Camellia



「わぁ……」
「うお、あったけぇ……!」

越智さんが暖房を入れておいてくれた教室は、戸外を歩いてきて冷えきった身体にとって正に天国だった。
何はともあれ、先ずはストーブに近寄ると、二人並んで温風の吹き出し口に手をかざし、かじかんだ指先を暖める。
ひと心地ついたところで各々コートを脱ぐと、手近な椅子を引き寄せ、濡れた部分に温風が当たるようにして引っかけた。

「……こんなもんかな」

誰に聞かせるともなく、呟いて。
その直後、横に立つ井上が立て続けに二度くしゃみをした。

「……大丈夫か?」
「うん。だいじょ…………ふぇ……くしゅっ!」
「………」
「ぅー…参ったなぁ……」

何やら低い声で唸りつつ、鞄の中からハンドタオルを探り出し、口元や手を拭う井上。
その姿を見るともなく眺めていた俺は、ふと、彼女の髪が酷く湿り気を帯びている事に気がついた。

「井上、お前…結構、髪の毛濡れてるぞ?」
「あ、うん…気づいてるよ。さっきからそのせいですーすーしてて…だからくしゃみが出ちゃったの」
「わざわざ雪の上に倒れたりなんかするからだ。
雪国と違って、ここいら辺に降る雪は水気が多いのに……。
風邪でも引いたら、どうすんだよ」
「だって…どうしてもやってみたかったんだもん」
「………餓鬼」
「どぉせ餓鬼ですよぉ。ふん、だ……黒崎君の、いじめっ子!」

顔をしかめ、べぇっ…と舌を出す井上。
そのあまりに子供っぽい仕草に、思わず言葉を失い、面食らう。

「……心配してやってんだろ?」

気を取り直し、幾分むっとした口調で言いつつ、軽く井上の額を弾いてやれば。
彼女は「わかってますよぉ」と、むくれたように返事をした後、一転して、今度は悪戯っ子のような幼い笑顔で俺を見上げた。
その愛らしさに、再び言葉を失ってしまう。
そんな俺の、視線の先。

「ほんと…お兄ちゃん気質だよねぇ、黒崎君は……」

くすくす……と笑いながら、井上は手にしたハンドタオルで、髪の水気を拭っていた。
しかしながら、彼女の髪は腰に届くほどの長さがある。
いくらも経たないうちに、タオルはその用を成さなくなってしまった。

「他にはタオル、持ってきて無ぇのか?」

そう問いかければ、こくり…と頷き、困ったように眉を八の字に下げる井上。

小さくひとつ、溜息を吐いて。
俺は彼女に背を向けると、自分の鞄から大判のスポーツタオルを取り出した。
それを手に、再び彼女へと向き直って。
両手でふわりとタオルを広げると、井上の頭の上からすっぽりと被せてしまう。

「みぎゃっ?!」

驚いた井上が、まるで尻尾を踏まれた子猫のような、妙な悲鳴を上げたけれど。
そんな事にはお構い無しに、わしわし……と。
それこそ濡れネズミになった猫か犬の身体でも拭くかのように、俺は些か乱暴な手つきで彼女の髪を拭き続けた。

………何と説明したら、良いのだろう。

この時の俺は、少しばかりムシャクシャしていたんだ。
井上に対する気遣いを、単なる「お兄ちゃん気質」として片付けられてしまった事が、なんだか気に食わなくて。


『………そんなんじゃ、ねぇ。そんなんじゃ、ねぇ…の、に……』


きゅっ……と、下唇を噛んで。
無意識に力が増してしまった俺の掌の下、たまりかねたように井上が悲鳴に近い声を上げた。

「く…黒崎くんっ! お願い、もう止めっ……うぷっ!」
「うるさい、黙ってろ。風邪引くよりマシだろうが」
「だって…このままじゃ、髪、絡まって切れちゃう……!!」
「…っ、?!」

これには流石に、手が止まった。
彼女の綺麗な髪を痛めてしまう事など、当然ながら俺の本意では無かったのだから。

ぷはっ……と。
まるで水から顔を出すときのように、タオルの下から顔を覗かせる井上。

「もう、黒崎君たら…! 私、犬や猫じゃないよぉ!!」

そう言いながら、俺を見上げて笑う……その笑顔を目にした、瞬間。
俺は三度、言葉を失った。


外の寒さが原因なのか、常にも増して白く見える、陶器人形のような肌。
逆にストーブに温められた所為か、頬は紅を掃いたかのように、綺麗な綺麗な薔薇色で……。

すっと通った鼻梁の下。
花弁のような彼女の口唇もまた、瑞々しい果実のように濡れた紅色に染まっている。

その肌の色と、頬と、口唇の色と…に。
オーバーラップするのは、先刻、登校途中に見た景色。


白く輝く、雪。
その上に落ちていた、赤い花。

歩みを止めてしまうほどに魅せられた、鮮やかな色彩の対比。
それが今、俺のすぐ目の前に再現されていた。





どくり……鼓動が、鳴る。
どろりと熱い何かを、心の底から吐き出し、身体全体に押し流すように。

くらり……意識が、揺れる。
色の洪水に酔ってしまった時のように。




こくり……唾を、飲み込んだ。
それでも、喉の乾きは収まらない。

熱い、熱い、熱い……喉が、身体が。
痛くて…苦くて……まるで、灼かれているかのようで………。








「くろさき……く………?」







微かに震える井上の声を、どこか遠くに聞いていた。
彼女が後ろに身を引こうとするのを察して、とっさにタオルを強く掴み直す。

くんっ……と、突っ張るタオル。
退路を阻まれた井上が、その両の目を大きく大きく見開いた。







………逃がさない。







違う。
そうじゃ、ない。
逃げられないのは、俺。



汚れのない、白い雪。
赤い花が放っていた、妖艶な輝き。


色彩の持つ、魔の引力。
引き摺られ、呑み込まれたのは……多分、俺の理性。







……落ちる……

     
     ……落ちる……


 
 ……何が?


 
 花、が。
    

    赤い、花が……。










 『赤い椿白い椿と落ちにけり』 











……違う。
椿じゃ、ない。

落ちたの、は……。








「くろ…さ………ぁ…」












 ……堕ちたのは、俺……











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