Camellia
「こらぁ黒崎、何ぼやっとしてんだ! ちゃっちゃと手ぇ動かせ、手! このままじゃ昼過ぎても延々終わらんぞ?!」
体育主任を務める教員の怒声に、慌ててスコップを持ち直した。
「先刻からしょっちゅう手ぇ止めちゃあ、タオル口に当ててぼけーっとして……まさかと思うが、タオルに薬でも仕込んでるんじゃねぇだろうな、ぁあっ?!」
「してませんよ、そんな事っ!」
怒鳴り返しながら、スコップに山盛り掬った雪を放る。
本当に…コイツは入学した当初からずっと、俺という人間を見た目でしか判断しやがらねぇから嫌なんだ。
こんな大人にだけはなりたくねぇと、心底思う。
だけど……。
「お、一度にそれだけの量を掬えるのかぁ……流石だなぁ、黒崎!
いやぁ、お前さんが来てくれて本当に助かったよ。ありがとなぁ?」
「………」
この春に定年を迎える、星野という名の英語教師の。
嘘の無い温かみのある笑顔を目にした瞬間、俺の内側で膨れあがっていた怒気は急速に萎んでいった。
一年の冬に追認補習で世話になって以後、何暮れと無く俺を気遣ってくれるこの先生は、俺が尊敬する数少ない教師の一人だ。
「それにしても…確かに今日のお前さんは、いつもよりもちぃとばかしボンヤリしている事が多いぞ。何かあったか?」
「いえ、別に……」
穏やかな口調での、先生からの問いかけに。
しかしながらこの時の俺は、適当に言葉を濁してごまかすことしか出来なかった。
いくら敬愛する相手とはいえ、先刻のような出来事をおいそれと話せる訳がない。
先生もそれ以上深くは突っ込んで来なかったから、それを幸いとばかりに、しばらくは無言で雪かきに没頭して。
20分程も経った頃だろうか。
校長と教頭が缶コーヒーを差し入れてくれたとかで、休憩の声がかかった。
雪山にスコップを突き立て、額の汗をタオルで拭けば、ふわり……と。
微かな甘い香りに、鼻孔をくすぐられる。
「……………」
ああ……やっぱり、駄目だ。
彼女の髪の残り香に、否応無く『あの瞬間』に意識が引き戻されてしまう。
どくり……と、心臓が高鳴って。
彼女の輪郭を覚えてしまった身体が、再び熱を持ち始めるのを止められない。
忘れなければ……と、思うのに。
そう思えば思うほど、余計に彼女の持つ柔らかさと体温とを思い出してしまって、頭の中が真っ白になってしまう。
そうやって、しょっちゅう思考や動作を停止させていれば。
周囲から怪しまれてしまうのも、そりゃ当然と言うもので……。
「…………くそっ!」
悪態を吐きつつ、髪をかきむしる。
「変態かよ、俺はっ?!」
「誰が何だって?」
「うわぁっ?!」
慌てて背後を振り向けば、星野先生が両手に珈琲缶を持って立っていた。
「………驚かせて悪かったが…正直お前の声のでかさに、こっちの心臓の方が止まるかと思ったぞ」
「す、すみません…ちょっと考え事してたもんで……」
「お前さんが取りに来る様子が無かったんで、勝手に持ってきたんだが……ブラックで良かったか?」
「あ、はい…! ありがとうございますっ!!」
俺へと差し出された缶を素直に受け取り、プルトップを引く。
「考え事って……黒崎、お前やっぱり、何か悩み事でもあるのと違うか?」
「…………」
「井上と、何かあったかよ?」
「ぶっ……」
思わず、口に含んでいたコーヒーの大半を噴いてしまった。
「……何で、井上の名前が出て来るんです?」
「何でって……つき合ってんだろ、お前さん達」
「いえ……ただの友達ですけど」
「今更、そんな誤魔化し言わんでも」
「誤魔化してませんよ」
「……ホントか?」
「ホントですってば」
「何だ、つまらんなぁ」
「つまらん…って……」
呆れ顔で、隣でちびちびとコーヒーを啜る先生を振り返る。
「もし本当に俺と井上がつき合ってて、何か問題を起こしたんだとしたら、困るのは先生達の方だろ?」
「ははっ! まぁ、それはそうなんだがなぁ…」
生え際がかなり後退した額をつるりと撫で上げながら、からり…と陽気に笑って。
それから先生はひとつ大きく息を吐き出すと、「そうか…違うのか……」と、それはそれは残念そうに呟いた。
「………先生?」
「いや、な…中学で井上の担任をしてたのが、たまたま俺の大学の後輩でなぁ……。
此処に合格が決まった時に色々と話を聞かされていたし、俺にも娘が居るものだから、入学以来ずっと、何となく目を離せずにいたんだよ。
井上は明るいし、真面目で頑張り屋だが、肝心なところでネジが抜け落ちてるようなところがあるだろう?
他人にはとことん親身になるくせに、自分のマイナス感情は内に抱え込んで見せないタイプだしな。
加えて、天涯孤独の身の上ときている。
お前さんみたいなのが側に居るなら、この先も心強かろうと思っていたんだが……」
「………」
「なぁ、黒崎………あの子は、良い子だぞ?」
「………知ってます」
「あと数年したら、そりゃあ佳い女になる」
「………でしょうね」
「おいおい、随分と他人事な反応だなぁ? まぁ…つまりは、そう言う事か」
「………」
「俺としては残念だが、人の気持ちは他人がどうこう出来るもんじゃねぇしな。
いやいや、変な事を言ってすまなかった。
気を悪くしないでくれよ、黒崎」
苦笑しつつ、缶に残ったコーヒーをあおって。
先生は踵を返し、俺に背を向けようとした。
「………先生…?」
「ん?」
俺を振り返った瞳が優しく細まるのを確認してから、ゆっくりと口を開く。
「好きだった……って。そう、過去形で言われたんだ…俺」
「……黒崎…?」
「それって、さ。今はもう、好きじゃねぇ…って意味だろ……?」
大きく見開かれていく、先生の瞳
その視線から逃れるように俯いた俺の耳に届いたのは、優しく諭すように響く声だった。
「なぁ、黒崎?
仕事でも何でもそうだがな…憶測だけで物事を判断するのは、ひどく危険な事だ。
多分、だろう…と、曖昧なままにして先に進むと、大概がろくでも無い結果に終わるものだよ」
「………」
「何にせよ、泣いても笑っても、お前さん等の卒業式はもう目前なんだ。
後々になって、逃した魚はでかかった…と、悔やむことのないようにな?」
「………はい」
顔を上げ、真っ直ぐに先生の顔を見て。
小さく……ではあったけれど、決意を込めて顎を引く。
そんな俺を、励ますように。
日溜まりのような微笑みを浮かべながら、先生はゆっくりと肯いてくれた。
除雪作業は、正午を三十分程すぎた頃に終了して。
若手の教員連中を手伝って一緒に道具を片づけた後、俺もまた調理室へと向かった。
一歩一歩、階段を昇りながら。
井上に何と声をかけ、どう話を切り出したら良いだろう……と、思い悩む。
正直、気まずさは未だ未だ半端なくあって。
声をかけるどころか、井上の顔をまともに見ることすら出来そうにない…とか思ってしまう。
……それでも。
このまま済し崩しに、終わらせたくはない……と。
それだけは絶対に嫌だ……と、拳を強く握りしめた。
……なぁ、井上。
お前の俺への想いは、もう完全に終わってしまっている……?
もし、そうでないのなら。
いや……例え、そうなのだとしても。
伝えるから。
俺の気持ち、ちゃんと伝えるから。
それがほんの僅かにでも、お前の心に響いたなら……その時、は。
もう一度俺を振り返って、いつもの笑顔を見せて欲しいんだ……。
扉の前で、深呼吸をひとつして。
意を決して、調理室へと足を踏み入れる。
だけど……。
先生方の談笑する声で賑わう、室内。
どれだけ見回してみても、俺の瞳に綺麗な胡桃色は映らなくて……。
急いで、カレーを注ぎ分けている熊谷先生の側に駆け寄る。
「先生…っ! あの、井上は?」
「あら黒崎君、お疲れさま! 井上さんならついさっき、用事があるって言って帰ったけど?」
「な……っ?!」
慌てて霊圧を探ってみれば、それは今まさに校門の外へと出ていこうとしているところだった。
「………やられた!」
くるりと回れ右をして、扉へと駆け寄る。
「ちょ、ちょっと…黒崎くんっ?! カレー、食べて行かないのぉ?!」
そんな先生の呼びかけに、返事すらせずに。
室外へと飛び出した俺は、全速力で廊下を走り出した。
.