BLUE BLUE BLUE
八月に入り、十日を過ぎた頃。
俺は、井上のマンションの前に立っていた。
携帯を取り出し、アドレス帳から彼女の家電の番号を選んで発信する。
呼び出し音が五回を数えたところで、思わず眉根を寄せた。
「留守……か?」
呟いた瞬間。
かちゃりと、受話器が持ち上げられる音がして。
『……もっ、もしもし?』
何やら苦しげに掠れた声が、電波の向こう側から届いた。
「い、いのうえっ? どうした、何があった?!」
焦って、携帯電話に噛みつくように叫ぶと。
『え?! く、くくくくくくくろさきっ、くん?! あいたた……』
電話を掛けてきた相手が俺だったことに余程驚いたのか、ひどく慌てた甲高い声が聞こえた。
「あいたた……て、怪我でもしてるのか?」
『や、あのっ、えっと…大丈夫、たいしたことないの!
今、お風呂掃除してて…慌てて移動してきたら、卓袱台に足の小指ぶつけちゃって………』
「わ、悪ぃ!」
『え、何で何でっ?! 黒崎君が謝ることじゃないよ!! 私がドジなのがいけないんだもの』
ばたばたと手を振りながら、力一杯否定する井上の姿が見えたような気がして。
俺は小さく、息を吐き出した。
「爪とか、剥がれてねぇか?」
『うん……それは大丈夫…みたいだけど………」
………黒崎君こそ、何かあったの?
心配そうな声が、躊躇いがちに届く。
『黒崎君がうちに電話してくるなんて、珍しいから……』
「あ、いや……別に、大した用事じゃねぇんだけど、さ………」
彼女の不安を取り除きたくて、できるだけ明るい口調でそう言って。
「これから、ちょっと外に出られるか?」
『え?』
「そんなに時間かからねぇからよ。
……実は今、井上ん家の前に居るんだ。窓下……わかるか?」
『え? えええ?!』
ばたばたと彼女が慌てて動く気配が、電話の向こう側からして。
見上げる、彼女の部屋の窓。
からりと音を立てて、サッシが開いた。
ひょこり…と突き出された、胡桃色の頭髪に縁取られた色白の顔。
彼女がその大きな瞳を、より一層大きく見開いたのが、遠目でもわかって。
「……どうだ? 出て、来られるか?」
『うん…あ、あの、もし良かったら、上がる? 外、暑いでしょ?
部屋、ちょっと散らかってるけど…麦茶くらいならあるよ……?』
「いや…今日は、遠慮しとく。前みたいに、他の奴ら居ねぇしさ。
変な噂とか立てられたら、不味いだろ?
俺の所為で、この前審査に通ったって喜んでた、なんちゃら財団の無償奨学金、ぱぁにでもなったら困るしさ」
『あ…じゃ、じゃあね?
この通りを300メートルくらい真っ直ぐ行った角のとこ、児童公園になってるの。
そこは、どうかな?』
「ああ、いいんじゃね?」
『………ごめんなさい、出来たら先に行っててくれる?
私、お風呂でカビ取りしてたから……今、凄くみっともない格好してるの。
急いで着替えるから…少し待ってて? そこなら木陰もあるし』
「了解。じゃあ、後で………」
通話を、切る。
手を振る彼女の姿が、窓の向こうに消えるのを見届けて。
携帯をポケットに突っ込みながら、井上が示した方角へと踵を返した。
十分程、経って。
お待たせ……と息を弾ませながら、井上が公園に駆け込んできた。
胸元に切り替えのある、スクエアネックのふんわりとしたチュニック。
それに、七分丈の細身のパンツを合わせて。
年頃の女の子らしいその格好は、制服姿を見慣れた目にとても新鮮に写った。
身振りで、俺の腰掛けているベンチに座るよう促す。
「お…お邪魔します……」
ぺこりと頭を下げて、人独りが座れるかどうかという微妙な空間を置いて、彼女が腰掛ける。
「……あの、用事って?」
小首を傾げ、俺の顔を覗きこんでくる井上に、一度小さく笑ってみせて。
「あのさ……」
一つ、お願い事をした。
「………ちょっと、目…瞑って?」
「へ? な、何でっ?!」
ぱちぱちっ……と、瞬きを繰り返す彼女。
思わず吹き出しそうになりながら、とにかく目を瞑ってくれと、再度頼む。
「別に、お前に何かしたりしねぇから」
「あ…………そ、そうなんだ」
あからさまに落胆した様子の彼女に、思わず眉根を寄せる。
「………?」
「いえっ、あの……ななな何でもないっすよ!」
あはは…と笑いながら、井上は顔の前で両手をひらひらさせて。
それから「こう?」と僅かに首を傾けながら、瞳を閉じた。
彼女が、薄目を開けたり等していないことを確認して。
自分の体で隠すようにしていた『それ』を、手に取った。
「もう、開けていいぞ」
ゆっくりゆっくり……彼女が瞼を持ち上げる。
現れた薄茶の瞳が、俺が彼女の顔面に掲げ持っていた『それ』を見て、大きく大きく見開かれていく。
「くろさき、く……これ………!」
「間近で見たいって、言ってたろ?」
伸ばされた微かに震える手が、『それ』をしっかりと受け取るのを確認して。
「捕虫網を手にしたのなんて、何年ぶりかな……」
そう言って笑いながら、取っ手から手を離す。
「青条揚羽………」
ちいさく呟いた、井上の掌の上。
小型の透明な飼育ケースの中で、翡翠色の帯飾りを持つその蝶が、ゆったりと羽根を動かした。
「どうして………?」
しばらくの間、呆然と。
飼育ケースの中を覗き込んでいた井上が、掠れた声で俺に問いかけた。
その真っ直ぐな視線に、急に照れ臭さがこみ上げて。
手の甲で一度、鼻の頭を擦る。
「井上にその蝶の事教えてもらってから、やたらと姿が目に付くようになってさ……。
別に…急に沸いて出てきたわけじゃなくて。
きっとお前に教えてもらったから、意識に留まるようになったんだと思うんだけど……。
それでもあんまり頻繁に目にするから、ちょっと気になって…親父のパソコン借りて調べてみたんだ。
そうしたら…そいつらが卵を産みつける樹が、うちのすぐ近くの家の庭木として、植わってることがわかったんだ。
……で、さ?
そこん家の人に庭に入る許可貰って、捕まえてきたって訳」
にっ……と、笑って。
それから彼女の膝の上に置かれた飼育箱の、拡大レンズを兼ねた蓋から中を覗き込む。
「俺もさ、捕まえてからここに来るまで、幾度かじっくり眺めてみたんだけど………。
確かに、綺麗だよな。
井上が、もう一度良く見たい……って願った気持ち、理解る気がした」
「黒崎君………」
彼女もまた、飼育箱を覗き込む。
もう一度、目の高さまで持ち上げて。
幾度か箱の向きを変えつつ、うっとりと目を細め気味に蝶を見つめた後。
「ありがとう、黒崎君……本当に、嬉しい…………」
ゆっくりと俺を振り仰いで、ふうわりと綺麗に微笑んだ。
その表情に、どくん…と心臓が強く鳴って。
そんな体の反応に自分自身で慌てながら、ぎこちなく視線を反らす。
それから小さく、苦笑して。
「井上には、世話になりっぱなしだからな。勉強教えて貰ったり……さ」
「そんな…たいしたことじゃないのに……」
「いや……マジ、井上には感謝してんだ。
俺が二年に進級できたのだって、お前がつきっきりで補習課題と追試の面倒を看てくれたからじゃねぇか。
だから、さ?
何でもいいから、お前が手放しで喜んでくれるようなこと……いつか、してやりたいって思ってたんだ」
「黒崎君………」
「でも……ごめん、な?」
「え?」
「それこそ、こんな…小学生でも出来るような事でしか、返してやれなくて………さ」
自嘲気味に、口の端を釣り上げる。
「ホント…何の役にも立たなくて、さ。使えねぇよなぁ、今の俺って………」
はは……と、小さく乾いた笑い声を上げて。
髪を、掻き上げた。
何気なく、隣の井上を振り返って。
視界に捉えた彼女の表情に、ぎくり……と身体が強ばる。
「いの…う……え…………」
薄茶の大きな瞳を、揺らして。
静かに…透き通るような哀しみを湛えて、彼女が俺を見ていた。
急速に……口が、喉が、乾いていく。
視線を反らせたくて…でも、出来なくて………。
喘ぐように、呼吸を一つ。
………そのとき。
綺麗なひと雫の涙が、彼女の頬を伝って流れ落ちた………。