Camellia



チャイムの音で、我に返った。

夢から叩き起こされたような気分で、慌てて瞼を持ち上げる。
見開いた俺の瞳に映ったの、は。
苦しげに目を伏せて、肩で息をしている井上だった。
……しかも。
タオルを掴んでいた筈の俺の手は、何故か彼女の背中と腰に回っていて。
その華奢な身体を、彼女の背がしなるほどに、強く抱きしめていて……。





 俺は 
    彼女に 
        何をした?





頭の中が真っ白になるほどに思考がとんでいたのは、ホンの一瞬のことで。
意識と理性とを同時に取り戻した俺は、慌てて彼女から身体を離した。
そのまま数歩後ずされば、がたんっ…と派手な衝突音。
気が動転していた俺に、背後を確認する余裕など有る筈がなく、思いっきり机に身体を激突させてしまったからだった。

「ご、ごめ……っ!」

口に出せたのは、それだけ。
それだけで、本当に精一杯で。
そのまま口元を押さえて、自分の足下ばかりをうろうろと見回す。
顔を上げることなど…ましてや彼女と視線を合わせることなど、到底出来やしなかった。
顔から火が出る、なんてもんじゃない。
全身から発火してもおかしくないと思えるくらい、羞恥で身体が熱かった。

それでいて。

体の中心部だけは、凍てつくような冷たさを感じていた。
まるで、心臓だけを絶対零度の空間に放り込まれたかのように……。



『………嫌われてしまうだろうか』



好きでもない男に押さえつけられて、力づくで接吻けられて……。
それは井上にとって、どんなにか恐ろしい瞬間だったろう?

馬鹿な事をした、と。
今更激しく後悔したところで、まさに後の祭りだ。

もしもこの事が原因で、これまで大切に護ってきた『仲間』という立ち位置すら失うことになったら……?

ちらり…とそんな不安が脳裏を掠めただけで、ぞくり……と。
強烈な悪寒が、背筋伝いに這いあがってくる。



俺の世界から、彼女の存在が失われる……と、いう事。
それは俺にとって、何にも勝る恐怖だった。










罵声を浴びせられるか。
頬を叩かれるか。
或いは、泣きだされてしまうか。

次に、俺と彼女との間に起こるであろう状況を、いくつか想定して…。

ただ、たとえどんな状況になろうとも、彼女には誠心誠意謝らなければ……と。
土下座だろうと何だろうと、井上が望むことを、望むままに。
逃げもせず、言い訳もせず、正面から彼女の怒りを受け止めよう……そう、覚悟を決めた時だった。


「……謝らないで欲しいな」


耳に届いたのは、静かに優しく響くソプラノ
思わず顔を上げれば、ふうわり……と。
いつもと同じ…いや、それ以上に、柔らかな微笑みを浮かべた井上が、俺の視線の先に居た。

「いのう…え……?」

予想外の彼女の言葉と表情に、ただ呆然として目を見開く。
そんな俺に対し、今度は少し困ったような顔をして微笑みながら、彼女はもう一度同じ言葉を繰り返した。


お願いだから、謝らないでくれ……と。





「何、で……?」

掠れる声で問いかければ、井上はやっぱり、困ったように微笑んで。
すっ…と俺の顔から視線を外しながら、静かに口を開いた。

「……嫌、じゃ…なかった……から…」

一言一言、ゆっくりと。
まるで自分自身に確かめるようにして、井上は言葉を紡いでいく。

「うん、そう……多分、きっと…嫌じゃ、なかったの。だから……」
「…っ、?!」


何故、彼女がそんな事を言うのか…俺には全く、理解出来なかった。
だって…彼氏でも何でもない奴との、キスだぞ?
それを、嫌じゃなかった……だ、なんて。
そんなの有り得ないだろう、普通は?!

そう、普通は……って。
………まさか?!


「もしかして、経験済み……とか?」


恐る恐る問いかけてみれば、井上は一瞬、ぎょっ…としたように目を見張って。
それから苦笑へとその表情を変えると、ゆるゆると首を横に振った。

「………初めて、だよ?」
「なら…どうして……?」
「どうして、って……」

そこで初めて、井上の瞳が大きく揺らいだ。
くしゃり…と、今にも泣き出しそうに綺麗な顔が歪む。
だけど、それもまた一瞬のことで。
一度、俯いて…再び顔を上げたとき、やっぱり井上は微笑みを浮かべていた。

だけど……。

その笑顔を目にした、瞬間。
きゅう……と、まるで心臓を握りつぶされたような痛みが、全身を貫くように走った。

間違いなく、彼女は微笑んでいるのに…泣いてなど、いないのに……。
その笑顔の向こう側にどうしようもなく透けて見えるのは、哀しみや淋しさといった感情で。
まるで散り際の花のように脆く、淡雪のように儚く頼りなげなイメージばかりが、俺の心をじわじわと浸食していくのだ。

「井上……」

胸が苦しくなるほどの、切なさを感じて。
思わず一歩、彼女に向かって踏み出しかけた……まさに、その時だった。

廊下を小走りに近づいてくる足音を、聴覚が捉えて。
はっ……として背後を振り返ったところで、がらり…と勢い良く引き戸が開かれた。

「お! もう来てたのか、二人とも!!」

ひょこりと顔を覗かせたのは、越智さんで。
慌てて「おはようございます」と頭を下げる、俺と井上。

「じゃあ、黒崎……お前は着替えを済ませたら外に出て、校門から昇降口までの雪かきを手伝ってくれ」
「……はい」
「井上、お前は調理室へ行ってくれるか?」
「調理室、ですか?」 
「ああ。家庭科の熊谷先生が、調理実習用の食材が次の授業日までは保ちそうに無いと言うのでな。
今日出勤した職員皆でそれを買い取って、熊谷先生に何か身体が温まるものを作ってもらって、作業後に食べようという話になったんだ。
勿論、あんたらからはお金はとらないよ。作業のお礼代わりに、あたしらで奢るからな!
……と言う訳で、井上。お前は熊谷先生の助手を頼むな?」
「わかりました」
「いいかぁ、井上!
くれぐれも、熊谷先生に出された指示以外の事をするんじゃないぞ?!
特に、思いつきで食材やら調味料加えるのは絶対にやめろ、分かったな!!
それじゃあ黒崎、とっとと着替えて降りて来いよ? 
五分以内に来なければ、割当面積は倍になると思えよ!!」

言いたい放題、言うだけ言って。
ぴしゃりと戸を閉め、越智さんが廊下を走り去る。
その足音が、俺たちの耳に届かなくなった頃だった。

「……それじゃ…私、行くね?」

井上の声に慌てて背後を振り返れば、彼女はにこり…と小さく微笑んで。
机と俺との間をするりと通り抜けると、足早に引き戸へと近づき、取っ手に手を伸ばした。

「待てよ、いのうえ……っ!」

思わず呼び止めてしまった俺の声に、びくり…と揺れる細い肩。

「井上…その……っ、」
「先刻の事なら、本当にもう気にしなくていいよ…?」

俺の言葉を遮るように、井上が声を発する。
それは穏やかながらも、凛とした響きを持って室内に響き渡った。
俺は二の句を継ぐ事が出来ず、ただただ彼女の後ろ姿を見つめるばかりで……。

そんな俺の視線の先で、井上がゆっくりと俺を振り返った。
先刻と同じように、脆く儚げな微笑みを浮かべながら………。

………そして。










「あの、ね…? 私……黒崎くんの事、大好きだった」










胡桃色の髪が勢い良く翻る様が、大きく見開いた瞳に映る。
ぴしゃり…と引き戸が閉まり、独り室内に取り残された俺は、しばらくの間、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。







「………井上が、俺を…好き……?」







……だけど。
この時に俺の心を占めていたのは、喜びではなくて。
とても言葉では言い表せないような、やりきれない気持ちだった。

のろのろ……と。
足下へと落ちていく視線が、床に落ちたスポーツタオルを捉えて止まる。
緩慢な動作で拾い上げれば、ふわり……と。
微かな甘い香りが、静かに空気を揺らした。

思わず、ぎゅっ…と。
タオルを握る手に、血の気が失せる程の力が籠もる。










「……………過去形、かよ…!?」











呻くように、呟いて。
きつく、唇を噛みしめた………。















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