GIFT



「どうして、こんな事になっちゃったんだろう………」

一人きりの、部屋の中。
ベッドの上で、ぽつりと呟く。

幾筋もの涙痕の残る織姫の頬を、また新たな一滴が静かに伝い落ちていった………。










竜貴を介して、知り合った篤志。
何故自分が家庭教師役に指名されたのか……という疑問は、頭の片隅に残しつつも。
自分を「先輩、先輩」と呼んで慕ってくれる事に、悪い気がする筈もなかった。

………もしも弟が居たら、こんな感じなのかしら。

篤志との毎日の関わりの中で、そんな親愛の情を抱くようになっても、なんら不思議ではなかった。


ましてや近頃、織姫は一護との関係に淋しさを感じ始めていた矢先だった。
一護が医大受験を宣言した当初こそ、彼の成績を上げるために沢山の事を手伝えたものの。
越智も認めるように、元々の学力はそれなりに高い上に、本気になった時の集中力たるや半端無い一護である。
理系の科目に関しては既に、織姫が手を貸せる範囲を超えてしまっていた。

今はかろうじて、一護の成績を上回っている文系科目にしてみても。
尊敬する人物にシェイクスピアの名を挙げ、好んで洋楽を聴く……そんな趣味嗜好の持ち主である一護の事である。
いずれ自分の手助けなど、きっと必要としなくなる……そんな未来図は、あまりに容易に想像出来る事だった。


このまま卒業して、その後の進学先も別れて。
いつしか彼の中で、自分は「高校時代の仲間」というカテゴリに括られた、ただの思い出となり下がって行くのだろうか………。


そんな漠然とした不安や恐れに、心を浸食されつつあった織姫にとって。
篤志の相手をして過ごす時間は、少なからず癒しであり、救いでもあったのだ。

勿論そこにあるのは、あくまでも一後輩に対する親しみに過ぎず。
恋愛感情など、それこそ針の先程にも抱いてはいなかったのだけど。


………だからこそ。


あの日も単なる先輩としての親切心から、実に気楽に図書館での資料探しに付き合ったのだった。










篤志と二人で、資料が在るはずの棚を端から一冊ずつ、背表紙をなぞるように探して。
それでもどうしても見つけられず、司書の和泉に問い合わせれば、書庫に下げたとのこと。
過去にも書庫に入ったことのある織姫は、とりあえず自分達で探してみるから………と。
他の生徒のレファレンスに手一杯の様子の和泉を気遣い、篤志を伴って小部屋のドアを潜った。

少し手間取ったものの、無事に目当ての書籍を見つけて。
それを手渡しながら、これからも自分に出来ることなら何でも言ってくれ、いつでも力になるから……と。
そう、微笑みながら告げた時だった。

「へぇ………何でも、ですか?」
「………え?」

戸惑って声を上げた、織姫の視線の先。
にぃ………と、篤志の口の端がつり上がった。

それと同時、に。

それまで彼が持っていた、何処か弱々しく頼りない雰囲気が。
織姫の庇護欲を刺激してきた………それ、が。
酷く冷たく、鋭利なモノへと、一変したのである。


「篤志、くん………?」


織姫が呆然とするのも、無理はなかった。
しかしその隙を、当然ながら篤志が見逃す事は無く。
はっ……と気づいた時には、織姫の両手首は彼に拘束され、身体を背後の本棚に押しつけられていた。
その動きは、実に無駄が無く、静かで素早いもので。
織姫は今更のように、彼が一護と竜貴の弟弟子である…という事を、思い知らされたのだった。

織姫とて竜貴に仕込まれ、それなりの空手の腕を持ってはいる。
しかしいざとなれば身は竦み、一言の声さえも出てこない。
ただの人間相手では、六花を発動されるのも躊躇われて。
恐怖に膝が笑いそうになるのを堪え、へたり込まずにいるのがやっとだった。

そんな織姫、に。
にっこりと………実に無邪気な、まるで幼い子供のような笑顔を向けつつ、篤志は言った。

「では、僕の彼女になってください」

既に恐怖で見開かれていた織姫の瞳が、一層大きくなる。

「………何でも、って……わ、私…そういう意味で言ったんじゃ……な………」

震える、声で。
それでも全身から勇気を振り絞るようにして、織姫は篤志に抗議した。
しかしそれは想定内だったのだろう、篤志は余裕の微笑みを浮かべたままで。
ぞくり……と、織姫の背を冷たいものが這い上がる。
それを振り払うように頭を軽くひと振りし、織姫は何とかして篤志から逃れようと、腕に力を込めて身を捩った。

「お、お願い…手、離し…………」
「……………僕の曾祖父は、地主だったんです」
「え………?」

すい………と、織姫から視線を逸らして。
まるで独り言のように呟いた篤志の言葉に、思わず彼女は動きを止めた。
話の飛躍についていけず、戸惑って瞬きを繰り返す。
その織姫の顔にゆっくりと視線を戻すと。

「たつき先輩や、黒崎先輩の家が建っている辺り……あの一帯全部、曾祖父のものだったんです」

薄い笑みを浮かべながら、篤志は先を続けた。

「曾祖父が亡くなった後、相続や税金の関係で大分売り払ってしまったんですけど……それでも、幾らかは土地のまま祖父が相続して。
その残った土地の一部に、たつき先輩のところの道場が半ば以上はみ出して建っているんです。
………勿論それは祖父と有沢家、双方合意の上での事でした。
祖父同士が懇意にていて、いずれは有沢の道場に無償で寄付すると、約束してあったんだそうです。
問題は…それがあくまでも口約束で、正式なものではなかった……と言う事でした。
昨年、祖父が亡くなって……。
正式な手続きが踏まれていないと知った親戚の中に、返還を要求しよう、少なくとも適正な土地価格で買い取って貰うべきだと言い出す者が出ました。
まぁ…詳細については身内の恥を晒すようなものなので、省かせていただきますが………要は、その問題が未だに解決してないんですよ。
幸いと言いますか、祖父の跡を継いだ伯父は、祖父の遺志寄りのスタンスです。
でもそれは、僕という存在があってこそ……なんですよ。
甥が何年も世話になった人に、恩を仇で返すような真似が出来るか……って、ね。
伯父の家には生憎子供がいなくて…僕を実子のように可愛がってくれてるものですから………」

そこで一度、口を噤んで。
悪戯っぽく微笑みながら、篤志は織姫の瞳をのぞき込んだ。

「例えば……ですね?
僕自身は有沢の道場に対して、何の愛着も無い。
寧ろ、辛い記憶しか残っていないから、いっそ無くなってしまった方が清々するんだ、なぁんて事を言い出したとしたら。
さぁて……事態はどう変わるでしょうかね?。
果たして伯父はこれまで通りに、有沢の道場を守ろうとしてくれるでしょうか?」
「………っ?!」

大きく息を飲み、その場に凍り付く織姫。
更に追い打ちをかけるように、篤志が言った。

「しかも、です。
僕の言うところの『辛い記憶』というのが、稽古と称しての兄弟子からのイビりだったとしたら?」
「兄弟子って………まさか?!」
「ええ勿論、黒崎先輩の事ですよ。決まってるじゃないですか」
「………黒崎君は、後輩イビリなんて絶対にしないわ!
それに、怖いのは見かけだけで、本当はとても優しくて正義感のある人なんだって事は、あの町内の人達なら誰でも……っ」
「生憎ですが……伯父は仕事の都合で、もう何年も前から空座を離れて暮らしているんです。
そんな町内会レベルのローカル事情など、知りゃあしません。
それに……先刻、言ったでしょう? 伯父は僕を、とても可愛がってくれているって。
彼は僕の言うことを何でも鵜呑みにしがちだし、望むことは極力叶えようとしてくれるんです。
僕の母から、甘やかしすぎだと苦言を呈されるくらいに………ね」
「……………」
「そんな僕贔屓の伯父に、僕は黒崎先輩から、過去何年にも渡って酷い目にあわされてきたんだ……なんて、涙混じりの『告白』をしたとしたら……。
伯父はどんなにか、怒り狂うことでしょう。
ああ、ちなみに……ですね? 伯父は黒崎医院とも、浅からぬ関わりがあるんですよ。
有沢の家と懇意にしている医者だからって事で、伯父の妹である母と祖父が口添えをしましてね。数年前の医院改修の費用……ほぼ無利子に近い金利で、多額の融資をしているんです。
下手すると、その貸付金の残金……なんやかやと理由付けて全額返済を迫る……なんて嫌がらせとか、しかねないんじゃないかなぁ………?
町医者なんて世間が思うほど、儲かる商売じゃ無いみたいですからね。
黒崎先輩の進学も危うくなるでしょうし、最悪、医院を畳んで一家で空座を出ていく……なんて事も、起こりうるんじゃないですか……?」



がくがく………と。
織姫の膝が、先刻とは違った理由で再び震え出した。

そんな彼女の様子に、篤志の口角はより一層つり上がっていく。
まるで、獲物を前に舌なめずりをする、肉食獣のように………。



「要するに、これは取引です。
井上先輩の、お二人に対する友情と…有沢家、黒崎家の安寧とを秤に掛けた……ね。
先輩が僕の彼女になって下さるなら、道場の建つ土地の無償譲渡や、黒崎医院への債権放棄を、伯父や他の親戚相手にこれまで以上に熱心に訴えましょう。
もし返事がノーなら……僕がどうするつもりか、もうお理解りですね?
ああ勿論、この取引の内容を他言するようなことがあっても同様です。
……さあ、どうします?」



ゆっくりと篤志が、織姫の手首を離す。

そのまま、数歩下がって、織姫との間に距離を作る。
逃げたければ、どうぞ………そう、言わんばかりに。



………でも。



織姫は、逃げなかった。
逃げる事など、出来なかった。

彼女の脳裏を、大切な二人の笑顔がよぎっていく。










「………僕と、付き合って貰えますね?」










頷く以外の選択枝など、織姫に残されてはいなかった。














8/22ページ
スキ