一織プチonly「strawberry*Love」様へのweb企画投稿作』
【夢じゃない SIDE:*】
「鳴らないなぁ……」
抱えた膝に顔を埋めながら、ぽつり…と呟く。
電話の前に座り込んで、かれこれ2時間。
ベルは一度も、鳴っていない。
「やっぱり、社交辞令だったのかなぁ……」
ひとつ大きく、ため息を吐く。
それは今日の、放課後のこと。
部活中、作業しながらの会話の中で、忘れものに気がついた。
帰宅前、日が傾いて薄暗くなってしまった廊下を慌てて教室へと駆け戻れば、窓から灯りが漏れていて。
後ろの引き戸をそっと開けて室内の様子を伺えば、窓際の席にぽつん…と人影。
「……くろさき、くん…」
他の誰かと、間違える筈もなかった。
だって…その頭髪は、窓の外に広がる夕焼けのような、綺麗な綺麗な橙色だったのだから。
「井上…?」
振り返った黒崎君の瞳が、一瞬大きく見開かれて……そして、柔らかく細められる。
「こんな時間に、どうした? 忘れモンか?」
「うん。あの……黒崎君こそ、どうして…?」
「俺?」
黒崎君は苦笑を浮かべながら机の上から何かを取り上げ、私に向かって掲げてみせた。
それは、数学の教科書で。
「ほら……俺、明日の授業で当たりそうじゃん。だから、予習してた。
数学の飯塚、解けねぇとネチネチ煩ぇからさ。それも、制服の着方とか髪型だとか髪の色だとか、数学とは全く無縁のことまで持ち出しやがるからよ……」
苦虫を噛み潰したような表情で、机上にばさりと教科書を投げ出す黒崎君。
彼の気持ちは、とてもよく解る。
私も入学当初に一度、同じような目にあったから……。
「家に帰ると妹達に買い物に付き合わされたりして、思うように進められない事も多いから…さ。
ここに残ってやってたんだけど、2,3問、どうしても解けねぇのがあって」
「……どの問題?」
彼の側に近寄りながら、尋ねれば。
黒崎君は教科書を開き、鉛筆の後ろ側でとんとん…と紙面を叩いた。
「この頁の問題。問3と問5が、どうにもな……」
「え、と……あ、問3はね?」
数頁分教科書を遡って、例題を指し示す。
「この例題の、応用だよ。だから、この値をこっちに代入して……」
「あ、そっか!」
ぱぁっ…と。
まるで、小さな男の子が宝物でも見つけた時のように、表情を明るくして。
さらさら…と微かな擦過音を立てながら、黒崎君はノートに鉛筆を走らせた。
「……解けた! さっすが、井上!!」
嬉しそうに笑って、私にノートを差し出してみせる黒崎君。
その笑顔の無邪気さに、どきり…とひとつ、心臓が跳ねる。
「あ、じゃあ、こっちの問題は…?」
黒崎君が勢い込んで、私の方へと軽く身を乗り出した……その時、だった。
スピーカーから響きわたったのは、生徒に下校を促すアナウンス。
「うわ、やっべ…! 門限っ!!」
慌てて立ち上がった黒崎君は、手早く荷物を纏めて。
学生鞄を手に取りながら私を顧みて、ひとつ小さくため息を吐いた。
「ありがとな、井上。出来れば、残りの問題も教わりてぇけど…流石にもう、家に帰らねぇと……」
「あ…あの……っ!」
黒崎君が、あんまりにも残念そうに顔を歪めてくれたから。
私はつい、声をかけてしまった。
もし良かったら、電話して?……と。
私を見返す黒崎君の瞳が、まん丸になる。
ぽかんと口まで開けてしまった彼の姿に、急激に心に沸き上がるのは羞恥心。
私…なんて大胆な事、言っちゃったんだろう……。
「あ…ご、ごめんなさい! お節介、過ぎ…だよね……あは、は…」
顔が真っ赤に染まっているであろうことを、自覚しながら。
今の、ナシ……と、必死に誤魔化し笑いを浮かべてみせる。
……だけど。
私から、すっ…と視線を外して。
ポケットから携帯を取り出した黒崎君は、画面を操作しながら、ぽつん…と言った。
「……番号、は?」
「っ、?!」
思わず、息を呑む。
それきり黙り込んだ私の顔を、黒崎君はその橙色の前髪の隙間から不思議そうに見返した。
「井上……?」
「あ…う、うんっ! えと、うちの番号はね……」
私が口にする数字を、黒崎君の指先が入力していく。
「……と、これで良し!」
小さく呟いて、顔を上げる黒崎君。
反対に、私は慌てて床へと視線を落としてしまった。
何だか酷く気恥ずかしくて…とてもじゃないけど、黒崎君の顔を直視できなくて……。
「かけるとしたら、20時から22時の間かな。それ以降になったら、気にせず寝ろよ?」
「わ、私……23時前には滅多に寝ないし、零時近くても全然…っ!」
「井上、アパート暮らしだろ? 他の部屋の住人から苦情が入るような事になったら、悪ぃから」
「黒崎君……」
「じゃあな、井上! ……あ。外、大分暗くなってきてるけど…帰り道、大丈夫か?」
「う、うん。あと10分したら空手部の活動も終わるから…格技場前で、たつきゃんと待ち合わせしてるの」
「竜貴と一緒なら、まぁ心配無ぇかな。とにかく、気をつけて帰れよ!」
にっ……と笑って、軽く片手を上げて。
くるりと踵を返すと、黒崎君は教室を出て行った。
……そして。
只今の時刻は、21時53分。
黒崎君の決めたタイムリミットまで、あと数分。
20時を過ぎてからは、とにかく電話が気になって仕方なくて。
トイレに行くことすら、怖くて……ましてや、入浴する気なんて更々起きなくて……。
一週間前から楽しみにしていたテレビのお笑い特番でさえ、点けてはみたものの全然集中して観る事が出来ずにいた。
どきどき…。
そわそわ…。
そんな、浮き立つような気持ちで過ごしていた二時間が、もうすぐ終わる。
……終わって、しまう。
「本当は、迷惑だったのかな……」
黒崎君は、優しい。
だから、あの場で即座に断る事が出来なかっただけなのかもしれない。
うん……多分きっと、そうなんだ。
電話は、鳴らないだろう。
決して、鳴らないだろう。
今夜だけで、なく。
これから先の、未来に於いても……。
「くろさき、くん……」
胸の奥が、つん…と痛んで。
瞼の裏が、じわりと熱を持ち始める。
………莫迦みたい。
こんな些細なことで、泣きだしそうになるなんて。
たとえ泣いてみたところで、何かが変わるわけでも無いのに。
とりわけ「ただのクラスメイト」という、彼にとっての私の立ち位置など、は……。
「お風呂、入ろ……」
ふらり…と立ち上がり、浴室へと向かって足を踏み出す。
そのとき、だった。
RIIING…RIIIIIING……!
鳴り響くベルの音に、慌てて電話の側へと駆け戻る。
そのままの勢いで受話器に飛びつきたくなるのを必死に堪えて、ひとつゆっくり息をして。
そっと…まるでガラス細工でも扱うかのような手つきで、そろりと受話器を取り上げた。
「……もしもし?」
『あ……井上…?』
「くろさき、くん……!」
きゅう……と。
心臓を貫くように、甘い甘い痛みが走る。
黒崎君…だ……。
黒崎君の、声だ……!
『悪ぃな、こんな遅い時間になってからで…』
「ううん…! 全然平気だよ!!」
電波に乗って届く、彼の声。
それを耳にしただけで、世界が色を取り戻す。
凍りかけていた心が、ふにゃりと柔らかく溶けていく。
……不思議だね、黒崎君。
今は夜のはずなのに、まるで日溜まりの中に居るみたいだよ。
心も体もぽかぽかして、とってもとっても暖かいの……。
『帰宅してから、もう一度チャレンジしてみたんだけど……やっぱり問5が解けなくて…』
「そっか……じゃ、ちょっと待ってて! 今、教科書とノートを持ってくるから」
『あ、井上…っ!』
「…はい?」
『その…出来れば古文の課題も……』
「うん、わかった!」
通話を一旦、保留にして。
鞄から教科書やノートを取り出してくると、再び受話器を握る。
「……もしもし、お待たせ!」
『ああ…こっちこそ、悪ぃな』
「全然! じゃあ早速、問5の解き方だけど……」
黒崎君との、初めての電話。
その会話の内容は、ロマンスとはまるで無縁の事柄ばかりだけれど……それでも。
今宵、このひととき。
彼の声を独り占めしているという事実に、眩暈を覚えるほどの喜びを感じてしまう。
もしもこの場にたつきちゃんが居たら、きっとお腹を抱えて笑い転げたに違いない。
「泣いた烏が、もう笑った」……と。
……やがて。
夢の中にいるような、幸福な数分間が過ぎ去って。
名残り惜しい気持ちを押し隠しながら、通話を切ろうとした…その瞬間。
『あの…さ…』
躊躇いがちに届いた、黒崎君の声。
何事かしら…と首を傾げた私の耳に飛び込んできたのは、思いも寄らない問いかけだった。
『またこんなふうに、電話してもいいかな……?』
「……も、勿論だよ!!」
焦ってどもりながらも、明るい声で返事をして。
それからこっそりと、自分の指で自分の太股を抓ってみる。
(痛…っ、!!)
確かに感じた痛み、に。
私は思わず、口元を綻ばせた。
終