GIFT



「井上っ……!」

梯子を登りきったところで、一護は織姫の名を叫んだ。
しかしながら、彼女からの返事は無く。
軽く首を巡らせてみても、目に映るのは大きな貯水タンクとコンクリートの壁面ばかりである。

それでも一護は、確信していた。
此処に、織姫が居る事を。

霊圧を探るまでもない。
良くも悪くも、これまでの経験で研ぎすまされた彼の皮膚の感覚が、聴覚が、強く訴えかけてくるのだ。
彼女の、存在を。
その、確かな息遣いを………。



目を閉じ、ひとつ呼吸をして。
ゆっくりと持ち上がった瞼の下、瞳に強い決意の色を宿した一護は、タンクと壁面の間の空間へと足を踏み出した。










『どうしよう…どうしたらいいの……』

給水棟の陰にうずくまる、織姫。
その華奢な体が、ガタガタと小刻みに震え続ける。

彼女はこの時、完全にパニック状態だった。






前日に篤志に請われたとおり、放課後になってすぐに屋上へと上がって。
先に来ていた篤志とろくに挨拶の言葉も交わさぬうちに給水棟へ上がっていてくれと言われ、理由も教えられぬまま、せきたてられるようにして梯子を登った。

ふう……と、一息吐いて。
その、直後。
重い鉄扉が開く音を、聞いた。

……そして。

「悪ぃ、待たせたか?」

青空の下、静かに響いた低音。
その、聞き覚えのある…あり過ぎる声に、思わず身体が硬直した。

慌てて、転げるようにして壁の陰へと周りこむ。

その場に座り込んで、息を潜めて。
どきん、どきん……と。
やたらと耳につく自身の鼓動の煩わしさに、苦しげに眉根を寄せた……その時だった。

「………井上は、渡さない」



呼吸が、止まった。



「………、はぁっ!」

給水棟の床面に、へたりこんで。
織姫は喘ぐように、息を吐き出した。

『落ち着いて…落ち着くのよ、織姫………』

呼吸すら困難なほどに騒ぎだした心臓を、彼女は必死になって宥める。
渡さない…その言葉の裏に、自分が期待するような意味など無いのだ………と。
以前虚圏で、グリムジョー相手に口にした…「仲間として」連れて帰る…あの言葉と、きっと同義語なのだ………と。

たが、しかし………。



「絶対に、譲らねぇ。あいつの隣は…それだけは……お前にも、他の誰にも」



「……、っ!!」

心臓が、きゅう…と切ない音を立てて。
全身を貫ぬいて走った甘い痛みに震えながら、織姫は掌で顔を覆った。

一護達との間にある距離、そしてコンクリート壁に阻まれて、彼らの会話の一言一句全てが聞こえたわけではない。
それでも、所々…風が彼女のもとへと運んでくれる低音は、辿々しくも誠実な響きを持って、確かに織姫への恋情を紡いでいく。

『…黒崎、くん………』

胸の奥が、熱くなる。
瞼の裏側も、また……。

指の間から涙がこぼれ落ちる。

その綺麗な滴が膝の上で弾けた瞬間、織姫は弾かれたように顔を上げた。
紅潮し、薔薇色に染まっていた頬が、みるみるうちに青冷めていく。

『……私、ここで何をしてるの…! これじゃ…これじゃあ、まるで……盗み聞きじゃないの………!!』

それは、酷く狡くて卑怯な事のように思えて。
慌てふためいて逃げ場を探したところで、そんな所は何処にも無い。
棟から降りるには梯子を使うしかなく、梯子の下には一護と篤志が居るのだ。
まさか下校中の生徒が大勢居る校庭に、白昼堂々と三天結盾で降りていくわけにもいかない。

『どうか…どうか、私が居ると気づかれませんように……』

霊圧は、一護が屋上に来た時点で、極力小さく抑え込んであった。
それを更に奥へと閉じこめようとするかのように、織姫は自分の腕で自分の身体をぎゅっと抱きしめる。

『ああ、神様……どうか………』

だが、その願いは聞き届けられなかった。



「井上、お前もだ!! 解ったな?!」



一際強く響いた声に、心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いて。
反射的に腰を上げた織姫は、震えてうまく動かない足を引きずるようにして、必死に移動を始めた。
棟への上がり口とは反対側の、タンクの陰へ……と。










「………井上?」

タンクと壁の僅かな隙間、そこにうずくまって震える人影に、一護は静かに声をかけた。
胡桃色の髪が流れる背が強ばり、華奢な肩がびくんと跳ねる。

「井上」

もう一度、出来うる限りの優しさを込めて一護が名を呼ぶと、織姫はようやく、のろのろと彼を振り返った。
その顔は幽鬼の如く青冷め、見開かれた瞳は怯えの色で濃く染まっている。

その、恐怖に硬く強ばった織姫の表情に、一護は冷水を浴びせられたようなショックを受けた。
織姫の心は、未だ自分に向いている…そう思ったのは、自惚れに過ぎなかったのか……と。

『……やっぱり、手遅れなのか…?』

一護の顔が、苦しげに歪む。
そのとき織姫の、色を失って戦慄く唇から、微かな声がこぼれ落ちた。

「ご……めん、な…さ………」

その謝罪の言葉に、一護の心が一層深い闇へと突き落とされる。
しかしながら。

「…あ……あた…し、盗み聞……す…つも……なん、て…無かっ………」

途切れ途切れの音を繋ぎあわせ、その意味することを理解した瞬間、暗雲垂れ込めていた一護の心に一条の光が射した。

『未だ、希望はある。未だ………』

織姫はまるで壊れたトーキングドールのように、一護に向かって「ごめんなさい」を繰り返す。
それはいかにも、卑怯で曲がった事の大嫌いな彼女らしい事だ……と。
こんな時だというのにどうしようもなく心に沸き上がる愛おしさに、目を細めて織姫を見つめながら、一護はゆっくりと頭を振った。

「……別に、気にしてねぇよ」

穏やかに微笑んで、織姫の方へと一歩踏み出す。
だか織姫はバネが跳ねるような勢いで立ち上がると、一護に向かって鋭い制止の声を発した。

「……いや! 来ちゃ、嫌!!」
「いのうえ……」
「お願い、来ないで…来ないでぇ…っ!」

悲痛な声で、叫んで。
くるりと踵を返した織姫は、必死にその場から逃げ去ろうとする。
慌てて一護は後を追ったが、こんな時に限って織姫は、タンクから横に伸びた数本の給水管に躓きもしないのだ。

「井上っ……!」

とうとうタンクを一周してしまったその先に、何故か求める姿は無く。
気配を感じて視線を上へと向けた一護は、タンクの天辺へと向かう梯子を登る織姫を見つけて、ぎょっとして目を見開いた。

「莫迦、何やってんだ! 降りて来い、井上!!」

一護の懇願は当然ながら無視されて、梯子を登りきった織姫の姿が彼の視界から消える。

「……くそっ!」

悪態を吐きながら舌打ちをし、一護もまた梯子を登るべく腕を伸ばした。














一護が梯子を登りきると、反対の端でおろおろと立ち往生している織姫の後ろ姿があった。
無我夢中でここまで来てしまったものの、その行動が寧ろ自分の退路を断ってしまった事に、彼女は酷く焦っているようだ。

「井上……」

一護はもう一度、できるだけ感情を抑えた声で織姫の名を呼んだ。
やはり全身を硬直させた後で、ぎくしゃくと織姫が彼を振り返る。
少しずつ距離を詰めていく一護を見返す顔には、絶望的な…と表現するしかない表情が浮かんでいた。

「来ちゃ、嫌だよ」
「いのう……」
「来ないで…って……言ってる…の、に………」

顔をひきつらせ、いやいやをする子供のように細い首を横に振る織姫。
その無意識に後ずさる足が、タンクの端を踏み外した。

「きゃっ……?!」
「いのうえっ!!」

ぐらり……と、大きく傾ぐ身体。
一護は全力で織姫に駆け寄ると、間一髪のところで細い手首を掴み取り取り、自分の方へと強く引き寄せた。
その力の反動でバランスを崩し、彼女諸共にタンクの上に転がる。

したたかに、タンクに身体を打ちつけて。
その痛みに小さく呻きながらも、一護は腕の中に感じる確かな温もりに、無事織姫を救えたことを悟って大きく安堵の息を吐き出した。

それと同時に、ふつふつと沸き上がってくる……怒り。

タンクに手をついて上体を持ち上げた一護、は。
呆けたように自分を見上げて瞬きを繰り返す織姫と視線がぶつかった途端、その苛立つ心のままに彼女を怒鳴りつけた。

「何考えてんだ何考えてんだ何考えてんだ、お前ぇええっ! 一歩間違えりゃ死んでるぞ、この大馬鹿野郎!!!」
「きゃああっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさぁぁああいっ!!!」

一護の鬼のような形相と迫力に怯えて、ぎゅっと目を瞑り、身体を縮こませる織姫。
そんな彼女の様子に、一護は何処か呆れたように溜息を吐き出した。
その吐息が顔にかかるのを感じながら、織姫は恐る恐る瞼を持ち上げる。

がっちりと、視線が重なって。

その瞬間、二人は唐突に気がついた。
自分たちが今、どんな体勢でいるのか……と、言う事に。
端から見れば、どうしたって一護が織姫を組み敷いているようにしかみえないという……その、位置関係に。

「うわぁああっ!!」
「ひゃぁああっ!!」

同時に、叫んで。
がばっと身を起こしながら、一護は背後に飛びすさった。
織姫もあわあわと起きあがると、何故かきっちりと正座座りをし、若干まくれ上がり気味だったスカートの裾を、膝頭を隠すように引っ張った。













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