おうちごはん
「……ばぁちゃん…?」
静かにそっと、問いかける。
すると。
「丁度、今頃の季節だったのよ…」
顔を上げたばぁちゃんが、哀しげな微笑みを浮かべながら、静かに俺に語り出した。
「織姫ちゃんが泣きながら、家に駆け込んで来てねぇ。
昊君が風邪引いて寝込んでて、何を食べても吐き戻してしまうんだ……って。
どうしよう、どうしよう、おばぁちゃん助けて…って泣きじゃくるのを、私と夫とで必死に宥めながら、アパートに伺ってみたの。
そしたら、まぁ…台所が、何とも言えない臭いで充満してて…!」
「………」
「取りあえず、急いで白粥作って昊君に食べさせて……症状が落ち着つくのを待って、次に玉子雑炊を作ってあげたの。
織姫ちゃん…私を手伝いながら、ずっと私の手元を眺めていたわ。
そして昊君が雑炊を完食して、その後で吐き戻したりすることもない様子を見て……ノートを片手に、私に頭を下げてきたのよ。
どうか、私に料理を教えてください……って、ね」
ふふ……と、小さく笑って。
それからまるでそれが井上の頬であるかのように、親指の腹で幾度も幾度も、優しく木椀を撫でる。
俺はただ黙って、そのばぁちゃんの指の動きを目で追っていた。
「昊君ね……織姫ちゃんが一年生になった頃から、少しずつ調理を教えていたらしいの。
最初は野菜の切り方から始めて、ちょっとずつレベル上げて。
卓上用の電磁調理器を使って、目玉焼きとか、お味噌汁とか…。
そろそろ本格的なものも…と考え始めた、ある日に…ね?
急な残業で遅くに帰ってきたら、織姫ちゃんが独りで、大鍋かき回しながら待っていたのですって。
『お兄ちゃんの好きなもの、ぜーんぶ入れてみたよ!』って、にっこり微笑まれて……昊君、何も言えなかったそうよ。
味は…そりゃもう、とんでもないものだったらしいけど。
それでも昊君は、『美味しい』って言いながら全部食べたんだ…って、言ってたわ。
織姫ちゃんも、口に入れた瞬間には『ん?』って顔をしかめたらしいんだけど…昊君があまり美味しそうに食べてみせたから、『ああ、これでいいんだ』って思っちゃったみたい。
それからは毎日のように、オリジナル料理を作っては、二人で食べていたそうよ」
「………」
「昊君……全部自分の所為なんだ…って、困ったように笑ってた。
まだご実家に住んでいた頃…昊君が学校から帰ってくると、親に構って貰えずに空腹に耐えかねた織姫ちゃんが、冷やご飯にジャムをのっけたり、はんぺんにチョコを挟んだりして食べていた事が、度々あったのですって。
そんな彼女が、昊君の為にと一生懸命作った料理だもの。
心を傷つけてしまうかもしれない…と思ったら、味に文句なんて付けられなかった…って。
『美味しい』って笑って食べる以外、どんな方法があるのか判らなかったんだ…って。
その結果、彼女を料理音痴にしてしまったけど……自分にとって織姫ちゃんのつくる食事は、どんな高級料理店のメニューにも代えることの出来ない、大切な【おうちごはん】なんだ…って。
昊君…そう、言ってたわ」
「おうちごはん……」
口の中で、鸚鵡返しする。
それは心の奥底にぽっ…と灯の点るような、あたたかな響きを持つ言葉だった。
「でも昊君が倒れたのを機会に、流石に織姫ちゃん自身、自分の料理はどうも一般的ではないらしい…って考えたみたい。
それで私のところに幾度か教わりにきたんだけど…その後すぐにアパートを立ち退く事になって、頻繁に行き来が出来なくなっちゃったの。
結局、織姫ちゃんはまた自作料理作り出して…私が教えたレシピにも、結構アレンジ加えちゃっていたらしいわ。
だけど、お粥と雑炊だけは、ずっと忠実にレシピを守ってた…って、いつだったか昊君から聞いたことがあるの。
裏を返せば、具合の悪い昊君に料理を吐き戻されてしまった事が、今でも相当のトラウマになっているって事なんでしょうけど…ね」
ふぅ……とひとつ、重たいため息を吐いて。
何処か遠い目をして、ばぁちゃんは呟いた。
「あの子は、料理音痴なんかじゃない。
ただ、知らないだけなの。
親から子へと自然に受け継いでいく筈の…ごく普通の、素朴でありきたりな、家庭料理の味とレシピを……」
「ばぁちゃん…」
「昊君が亡くなって、少し経った頃かな……ばったり、街中で行きあってね。
自分以外食べる人が居ない食事を作るのは、酷く虚しいと言っていたわ。
だから余計に、作る気にも覚える気にもなれない…って。
でもそれは、食べてくれる人が居るなら、いくらでも頑張れちゃう…って気持ちが心の根底にあるからこそ、出る言葉なんだと思うのよ
そう…織姫ちゃんが、いつの日にか自分の家庭を持ったなら…。
その時にこそ、あの子はきっと、家族みんなが『美味しい』と顔を綻ばせるような【おうちごはん】を作れるようになる。
私はそう、信じているわ」
「………」
夢見るような微笑みを浮かべながらも、きっぱりと言い切るばぁちゃん。
俺は何も言わぬまま、再び雑炊をすすり始めた。
身体だけでなく。
心の奥にまで染み渡るような温かさと味に、彼女の優しい人柄が重なっていく。
その、一方で。
舌の上に広がる程良い塩味に、彼女が流してきた沢山の涙と、今なお深い心の傷とを、どうしても連想せずにはいられなくて……。
「ほんっと美味ぇわ、これ……」
ばぁちゃんには、気づかれないように。
やりきれない気持ちを雑炊への賛美に紛れ込ませながら、ひそり…と小さく息を吐き出した。
「……すっかり遅くなっちゃったねぇ…」
星空を見上げながら、隣を歩く井上が呟く。
「黒崎君、おうちのほうは大丈夫なの? 門限が有るんじゃなかったっけ」
「ああ…バイトの電話が入った時点で、自宅には連絡しておいた。
親父も、ばぁちゃんの事は知ってるからさ。
依頼された事以外にも、手伝えることは何でもやってきてやれ…って言われてるし、多分問題ねぇよ」
「そっか……それなら、平気だね!
くまちゃんのお風呂まで、お世話しちゃったもんね。本当にお疲れさまでした!」
俺の顔を見上げて、にこっ…と笑って。
それから井上は俺の前に回り込むと、大きな瞳を更にくりっと見開いて問いかけてきた。
「ねぇ……本当に本当に、美味しかった?」
「ああ。…ってか、ちょっとクドいぞ、井上」
「だぁって、嬉しいんだもーん! あんなふうに手放しで料理を誉めて貰える事なんて、滅多にないから」
ふふ…と笑いながら、踊るような足取りで、くるっ…と一回転する井上。
「もっと色々と、覚えたいな。ちゃんとした、家庭料理」
「……なら、さ。今度、俺ん家に来ねぇ……?」
「え?」
振り返った井上が、きょとん…とした顔で俺を見返した。
「いや、その……最近俺も、遊子に少しずつ料理教わろうかと思ってて…さ。
進路、未だちゃんと決めて無ぇけど、場合によっちゃあ独り暮らしになる可能性もあるだろうし。
身内相手に一対一だと、お互いに言葉がキツくなったりもするし、俺なんか特に素直に忠告聞けなくなりそうだから、さ。
井上が一緒なら、そういうのも避けられるかな……って」
此処が、街灯の少ない道で良かった。
多分…俺、今、相当顔が赤い筈。
「…………」
「あ…いやっ、迷惑なら別に…っ!」
無言の彼女に、焦って言葉を続けようとした時だった。
夜目にもはっきり判るほどに、井上が満面の笑みを浮かべて。
そして、俺に向かって深々と頭を下げた。
よろしくお願いします………と。
「井上……」
「ありがとう、黒崎君! 私、頑張るね!」
むんっ…とガッツポーズを作る井上に、思わず吹き出す。
井上も、つられたように笑い出す。
なぁ、井上……?
いつかの未来に、お前は一体どんな【おうちごはん】を作るのかな。
「あ…見て、黒崎君! あそこ…オリオン座だよ!!」
「ホントだ…もう、そんな季節なんだな」
「うん……」
「……なぁ井上、知ってるか? あの三つ星のなかの一番明るい星に心からの願いをかけると、叶うんだって言う迷信があるらしいぜ」
「え、そうなの?! わわ、何をお願いしようっ!!」
「落ち着け、井上。流れ星じゃねぇんだから…じっくり考えてからでも遅くはねぇよ」
「あ、そ、そうだね! そうだよね!! あは、は……」
てへっ…と、舌をちろりと出して笑って。
それから何やら難しい顔をして、むーん…と考え始める井上。
そのどこか幼い横顔に、くすり…と小さな笑みを漏らして。
空を、見上げる。
きらり…瞬く、願い星。
目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出して。
そして、願った。
美味しそうな湯気の立つ、【おうちごはん】が並んだ食卓。
微笑む彼女の向かい側の席に座る……その資格、を。
いつの日にか、この手に掴む事が出来ますように……と。
終