Camellia
先ずは井上のHRに戻り、鞄に制服を詰め込んだ。
ジャージのまま校外に出る事に少なからず抵抗はあったが、着替える時間がもったいない。
当然ながら、井上の荷物は既に無かった。
彼女の性格を考えれば、この事態は容易に想像がついた筈で。
それに思い至らなかった自分の迂闊さを呪い、ぎりり…と奥歯を噛みしめる。
ストーブの消火を確認し、教室を出て。
靴に履き替えるやいなや、弾丸の如く昇降口から飛び出した。
苦手な霊圧探査の能力をフル稼働し、彼女の霊圧を目指してひた走る。
「……ち…く、しょ…っ!」
息が上がるのが、思っていたよりもずっと早い。
受験勉強で幾分鈍っていたところに、午前中の重労働を経た身体は、正直疲弊しきっていて酷く重いと感じた。
それでも休まず走り続けたのは、井上がマンションに辿り着くよりも先に彼女を捕まえる必要があったから。
部屋に閉じこもられて居留守を使われたら、きっともうどうにもならない……そんな気が、したんだ。
駆けて、駆けて、駆けて……。
通いなれた川沿いの道に胡桃色を見つけたときには、一瞬気が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。
冗談じゃない、勝負はまだまだこれからなんだぞ……と。
懸命に体勢を建て直し、自分の心と脚とを叱咤しながら、彼女との距離を詰めていく。
「いのうえぇっ!」
彼女まであと15メートルほどのところまで来て、俺はようやっと彼女の名を叫び、同時に抑えていた霊圧を解放した。
びくん…と身体を硬直させて、振り返る井上。
その瞳が俺を認めて大きく見開かれていくのが、遠目にもわかる。
彼女は慌てて前方に向き直り、俺から逃げるべく猛然と走り出した。
けれど、そうなることは予想済みだったから、焦りも驚きもせずに、ひたすら距離を縮めるべく地を蹴り続ける。
「待てよ、井上…っ!」
精一杯延ばした手で、彼女の腕を掴み取って。
そのままこちらを振り向かせようと強く引けば、井上は俺に抵抗しようと足を強く踏ん張った。
だけど……。
「嫌っ、離し………きゃあっ?!」
「う、わっ?!」
足下は、雪混じりの弛んだ地面である。
乾いている時のようには、踏ん張りが効く筈もない。
案の定、井上は足を滑らせ、その身体はバランスを崩して大きく傾いだ。
慌てて彼女を支えようとした俺も同様に足をとられて、二人一緒に、道端の未だ踏みしめられていない雪の上に落ちる。
幸い、ふかふかの雪のせいで身体にダメージはなかったから、俺はすぐさま身を起こし、井上に「大丈夫か?」と声をかけようとした。
その、瞬間。
ふいに、視界が暗くなって。
それと同時に、顔面に衝撃と共に強烈な冷たさを感じた。
井上が両手一杯に掬った雪を、俺の顔へと押し付けたのだ。
「……な、っ?!」
何をしやがるんだ……と、顔から雪を払い落としつつ怒鳴りつけようとした俺は。
しかしながら目の前の彼女の表情を目にした途端、声と息とを飲んで固まってしまった。
怒りと哀しみとがない交ぜになったそれは、いつもの彼女からは想像もつかないほどに苦しげに歪んでいて。
その瞳に宿る光は、今にも溢れそうな涙のせいで、ゆらゆらと大きく揺らいでいる。
「いの…う、え……」
名を呼んでは、みたものの。
その先の句が継げずにいた俺の視線の先で、彼女が僅かに口を開いた。
「……ど…して、追いかけて来るの……?」
「どうして、って……」
唇の隙間から押し出されるようにして零れた掠れ声に、眉根を顰めてため息を吐く。
「それは、こっちの台詞だ。
何で一人で勝手に帰っちまうんだよ? 話は未だ、終わってねぇだろうが」
「……そんな事、ないもん。ちゃんと、終わってたもん」
「はぁっ?
好きだった…って言い逃げされる事の何処が『ちゃんと、終わった』事になるんだよ?!」
「なるもん!
へぇ、そうだったんだ、ふーん……て、聞き流せばいいだけの事じゃない!!」
「聞き流せば…って………んな事、出来るかよっ?!」
「何でよ、してよ! その為に、過去形で言ったんだから!!」
「………へ?」
思わず、ぽかんと口開けてしまった。
そんな俺の反応を目にした井上が、益々苦しげにくしゃりと顔を歪ませる。
「話が終わってないって言うなら……それなら黒崎君は、一体どんな話を続けるつもりなの?」
「いのうえ……」
「………わかってるもん。
私の事、そんな風に見たことなかった…って、言うんでしょ?
女の子として意識した事なんて、一度も無いって。
それで、さも申し訳なさそうな顔して言うのよ。
『ごめんな』……って!」
「いの、っ…?!」
絶句する俺を映す彼女の瞳が、ぎこちなく細まって。
今度は、泣き笑いの表情へと変わった。
「ちゃんと、わかってるよ。
だから私…本当は一生、告白なんてしないつもりでいたの。
告白して気まずくなって側に居られなくなるくらいなら、友達のままでいい…って。
……だげど。
あの時の黒崎君、もの凄ーく罪悪感で一杯の顔をしてたから……。
その辛さが少しでも和らぐなら、って…その一心で、つい言ってしまっただけなの。
それなのに、黒崎君の口からあらためて『悪ぃけど…』なんて切り出されて、失恋に駄目押しされたら…私……あた…し……」
「いの…う………」
「それに…それに、ね?
教室での事…私やっぱり、とっても嬉しかったんだ。
黒崎君にとって私は、ただの友達でしかなくて、『そういう対象』からは完全に外れてる…って、とても良く解っていて。
それなのに、あんなふうに触れて貰えただなんて……。
それって…少なくともあの瞬間だけは、私はちゃんと『女の子』として認識されてたって事でしょう?
キスしたいくらい『魅力的な女の子』として、黒崎君の目に映っていたって事でしょう……?
……だのに。
あんなにでかでかと『後悔』って文字貼り付けた顔で、謝り倒されちゃったりしたら、ね?
そのささやかな自惚れさえ、全否定されてしまうようで…それが、たまらなく嫌だったの……」
「いのうえ……」
はらり……と一滴、彼女の頬を涙が伝う。
それを指先で拭いながら、彼女はいつものように、ふうわりと柔らかく微笑んでみせた。
「安心、して?
今日の事は、誰にも……たとえ相手がたつきちゃんでも、決して話したりなんかしないから。
黒崎君が、私を好きだなんて…そんな勘違いも、していないから。
だから……だから、もうこれ以上謝ったりしないで。
お願いだから、自惚れたままで居させてよ……!」
そう言って。
涙が零れ落ちるのを止められなくなった井上が、俯きながら掌で顔を覆う。
細かく震える、華奢な身体。
指の隙間から、かすかに漏れ聞こえる嗚咽。
その姿は、まるで土砂降りの雨の中でうなだれる子猫のように、痛々しく見えて……。
深く、息を吐き出す。
それから、彼女の細い肩へとそっと手を伸ばした。
掌の下でびくんっ…と跳ねた肩を、痛みを感じさせない程度に強く掴んで。
静かに、口を開く。
「………自惚れなんかじゃ、ねぇよ」
ゆっくりと顔を上げた井上が、呆然とした表情で俺を見つめた。
その瞳を真正面からのぞきこみながら、俺は更に言葉を重ねる。
「自惚れなんかじゃ、ねぇ。
俺にとってお前は、ちゃんと『女の子』だよ。
勿論、今日の事だけを言ってるんじゃ無ぇ。
もう、ずっとずっと以前から…俺にとってのお前は、どうしようもなく惹かれてやまない、魅力的な『女の子』だったよ。
だからこそ…あのとき、どうにも止まれなかったんた……」
「……嘘っ! だって黒崎君…そんな素振り、今まで一度だって、見せたこと……!」
「そりゃ…こっちだって気付かれねぇように、必死だったから……」
大きく目を見張る彼女の視線から逃れるように、そっぽを向いて。
気まずく頭髪を掻きながら、ぼそぼそと言い訳を続ける。
「俺の方こそ、お前に男として相手にされて無ぇと思い込んでたんだよ。
だから…お前と同様、気持ちに気付かれて関係がギクシャクするくらいなら、一生隠し通そう…って。
友達としてで構わねぇから、ずっとずっと近くに居て、お前を護り続けていけばいい…って。
そう、思って……」
「くろさ…く……」
一度は止まった涙が、再び彼女の頬を幾筋も伝い出す。
ふっくらとしたその頬を包むように、そっと手を添えて。
親指の腹でこぼれ落ちる雫を拭ってやりながら、俺は苦笑気味に微笑んだ。
「ずっと…身体は近くにあっても、心はうんと遠く離れたところにあるんだと思ってた。
でも……違ったんだな。
俺たち二人とも、てんで見当違いの方角に相手の姿を探していただけで……きっと…もうずっと長いこと、背中合わせに立っていたんじゃないのかな……?」
「背中…合わせ……」
「なんか…すっげぇ回り道しちまったみてぇたけど…それでも今、気づけて良かった。
お互いに気持ちを誤解したまま時が過ぎて、お前が他の男のモノになっちまったりする前で、さ……」
「くろさき…くん……」
「好きだよ、井上。もう、ずっとずっと前から……」
「くろ…さ……」
呆然としていた彼女の表情が、徐々に微笑みへと変わっていく。
まるで蕾が綻んで、綺麗な綺麗な大輪の花が咲くように……。
「大好きです、黒崎くん……」
「……ごめん、また濡れちまったな。しかも今度は、泥も付いちまって…」
「大丈夫だよ! 卒業式前に、クリーニングに出そうと思ってたし……気にしないで?」
にこり…と笑う彼女を、眩しく見つめて。
そのときふと閃いた思いつきに、ぱちり…と指を鳴らす。
「もし嫌じゃなかったら、これから俺の家に来いよ」
「……へぁっ?」
「着替えなら、俺の服とか急患用に用意してあるスウェットスーツ一式、貸してやるし。
今夜は俺の合格祝いをするって、遊子が言ってたから……」
「そ、そんな…着替えはともかく、折角の家族水入らずの団欒に割り込むなんて出来ないよ…!」
「祝われる立場の俺が良いって言ってるんだから、気にすんなよ!
親父も妹たちも、お前のこと大好きだし…迷惑に思うどころか、きっと飛び上がって喜ぶさ。
それに……ちゃんと、紹介…したいんだ。
俺の大切な、彼女だ……って」
「く、くくくくろさきくん……!!」
真っ赤になって俯いてしまった井上の頭を、笑い含みながらくしゃり…と撫でて。
行こう…と声と表情とで彼女を促し、自宅のある方角へと踵を返す。
数歩、進んで。
恥ずかしいからなのか、俺の隣を歩くのではなく、半歩後ろを付いてくる井上を振り返り、二つ目の提案をした。
「……ちょっとだけ…遠回りな道を行っても、いいか?
見せたい景色が、あるんだ。
朝のまま、綺麗に残っているかは判らねぇけど……」
やわらかな微笑みを、浮かべて。
白い雪景色の中、こっくり…と首肯く井上。
その頬、は。
まるで椿の花のような、美しい紅色に染まっていた。
終
椿の花言葉……「私は常にあなたを愛します」