おうちごはん
……それ、は。
俺が鰻屋でのバイトに、どうにか慣れてきた頃のことだった。
その日は珍しく運動部の助っ人も鰻屋のバイトの予定も入っておらず、久々に啓吾や水色と街中をぶらついていて。
彼らとも別れ、さて、そろそろ自宅に戻ろうか…という時になって、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
ディスプレイに表示されていたのは、鰻屋店主、育美さんの名前。
眉を潜めつつ出てみれば、急な仕事の依頼が入り、出来ればそれを俺に任せたいのだ…という。
仕事の内容は、買い物と犬の散歩の代行。
依頼者は鰻屋の近くで一人暮らしをしている、青木さんという年輩の女性だった。
「青木のばぁちゃん…どうかしたんスか?」
嫌な予感に胸をざわめかせつつ、育美さんに問いかける。
何故なら、この依頼主(+散歩させて欲しいという犬)と俺とは、既に面識があったから。
丁度俺が雇われたばかりの頃にご主人が亡くなって、その遺品整理の手伝いの為に数日間通った事があるのだ。
「風邪を引いて、寝込んでいるらしいの。症状はそれほど酷くないらしいんだけど……」
「…わかりました。じゃあ、見舞いも兼ねて行ってきます」
「有り難う、助かるわ。買い物代は2000円程度で済みそうなんだけど、立て替えできそう?」
「はい」
「じゃあ、今から買い物リスト送るから…」
通話を切って程なく、リストが届いた。
ざっと目を通すと、大概は駅近くのスーパーで手に入るものばかりだ。
回れ右をして、今来たばかりの道を引き返し始める。
歩きながらもう一度良くリストを見直すと、最終行に「食パンだけはABCookiesで購入するように。予約済みとのこと」という注意書きが添えられていた。
「……井上のバイト先じゃん」
とくり…と、鼓動が跳ねる。
青木のばぁちゃんの事を考えたら、我ながら不謹慎極まりない…とは思うけど。
今日は週末、金曜日。
月曜日まで顔を見る事はないと思っていた彼女に、今日のうちに再び逢う機会を得たのだから、どうしたって気持ちが浮き立ってしまうと言うものだ。
あんまり浮わついて、買い忘れなどしないように……そう気を引き締めてスーパーの店内を回り、あれこれとリストの品を購入して。
パン屋へと足を向ければ、その歩調は自然と速まり、いつしか俺は小走りになっていた。
店まであと数メートルという距離で、一度立ち止まって呼吸を整える。
「……何やってんだろな、俺」
そんな自分自身の有様に、思わず自嘲気味な苦笑をこぼした。
「いらっしゃいま……あれ、黒崎くんっ?!」
店内へと足を踏み入れれば、レジカウンターの内側、こちらを振り返った井上の目がまん丸になった。
よぉ…と、片手を上げて挨拶すれぱ、ふわりと優しく笑み崩れる彼女。
その笑顔の愛らしさ、に。
ついついぼけっと見惚れそうになる男の本能を必死にねじ伏せながら、俺は努めて平静を装い、青木のばぁちゃんの予約したパンを引き取りに来た事を告げた。
「……どうして黒崎君が?」
「ああ…ばぁちゃん、風邪引いて寝込んじまったんだと」
「ええっ?!」
再び、大きく目を見開く井上。
その薔薇色の頬が、みるみるうちに色を失っていく。
俺は慌てて、大した事はなさそうだ…と言葉を付け足したけれど、それでも井上の動揺は完全には収まらないようだった。
「あの、店長…っ!、」
縋るような瞳で、井上が店長さんの顔を見上げる。
すると店長さんは「わかっている」という風に頷いて、彼女に今日はもう上がって良いと告げた。
「どうせあと少しで、君の勤務時間は終わりだしね。配達に行って貰う…ってことにして、バイト代も満額つけとくから」
「……有り難うございます!!」
井上は深く腰を折って店長さんに謝意を表すると、俺にパンを手渡して。
急いで着替えるから、私も一緒に……と、身を翻してスタッフルームへと駆け込んで行った。
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