GIFT
翌日、織姫はひたすら友人達から逃げ回って過ごした。
通学時間をずらすのは勿論のこと、休み時間はトイレに立つ等して極力席を外すようにしていた。
霊圧探査の能力を、こんなふうに使う事になるなんて……と。
トイレの個室内、友人達の霊圧が教室から遠ざかるのを息を潜めて待ちながら、情けなさに何度も涙を堪えた。
いつもは淋しいと思っている仲間達とのHR階の違いも、煩雑と感じる教室移動の多い時間割も、今日はただただ有り難いばかりで。
最も難関と思っていた昼休みに臨時の保健委員会が召集された時には、「正に、天の助けとはこの事か」と思ったほどだ。
その頃には、クラスメイトからの質問攻撃と冷やかしにも、いい加減辟易していたところだったのである。
そんなこんな……で。
放課後、迎えに来た篤志の姿を目にした時には、安堵感すら覚えた。
篤志の母親の車に乗り込んでしまえばもう、竜貴達にも追いかけようが無くなる。
無意識に深く息を吐きながら、シートに身を沈めて……しかしながら、そんな彼女の様子を篤志が見逃す筈もまた、無かった。
「随分と、お疲れのようですね」
「………移動教室、多かったから。体育もあったし、昼休みも委員会で潰れちゃったし」
………嘘では、ない。
心中で自分に言い聞かせながら、織姫は目を閉じたままで気怠げに返事をする。
「ところで……昨日から、先輩の携帯と繋がらないんですが」
ぎくり……と。
華奢な身体が僅かに強ばり、一瞬呼吸が止まった。
密かに、深呼吸して。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、織姫は苦笑めいた微笑みを篤志に向かって浮かべてみせる。
「私、そそっかしくて……どうやら携帯の充電の受け部分を、壊しちゃったみたいなの。
昨日の夜に気づいて、急いで遅くまでやってるショップに持ち込んだんだけど……部品交換が必要で、一週間かかるのですって」
「それなら、代替機を貸して貰えるでしょうに」
「今言ったじゃない。私は、そそっかしいんだって。借り物を壊したら困るから、代替え機は断ったの。
そもそも私、携帯の操作自体が苦手なんだ。
周りもそれを知ってるから、余程の用件でなければメールも何もしてこないし。だから、それほど不便は感じてないの」
「それじゃあ、家電が繋がらないのは何故なんですか?」
「え……?」
織姫は思わず息を飲み、目を僅かに見開いた。
篤志には、固定電話の電話番号を教えていなかったからだ。
「………迷惑電話対策で、線を抜いてるからだけど……でも」
「ああ、先輩に電話をかけたのは、僕ではなくてたつき先輩ですよ。
その後で、僕の家にもかけていらしたんです。
最初に井上先輩が僕の家を出た時間を聞かれて、次に電話が繋がらない理由を知っていたら教えてくれ……ってね。
特に家電は、一度は留守電になったのにその後で全く繋がらなくなったと、とても心配されてましたが」
「………一つ目の留守電が、その……悩みの種だったしつこい勧誘電話だったものだから……つい、カッとなって…線を抜いてしまって………」
「へぇ……」
「………ほ、本当よ」
「別に、嘘だなんて言ってませんよ」
「………」
「まぁ…要するに、携帯が故障しているって事も、電話の線を抜きっぱなしな事も、たつき先輩は知らないんですよね?」
「………ええ」
「それは良くありませんね。親友を心配させたら、駄目じゃないですか」
にっこり……と。
厚意を前面に押し出しつつ、有無を言わさぬ笑顔で篤志が自分の携帯を差しだす。
「これ、お貸ししますよ。確か、たつき先輩の番号は暗記してらっしゃるんですよね」
「……………」
篤志の顔と、差し出された携帯とを交互に見て。
やがて観念したように小さく息を吐き出すと、織姫はのろのろと手を伸ばし、篤志の掌の上から携帯電話を取り上げた。
………結果的に、は。
半ば強引に竜貴に電話をかけさせられた事は、皮肉にもその後の織姫の心理的負担を、多少なりとも減らす事になった。
竜貴も、そして他の友人達も。
この時を境に、彼女と無理に接触を試みようとはしなくなったからだ。
恐らく、友人達は。
納得がいかないながらも、篤志とつき合うと決めた彼女の選択を、とりあえずは受け入れる事にしたのだろう………そう、織姫は推測した。
それが、竜貴達の常なのだ。
どんなに反対しようとも、納得出来ないと首を横に振ろうとも、最終的には織姫の意志を尊重し、黙って見守る道を選んでくれる。
そんな友人達の自分への深い信頼と友情を嬉しく思いつつ、も。
今回はそれを逆手に取ったのだと自覚しているが故に、心苦しさも半端なかった。
それでも、常に友人達の霊圧を探り、近づくそれに怯えて逃げまどう………。
そんな必要がなくなった事に、どうしても安堵してしまう織姫だった。
篤志と過ごす時間も、引き続き平穏なままに二日が過ぎていった。
初日同様、最初の1時間はダイニングテーブルで独り学習。
そこから夕飯をご馳走になるまでは篤志が同席するものの、篤志の母親の目もまた、キッチンの中からしっかりと届いている。
要するに、二人きりで過ごした事など未だ一度もない。
………果たしてこれは、「お付き合い」と呼べるのだろうか?
篤志との関係が進まない事は、喜ばしいのだが。
一方、かなり悲壮な決意で交際を承諾した織姫にしてみれば、それはそれで困惑も大きい。
二日目の夕食前。
篤志の母親が、調味料が切れていた……と、隣家に借り受けに出かけた数分の間に、織姫は思い切って篤志に問いかけた。
「………何も、しないんだね」
「は……?」
篤志はきょとんとして、織姫を見返した。
知らばっくれているのではなく、心底不思議そうに瞬きを繰り返して。
それから、自分に向けられた思い詰めた視線に、織姫の言いたい事を察したらしい彼は「ああ……そういう事ですか」と、苦笑混じりに呟いた。
「そんなに何かされたいですか?」
「そう言うわけじゃないけど……」
気まずく言い澱んだ織姫に、篤志はくすり…と笑って肩を竦めて。
「僕だって別に、鬼畜ってわけじゃないんですよ?……と言っても、信じては貰えないかな。
真っ当だとはとても言えない手段を使った自覚は、ありますからね。
でも………」
そこで、ふ………っと。
篤志は酷く大人びた微笑を浮かべた。
その自分に向けられた眼差しに、思わず息を飲む織姫。
思春期の少年らしい、情熱の光はそのままに。
しかしながら同時に、そこには全てを諦めた老人のような暗い影が見え隠れしていたからだ。
「篤志、くん………?」
「先輩には、わからないかな。僕が今、どれだけ幸せか……ってこと。
沢山の人たちから先輩を独占して、こうして一緒に居られる……それだけの事が、今の僕にとってはどれほど嬉しいことなのか。
大袈裟でもなんでもなく、本当に奇跡みたいで…夢のようで……このままここで時間が止まってしまえば、どんなにか………」
「……、っ?!」
篤志の表情が、次第に泣くのを堪えるかのように歪んで。
その場にゆるゆると俯いていく様を、織姫は呆然として眺めていた。
何か言葉をかけようとして、でも何と言えばよいのか分からなくて。
口を開いたり閉じたり……そんな事を幾度か繰り返しているうちに、玄関の戸が開く音が聞こえた。
慌てたように篤志が顔を上げると同時に、リビングの扉が開く。
「お待たせ! あと5分で夕飯が出来るわよ」
「おかえり、母さん。今日はおばさんのおしゃべり攻撃を、巧くかわせたみたいだね」
そう言って笑う篤志の表情は、いつもの幾分あどけなさの残る少年に戻っていた。
勉強道具を片づけ始めた篤志の動きに、織姫もまた慌てて自分の道具を鞄に詰めていく。
母親を手伝って食器を運ぶ篤志に、ちらり……と視線を向けて。
再び手元に視線を落とすと、織姫は一つ静かに息を吐き出した。
………ただ、側に居られるだけでいい。
それは、彼女にも痛いほどわかる感情だった。
このまま時が止まってしまえばいいのに……と、願いたくなる瞬間があることも………。
篤志が自分にとった手段には共感できないし、許す気にもなれない。
それでも、例えどんな手段を使ってでも……と、狂おしいまでに恋いこがれ、相手を求めずにはいられない気持ちもまた、彼女には悲しいほど理解出来た。
私は風にはなれない。
それならば、私を好きな人に向かって帆を広げよう。
芸術鑑賞会で観た演劇の台詞が、織姫の脳裏に甦る。
『ゆっくりと、慣れていこう。
風であることをやめて、篤志君にとっての帆となることに………』
一人静かに、そう誓った。
それが出来ると、思った。
このまま穏やかに、月日が流れていくならば……いつかは、と。
………ところが。
「はよ、井上………」
翌日の朝。
マンション前の、道路端。
視界に入った橙色に、織姫はその場に凍り付いた………。