出して。
ロックを解除しながら、出来るだけさりげない口調で、彼女に尋ねた。

「……番号、は?」と。



今度は井上が、ぽかんと口を開ける番だった。
しばらく待ってもそのまま凍り付いているので、前髪の隙間から様子を伺いつつ、促すように名前を呼んでみる。
すると彼女は、我に返ったように瞬きを数回繰り返した後で、ゆっくりとした口調で番号を口にし始めた。

ゆっくりなのは、おそらく俺が入力をし易いように…と、気を遣ってくれたからで。
しかも彼女自身は、それを無自覚にやっているに違いなくて。
コイツのこういうトコが、なんかこう…堪んねぇんだよなぁ…って。
彼女の人柄の良さと、それを好ましく思っている自分の気持ちとを、改めて再確認させられる。





……やっぱり、俺…井上の事、好きだ。





へらり…と締まりなく口角がつり上がりそうになるのを堪えながら。
「電話をかけるとしたら、20時から22時の間」と、彼女に伝えた。
それ以降にはかけないから気にせず寝てくれと言う俺に、もっと遅くなっても大丈夫だ…と、食い下がってくる井上。
その事に、一層喜びを感じながらも。
近所迷惑になるから…と、俺は彼女を諭した。
そう…一人暮らしの彼女に対する世間の目は、決して優しいものばかりではない。
俺のせいで彼女が近隣住人から悪く思われるような事態を招くなど、極力避けるべき事だ。

まぁ、恐らくは要らぬ心配だろうけど……と。
この時の俺は、完全に高を括っていた。
我が家の夕飯は、甚だ迷惑な門限なるものの存在故に、毎日ほぼきっかり19時には始まっている。
妹たちの話を聞きながらでも1時間もあれば食事は終わるし、電話をかける時間は十分すぎる程に確保できるだろう。


……その、筈だった。










「うっわ?! もう、こんな時間かよっ!!!」

22時まで残り五分を切っている事に、思わず悲鳴じみた声を上げてしまった。
こんな筈じゃなかったのに…と思いながら、慌てて携帯のアドレス帳を開く。



夕飯を食べ終わるまでは、ほぼ予定通りだった。
それが狂い始めたのは、遊子が「朝食分のお米が足らない」と叫んだ瞬間から。
こんな時に限って、パンも無ければシリアルも無ぇ…ってんで、深夜まで営業しているスーパーまで、自転車でひとっ走りすることになってしまった。

ようやっと帰宅したかと思えば、啓吾から着信。
ひとしきり姉貴の愚痴を聞かされ、さて、今度こそ…と携帯を握りなおしたところで、遊子から即座に入浴するよう厳命が下った。
我が家の幼くも偉大な主婦様に、洗濯タイマーがセット出来なくて困るのだと言われれば、後で…なんて抗える筈も無く。
泣く泣く入浴を済ませて戻ってみれば、俺自身が設定したタイムリミット直前だった…と言うわけだ。



もう今夜はかかって来ないだろう…と、思われて。
入浴でもされちまってたら、アウトだな……そんな事を考えながら、祈るような気持ちで電話をかける。

無意識にコール音をカウントして、それが3回を数え終わる頃だった。
受話器が上がる音がして。
それに続いて耳に届いたのは、彼女の発する穏やかな声。


『……もしもし?』
「あ……井上…?」
『くろさき、くん……!』


……なぁ、井上?
俺からの電話だって判った後のお前の声が、明るく弾んだように感じたの、は。
俺の気のせい……ばかりじゃ、無ぇよな…?


数学のみならず、古文の課題まで持ち出して。
どうにかして通話時間を引き延ばそうと企てる、俺。
それでも、「ただのクラスメイト」でしかなない俺達の会話は、当然ながら勉強以外の話題に脱線する事はなくて。
ただひたすら色気の欠片も無い数式や、単語の応酬が続くばかりだ。
だけど……。

なぁ、井上。
何故…だろうな……?

穏やかに流れるお前のソプラノを聞いているだけで、心がほこほこと和んでいくんだ。
身体から、余分な力が抜けていくんだ。

まるで、日溜まりの中で微睡んでいるときみたいに……。







「あの…さ…」

通話を切る、間際。
体中から勇気を総動員して、彼女を引き留めた。
彼女が戸惑う気配を感じながらも、恐る恐る問いかける。

「またこんなふうに、電話してもいいかな……?」
『……も、勿論だよ!!』


勢い込んで吃る井上に、小さく笑って。
そして彼女に気づかれないように、こっそり安堵のため息を吐く。

まるで夢の中に居るかのように、どこかふわふわとする身体。
だけど……。

電話を切った、その後で。
通話記録を呼び出したなら、画面に浮かび上がるのは「井上織姫」という彼女の名。


それ、は。
この幸福な数分間が、紛れもなく現実の出来事であったのだ…と言うことの、何よりも確かな「証」だった。












終
(……夢みてぇな、ホントの話)
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