Camellia
幾度か雪に足をとられながらも、転ぶことなく無事学校に到着して。
校門を通り抜けたところで、俺は思わず足を止めた。
真っ白い雪に覆われた、校庭のど真ん中。
ぽつん……と一人、佇む人影。
俺から見えているのは後ろ姿だったけれど、それが井上だということはすぐに判った。
たとえ遠目だろうと、見誤る筈がない。
風にゆるく靡く頭髪は、綺麗な胡桃色なのだから……。
あんなところで、何を……と。
俺が僅かに、眉根を寄せたときだった。
すいっ……と。
彼女の腕が地面に対して平行に、ひどく優雅な動作で持ち上がった。
その格好はまるで、見えない十字架に磔にでもされたかのようだ。
………そして。
その姿に戸惑う間すら、俺に与えず。
井上はそのまま後ろ向きに、真っ直ぐに雪の上へと倒れ込んでいった。
「い、いのうえっ?!」
仰天し、大きく目をみはって。
彼女の名を叫びながら、慌てて雪の上を走り出す。
『………まさか、新手の敵の攻撃か?!』
心臓がきりきりと痛み、顔からは血の気が音を立てて引いていく。
ずぼっ、ずぼっ…と深い雪にはまる足を、引き抜いては前に踏み出し、踏み出しては引き抜いて。
幾度か転びそうになりながらも、ようやっと彼女側へと辿りついた俺の耳に届いたの、は。
「……あれぇ、黒崎君だぁ」
むくり…と、雪の中から半身を起こして。
不思議そうに俺を振り返りながら彼女の発した、のほほーんと暢気極まりない、酷く間の抜けたソプラノだった。
そして、きょとん…とした目つきで俺を見ながら、まるで童女のように首を傾げる。
「どうしたの? そんなに血相変えて」
「どう、した、の、じゃ…ねぇ、だろっ!!」
肩で息を吐いて。
荒い呼吸の合間に、切れ切れに言葉を発する。
「目の前で急に倒れられたら、誰だって驚くわ! この、ど阿呆!!」
彼女を失う事を恐怖する気持ちが、安堵へと変わった反動だろうか。
思わずキツい口調で彼女を怒鳴りつけてしまえば、井上は「うひゃっ」と小さく悲鳴を上げて、軽く首を竦めた。
その姿に、小さく溜息を吐く俺。
「一体、何があったんだ。怪我は、無ぇのか……?」
そう声をかけながら、彼女が立ち上がるのに手を貸すべく、もっと近くに寄ろうとした。
……そのとき。
「あ、ダメ! ストップ!! それ以上寄っちゃ、ダメ!!!」
井上から発せられた、強く鋭い制止の声。
ぎょっとして立ち竦んだ俺の目の前、そろり…と。
慎重な動作で立ち上がった井上は、ゆっくりと背後の地(雪?)面を振り返るなり、ぱぁ…っとその表情を輝かせた。
「やったぁ! 大成功!!」
雪の上に、は。
それはそれは見事な程に、くっきりはっきりと人型の窪みができあがっていた。
「………それが、目的?」
「うん! 一度でいいから、やってみたかったんだよねぇ」
にこにこ……と。
邪気の欠片も無い笑顔を目にして、俺はがっくりと頭と肩とを落とした。
拍子抜け、なんてもんじゃない。
まるで全身の骨を砕かれたような気分で、ヘタリ込まずにいるのがやっとなくらいだ。
「あ、あの……くろさき…くん?」
「………莫迦野郎! 俺の寿命、数年は確実に縮んだぞ」
「え? ええっ?!」
「俺はまた、新手の敵にでもお前が襲われたのかと……」
「………ぁ…」
「ホント…心臓が凍りつくかと思った……」
前髪の隙間から睨みつければ、井上はしゅん…となって項垂れてしまった。
「……ごめんなさい。まさか後ろに人が…しかも黒崎君が居るなんて、思わなくて…」
「霊圧感知、得意なくせに」
「……だって…こんな凄い大雪、生まれて初めてなんだもの。つい、興奮して……」
「…………」
呆れたように大きな溜息を吐けば、更に身を縮こませる井上。
俺は苦笑をこぼしながら、「まぁ、無事で何よりだ」と呟いた。
井上は、もう一度「心配かけて、ごめんなさい」と俺に頭を下げた後。
どうして今、俺が此処に居るのか…と、問いかけてきた。
「ああ…越智さんに合格の報告したら、学校に来て、雪かきを手伝えって言われて……」
「ふぅん、そうなんだぁ……………え、合格っ?!」
柔らかく細められかけた瞳が、今度は転げ落ちそうな程に大きく見開かれる。
「く…くろさき、く………」
「受かったんだ、俺。第一志望の大学に」
「う…わぁ……!!」
にっ…と笑いかければ、井上はきらっきらに瞳を輝かせて。
「お、おめでとう、黒崎くんっ! 本当に、本当におめでとう!!」
そう、言いながら。
あろうことか、俺の首っ玉めがけて飛びついてきたのだ。
「うわぁあっ?!」
「きゃ…っ?!」
きっと自分のことのようにはしゃぎながら、祝ってくれるだろう…そう、予想してはいたけれど。
まさか抱きつかれるとは、思わなくて。
当然ながらバランスを崩し、井上を抱えたまま雪の上に転がる俺。
幸いと言うか、何と言うか。
積もりたての柔らかい雪がクッションになって、背や後頭部に痛みを感じることは無かったけれど……。
「…っ、?!」
頬に当たる、柔らかな髪。
そこから立ち上る甘い香りに、くらり…と脳髄が揺れる。
そして、何よりも。
胸板付近に感じる、何とも形容しがたい弾力……その正体に気づいて、俺は愕然とした。
『やばっ……』
かっ……と、顔に血がのぼる。
鼓動はまるで、早鐘を鳴らしているかのようだった。
制服の上にコートを着ているから、多分、井上には聞こえていないと思うけれど。
それでも、もしかしたら……と。
全身から冷や汗が吹き出すほど、その拍動は強く激しくて。
しかも…どくどく、どくどく……と。
急速に流れを速めた血液が、頭のみならず…下肢へと向かい始めたのに気づいた俺は、酷く焦って狼狽えた。
「い…いのう、えっ……!」
「ご、ごごごごごめんなさいっ!!」
わたわたと慌てながら、井上が俺の上から退く。
何とか、間に合った……と。
大きく吐いた安堵の溜息を、どうやら井上は、自分への非難と受け取ったようだった。
しおれた花のように、深く深くうなだれる井上。
俺は自分の照れ隠しも兼ねて、彼女の頭にぽふっと手を乗せると、そのままくしゃりとかき回した。
「……そんな顔、すんな。ちょっと…びっくりしただけだから。祝ってくれたのは、本当に嬉しいよ」
「くろさき…く……」
前髪の隙間から、不安に揺れる瞳で俺の顔色を伺う井上。
俺が口の端をにぃ…と持ち上げると、そこでようやく彼女の表情も綻んだ。
「……コートと制服、少し濡れちゃった?」
「ああ…まぁ、泥で汚れてねぇから、乾けば何てことないだろ」
「越智先生が、私のクラスの鍵を開けて、ストーブを点けておいてくれるって言ってた。
黒崎君、着替え…ある?」
「ああ…雪かきの手伝いだからな、ジャージ持って来た」
「じゃあ…ストーブの前に椅子とかおいて掛けておけば、雪かきの間に充分乾くよね!
よかったぁ……」
にこり……と、花のように井上が笑う。
俺も、つられるように笑顔になって。
「……んじゃ、行くか」
「うん!」
転ばぬよう注意しながら立ち上がり、井上に手を貸して立ち上がらせて。
白い雪の上に新たな足跡を付けながら、二人一緒に、昇降口へと向かった。
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