終わりに見る景色に、は



……翌朝。


「お兄ちゃん、そろそろ起きないと小島君が来ちゃうけど……学校、行ける?」
「……行けるよ」

部屋まで様子を見に来た遊子の頭をくしゃりと一撫でして、ベッドから起き上がる。

「具合が悪いなら、無理しない方がいいんじゃない?」
「大丈夫だ。昨日は悪かったな、折角の夕食を無駄にしちまって」
「そんな事は、気にしてないけど……」

尚も不安そうな遊子に、出来うる限り優しく微笑んで。
着替えてから階下に降りるから、コーヒーを淹れておいてくれと頼んだ。

「……わかった。でも、本当に無理しないでね?」
「ああ」

俺の方を幾度も振り返りながら、部屋を出て行く遊子。
扉が静かに閉ざされると同時に、俺は深い溜息を吐きつつどかり…とベッドに腰を下ろした。

「………」

正直、心の中は行きたくない気持ちで一杯だった。
井上に逢うのが、怖くて。
俺を見た彼女が、どんな表情を浮かべるだろうか……と。
ちら、と想像しただけで、自己嫌悪からくる吐き気が強烈に喉元をせり上がってくる。

……それでも。



「決めたのは、俺だ……」



強く、頭を一振りして。
ベッドから立ち上がると、俺は制服へと手を伸ばした。










「何かあった? 一護」

思わず、呼吸が止まる。
お早う…と挨拶しあってからは、会話はするものの、視線は常に携帯の画面へと向けていた水色なのに。

「……別に何も」

さりげなく息を吐き出しながら答えれば、水色もまた「そ?」と短く返してきただけで。
それ以上深くは追及してこなかったのを幸いに、話題を春休みに公開となる洋画へと切り変えた。
やがてそこに啓吾が加わり、いつものように三人でど突き漫才のような会話を交わしながら、校門を通り抜ける。

昇降口まで、あと数メートルに迫った時だった。

こちらに向かって走ってくる、軽やかな足音が聞こえてきて。
それが俺達を追い抜くと同時に耳に届いたのは、元気に弾むソプラノの声。

「おはよう黒崎くん、小島くん、浅野くんっ!」

長い髪を翻えし、顔半分だけ振り返って微笑んだの、は……。

「井上……」

呆然として立ち竦くむ俺に軽く手を振って、走り去る彼女。

「いやぁ、相変わらず可愛らしいですなぁ~っ!」

くねくねと妙な身振り付きで、啓吾が感嘆の声を上げて。
その声に我に返ると、水色が横目に俺を見ていた。

「……何だよ」
「別に」

軽く、はぐらかして。
再び携帯に視線戻しながら、さらりと言う。

「目元、赤かったね……井上さん」
「……へぇ、気がつかなかったな」

嘘じゃ、なかった。
あまりにも鮮やかな笑顔に圧倒されて、そこまで気を回す余裕なんて無かったから。

「何かあったのかな」
「……さぁな」

軽く、肩を竦めて。
ざわつく胸の内を悟られぬよう必死に平静を装いながら、再び昇降口へと向かって足を踏み出す。

下足箱の前で鉢合わせるのが嫌で、わざとゆっくり歩いた。
にも関わらず、井上は手芸部の後輩らしき女生徒に呼び止められて話をしていて。
結局は肩を並べて靴を仕舞う羽目になってしまった事に、小さく溜息を吐く。

ちらり…と視線を走らせて彼女の様子を伺えば、なるほど水色の言った通り、その目元は一目で泣き腫らしたと判る程に赤かった。
それなのに、俺と視線が合ったならば綺麗な微笑みを浮かべてみせる。
その笑顔を目にした、瞬間。
俺の胸の内に沸き起こったのは罪悪感でも後悔でもなく、強烈な苛立ちだった。
断腸の思いでの井上に決別を告げた……その俺の気持ちを、苦悩を、完全に無視されたように感じて。

勿論、俺の言葉に井上が従う義務など本来的に有りはしないのだから、客観的に見れば今の俺の状態はまさに逆ギレそのものだ。
ただ頭ではそうと判っていても、心が、感情が、どうにもついて行かない。

「……井上」

眉根を顰め、咎める響きを含めて声低く名を呼べば。
彼女は口元の笑みを絶やさぬまま、静かに目を伏せて俺から視線を逸らした。

「心配しないで。黒崎君を困らせるつもりはないから」
「なら、どうして…っ、?!」
「あーっ! そこ、なに二人で内緒話してんのっ?!」

大声で割り込んできた啓吾に、咄嗟に開きかけた口を閉じる。

「あれっ、井上さんの目元、随分赤いじゃん!? 何か辛いことでもあったの?!」
「あははー、やっぱり目立つ? 参ったなぁ、もう……」

ぎくり…と身体を強ばらせた俺とは逆に、井上は明るく笑って啓吾に応えた。

「今、黒崎君にも訊かれたんだけど……単に、昨日観た映画に感情移入しすぎて、大泣きしちゃっただけなの!
朝鏡を見て、自分でも仰天しちゃって。
慌てて濡れタオルで冷やしたりしたんだけど…あまり時間も無かったし、今一つ効果が出なかったんだ。
びっくりさせちゃって、ごめんね?」
「何だ、そっかぁー。そういえば、井上さんてばすっげぇ涙脆いもんな」
「えへへ、お恥ずかしい…」

そんな会話を交わしながら、教室へと向かって廊下を歩き出す啓吾と井上。
その半歩後ろを、相変わらず携帯を操作し続けながらの水色が続く。
更にその数歩離れた位置を歩きながら、俺はもうこの日何度目かもわからなくなった溜息を吐き出した。
その成分の九割以上は、おそらく『安堵』だ。
だけど……。


「それにしても、酷い顔ねぇ…。いったい何を観れば、そこまで泣けるっていうのよ?」
「んと、【レ・ミゼラブル】だよ」
「わ…! 織姫、あれ観てくれたんだ!!」
「うん! だってあんなにみちるちゃんが熱心にお勧めしてくれたんだもん、これは絶対に観なくちゃ…と思って。
鈴ちゃんも、観て損は無いって言ってたし……本当に、その通りだったよ!!」
「何かさ、【民衆の歌】とか結構耳に残らない?」
「うんうん! ふ…と気がつくと、口ずさんでたりするよね!! 伯母さんからの次の仕送りで、サントラ買ちゃおうかなぁ……」
「映画じゃなくて、舞台版を収録したのなら家にあるよ…と言っても、私のじゃなくてママのだけど。
古いものだから音質は良くないけど、なんたって歌詞が日本語だから、すんなり世界に入っていけるんだ。
もし良かったら、貸してもらえるように頼んでみようか? 織姫になら、ママも二つ返事でOKしてくれると思う」
「本当、みちるちゃん?! うわぁ、嬉しいなぁ…!」

教室でも腫れ上がった目元を理由に質問責めに合いながら、それに対して笑みを絶やさず応える井上。
頬杖を付きながらぼんやりとその光景を眺める俺の胸中は、何とも複雑極まりなかった。

友人達の真ん中で明るく笑う井上は、目元の赤味さえ除けば全くもっていつもの通りで。
事情を知っている竜貴はともかく、それ以外の彼女の友人達や他のクラスメイトは、映画を観て泣いたという井上の言い訳を微塵も疑ってはいないようだ。
少なくとも、俺の目にはそう見える。

そんな風に彼女が振る舞える理由は、何なのだろう。

元来彼女の持っている、精神的な強さ故なのか。
それとも……。



『そもそも彼女にとっての俺という存在が、その程度のものだった…って事か……?』



もしも、推測どおりだったとしたら……?
そう考えると、酷く苦々しい想いが胸の内に広がっていく。

今この瞬間だって、俺は臓物を捻り上げられるような苦痛を感じているというのに。
彼女はたった一晩泣き明かしただけで、すっきりすっぱり気持ちの整理をつけてしまったと言うのだろうか。
だとしたら……?





「…………あ、は…っ!!」

思わず、声を上げて嗤ってしまった。

どんだけ馬鹿なんだ、俺は……!
彼女の態度がいつもどおりだからって、それが一体どうしたというのだろう。

何を思い悩む必要がある?
二度と彼女には関わらない。そう決めたのは、他でもない俺自身だ。
彼女が立ち直っていようと、いまいと……そんなの、どっちだって良いじゃねぇか!

俺にはもう、関係無ぇ。
もう、どうだって良い事なんだ………。














そうして始まった新たな日々…平穏で、静かで、酷く空虚な毎日に、俺は意外なほどに早く、すんなりと馴染んでいった。
その一番の要因と言えばやはり、井上の俺への態度にあっただろう。


………黒崎君を困らせるような事はしないから。


その言葉どおり。
彼女は実に上手く、俺と距離を置いてくれた。
たとえば、登下校時の挨拶だとか……。
比較的仲の良いクラスメイトとしての関わりのみを残して、「それ以外の接触」すべてを、見事に断ってのけたのだ。

「それ以外の接触」とは要するに、大半が尸魂界絡みの一連の事柄であって。
そもそも初めから他人の目や耳を憚ってのやりとりしかしていないのだから、それらが失われたところで、俺と井上の関係の変化に気付く者など皆無に等しかった。
結果、俺は誰かに質問責めにされたり、変な噂を立てられるような事態に、陥るようなことは無かった。

勿論、石田やチャド、水色あたりは何かしら感づいていたに違いない。
時折、物言いたげな視線を向けられることはあったから。
しかしながら、結局奴らは今回の件に関して、一切口を挟んで来なかった。
おそらく、下手に介入などすれば、却って井上を傷つける事になりかねない…と、分かっていたからなのだろう。


そんな日々の中で。
俺の脳内では、予想もしなかった奇妙な現象が起こり始めていた。
井上から「おはよう」と「もう、帰るの? またね!」という二言を貰い続けるうちに、俺は次第に大きな錯覚を覚えるようになったのだ。

ルキアとの出会いから始まった死神代行としての日々全て。
その何もかもが、夢の中の出来事だったんじゃないか……って。

そんな…残酷で幸せな、錯覚を……。



俺と挨拶を交わす際の、井上の。
瞳の奥底に、ごく稀に切なげな光が揺れる事があったりだとか。
気後れしたようにどもってみたり、何かを言おうとして口を開いても、結局は口ごもってしまう……そんな態度にさえ。
俺は罪悪感を抱くどころか、むしろ暗い悦びを感じるようになっていった。
何故なら、そんな彼女の仕草や行動はまさに、俺と彼女が出会ったばかりの頃によく目にしていたもので。
錯覚の世界こそが、真実である…と。
より強く俺自身の心を惑わせるのに、絶大な効力を発揮していたからだ。

そう……死神の力も、井上の手を取る資格も、「失った」と思うから辛いのだ。
そんなもの、最初から無かったのだと思えば。
 
そうすれば………!









そんな風に。
俺が「井上の為」という大義名分の元、卑怯にも錯覚の世界に酔いしれている間も、日々は当たり前に過ぎていって。
一年生最後の定期テストに頭を抱え、球技大会などの年度末行事をこなしているうちに、いつしか学校は春休みに突入していた。

部活に入っている連中と違って、特別やることも無い俺は。
妹達の買い物や遠出につきあってやる以外は、日がな一日ベッドに転がって、本を読んだり音楽を聴いたり……と、まさに平々凡々を絵に描いたような毎日を送っていた。



……そう、あの日。
竜貴からの電話を、受ける瞬間までは………。







『一護……あんた、いま直ぐに石田ン家の病院に来なさい! わかったわね?!』

低い声で、それだけを告げて。
おそらくは院内の公衆電話を使っていたのだろう、がちゃんっ!と派手な音とともに通話が切れる。








………ひどく、胸騒ぎがした。

















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