GIFT
………放課後。
竜貴は越智から渡されたプリントの入った封筒を手に、織姫のマンション前に立っていた。
路上から、四階にある織姫の部屋を見上げて。
「………よし」
口の中でつぶやき、気合いを入れる。
そしていよいよ、エントランスに足を踏み入れようとした時だった。
「たつき先輩」
背後からかけられた声に、ぎくりと足を止める。
その、聞き覚えのある声の主は………。
「篤志………」
「こんにちは。先輩も、井上先輩のお見舞いですか?」
にこやかな笑みを浮かべて近寄ってくる、かつての弟弟子。
その姿に、竜貴は思わず生唾を飲み込んだ。
相手は自分より年下で、しかも空手では絶対に負けない自信がある。
それにも関わらず、竜貴は妙に気圧されるような感覚に襲われ、その場を退かずにいるのがやっとだったのだ。
「なんで、あんたが此処にいるの………?」
「何で……って」
くすり……と、小さく篤志は苦笑し、肩を竦める
「自分の彼女が学校を欠席したと聞いて、心配して様子を見に来る……と言うのは、彼氏として別段おかしな行動ではないでしょう?」
「……………」
竜貴は無意識に、奥歯をぎり……っと鳴らした。
篤志が織姫を「自分の彼女」と呼ぶ事が、酷く腹立たしかったのだ。
「篤志……ちょっと、顔貨しな」
竜貴は顎をしゃくるようにして篤志を促すと、先に立ってエントランスを突っ切り、マンション裏の広場へと向かった。
数歩進んで背後を振り返ると、篤志は素直に後を着いてくる。
その顔に、何処か捉えどころのない笑みを浮かべながら………。
ぞくり………と、竜貴の背筋に悪寒が走る。
さりげなく視線を前方に向けながら、竜貴は固く拳を握りしめた。
「………あんた…一体織姫に何をしたの?」
広場に着いて。
それが竜貴の、第一声だった。
対する篤志は、まるで幼児のようにきょとんとして首を傾げる。
「何…って……交際を申し込んで、OK貰っただけですよ?」
「それがそもそも、おかしいのよ!」
募る苛立ちのままに、竜貴は言い放った。
「織姫には、ずっと想っている相手が居るの。
それこそ、命がけで恋してる相手が………。
ホンの数日面倒を看ただけのあんたに、その位置を奪う事なんて出来る筈が無いのよ!
それに、この前あんたの携帯を借りたって言ってかかってきた電話……あんたも隣で聞いてたでしょうけど、あの子は私に心配要らないって繰り返し言ったわ。
でも…それはあの子の身に、何か良くない事が起こっている時の癖なの!
困難な状況に陥れば陥るほど、周囲の人間に心配かけまいと笑顔をみせる。巻き込むまいとして、泣き言を言わなくなる………。
織姫は、そういう人間なのよ!
それでも…これまでは余程の事でなければ、あたしにだけは何かしら相談してくれたのに、今回はそれも無……」
そこまで一息に続けて。
その次の瞬間、はっ……と何かに気づいたように口を噤み、竜貴は目を大きく見開いた。
「まさか………」
呟く竜貴の表情が、みるみるうちに激しい怒りを孕んだものに変わっていく。
「篤志……あんた…まさか、あの件を持ち出したんじゃないでしょうね?!
それこそ織姫は全くの無関係なのに、あの話を盾にあの子を脅したんだとしたら……。
あたしはあんたを、絶対に絶対に許さないから!」
肩で息を吐くほどに、激昂する竜貴。
しかしながら、それに対する篤志はと言えば、動じる様子も無ければ竜貴の問いに答えようともしない。
ただうっすらと、微笑むばかりで………。
「……………篤志?」
訝し気に、竜貴が眉根を顰めた時だった。
くっ……と喉の奥で小さな笑い声を立てた篤志が、さも感心したように呟いた。
「随分と熱心に、心配されるんですねぇ……井上先輩の事」
その声音には、何処か嘲るような響きもまた、含まれていて。
竜貴はかっ……と頭に血が昇るのを自覚しながら、「当たり前でしょう?!」と語気強く言い返した。
「あの子は、私の親友よ!」
「それにしても、です。人が好いにも程があるなぁ……と、思って」
「………一体、何が言いたいの」
「だって……井上先輩の想い人って、黒崎先輩の事でしょう?」
「………そうよ」
「それなら、今の…井上先輩と僕が付き合い始めたって状況は、たつき先輩にとって、ある意味チャンスじゃないですか」
「チャン…ス……?」
「ええ……だって先輩こそ、黒崎先輩の事…もうずっと以前から好きだったでしょう?」
その言葉、に。
竜貴は愕然として、その場に凍り付いた。
青ざめた顔で呆然と立ち尽くす彼女の視線の先で、篤志がひょいと肩を竦める。
「あれ……そんなに驚かれるとは、思わなかったな。僕ら後輩の間では、もっぱらの噂だったのに。
たつき先輩の気持ちに気づいてないのは、当の黒崎先輩くらいのものだろう……って」
「……………」
「もしかしたら、あの自習室仲間の先輩達の中にも、気づいてる人って居るんじゃないですか?
ああ…井上先輩については、心配要らないと思いますけどね。
あの人は黒崎先輩以上に他人の色恋沙汰には疎そうですし、それだからこそ、これまで巧く誤魔化してこられたんでしょうから」
言葉を失ったままの竜貴を、可笑しそうに見て。
ゆっくりと歩み寄り、その距離を縮めると、篤志は彼女の手から静かに封筒を取り上げた。
「これは僕が届けます。こんな会話の後じゃあ、流石のたつき先輩だって、井上先輩とは顔を合わせ難いでしょう?」
「……………」
「安心してください、部屋に上がり込んで不埒な真似を働く気はありませんから。
ドア越しに話をして、この封書はポストに入れてきます。
実は僕、この後にも用事があって……長居したくても出来ないんですよ。
もしお疑いなら、此処で僕が戻るのを待ってくれていてもいいですよ?
5分経っても僕が戻らなければ、警備員さんと駆けつけてくれても、警察を呼んで下さっても結構です」
それじゃ………と、踵を返す篤志。
その、背中に。
「………あの二人は、『対』なのよ」
振り絞るような、竜貴の声が届いた。
ゆっくりと、篤志が振り返る。
「『対』………?」
「そう」
肯いて、真っ直ぐに顔を上げて篤志を見返す……その竜貴の表情からは、先刻までの動揺の色は既に消えて。
静かに落ち着いた光が、その黒耀石のような瞳に戻ってきていた。
「一護も織姫も過去に大切な肉親を失った事で、心に大きな傷を負ってる。
その傷はあまりにも深すぎて、周囲の人間は誰も…肉親でさえも、癒す術を持たなかった。
でも……あの二人はお互いに、その、誰にもどうにも出来なかった闇の部分に、寄り添う事ができる。
お互いがお互いに唯一人の、傷に触れる事を許した相手なのよ。
それを本人達が…特に一護が、どこまで自覚しているかは判らないけれど………」
「……………」
「あの子達が出会って、三年。二人とも、随分と変わったわ………。
以前はね、一護も織姫も、どこか自分の命を軽んじているようなところがあったの。
肉親の死に対する自責の念が、二人ともあんまりに強すぎてね。
自分の命で購う事を無意識に望んでいたのか、敢えて危険に身を晒すような真似ばかりしてたの。
今だって二人とも、他人の為に平気で無茶な行動に出ては、あたし達周囲をはらはらさせてくれるけど………でもその根底に『自分なんか、いつ死んでもいい』的な投げやりな感情が透けて見えることは無くなったわ。
だって………有る意味、当前よね。
やっと見つけた誰よりも護りたい存在が、自分に負けず劣らずの超絶無鉄砲者で……しかも、友人や家族を護る為なら、自分の命を投げ出すことを躊躇しないタイプの人間だったんだもの!
そんな相手を護りたかったら、死にかけてる暇なんて無いもの。
何よりも先ず、自分が生きて無事でいないといけないわ。
………そうやって、ね。
あの子達はお互いに、知らず知らず相手の命を『此処』に繋ぎ留めてきたの。
大切に大切に、互いを護りあってきたのよ!!」
「………だから『対』、なんですか…?」
「そうよ」
強く肯いた竜貴の顔から、ふいっと視線を逸らして。
そうですか……と。
まるで独り言のように、小さく篤志は呟いて。
それから再び竜貴に顔を向けると、皮肉っぽく口元を笑い歪めて言った。
先輩って、案外ロマンチストだったんですね………と。
「意外でしたよ。『対』とか、『唯一の相手』とか………そんな少女漫画みたいな台詞を、まさか先輩の口から聞く事になるとは、ね。
もっとずっと、現実的なモノの見方をする人だと思っていたのに」
「あら………別にその『現実主義者』って評価は、あながち間違いじゃないわよ?」
竜貴の口の端が、にぃ……と不敵に吊りがる。
「現実が見えているからこそ、報われる可能性のない自分の恋心なんかの為に、自分や周囲の人間を無駄に振り回さずに済んだのよ!」
「っ……?!」
息を飲んで絶句する篤志に、自嘲とも苦笑ともつかない複雑な笑みを浮かべてみせて。
幾分伏し目がちに俯くと、竜貴は静かに口を開いた。
「あたしはね……ずっとずっと、一護と織姫を救いたかったの………。
でも、出来なかった。
どうしてもどうしても、出来なかったのよ」
「先輩………」
「二人ともあたしの事を、とても大切に想ってくれるわ。
古くからの、幼なじみとして。
一番の、親友として。
………でも、ね?
あの子達の闇に触れることだけは、決して許されなかった。
二人とも、何時だってどんな時だって『大丈夫だ、心配要らない』って、言って。
見ているこっちの胸が痛くなるような、切ない微笑みを浮かべながらも、決してあたしをそこに踏み込ませてはくれなかったの。
そんなあの子達が、ようやっと自分の全てをさらけだせる相手を見つけたのよ。
心全部を、委ねられる相手を………。
あたしが一番に夢見た事、願った事を、一護と織姫は互いに叶えてくれたのよ。
その二人の為に、この先あたしは何が出来るだろう……そう考えたら、見つかる答えなんて一つしかなった。
だからあたしは、決めたのよ。
あたしの一護への気持ちは、このまま黙って墓の下に持って行こう……って」
顔を上げ、晴れやかに笑って。
しかしそこから一転して、竜貴の表情は怖いほど真剣なものに変わった。
「………先輩?」
「お願い、篤志。織姫から……あの二人から、手を引いて!」
決して大きくも強くもないが、常よりも低めで凄みすら感じる声が、凛とその場に響く。
それきり互いに無言のまま、相手の視線を真っ直ぐに受け止めあって………どのくらいの秒数が経っただろうか。
「なら、どうして………?」
微かに掠れた声が、篤志の唇の隙間から漏れた。
「そこまで言うなら、どうして先輩は何もしないんですか? 何でもっと積極的に、あの二人をどうにかしようとしてこなかったんです?!」
「………それ、は…」
「僕に言った言葉は、結局全部綺麗事ですか?
本当は心の何処かで、自分の失恋が決定的になるのを瞬間を、見たくないと思っているからじゃないんですか?!」
「違う、篤志! それは、違う!!!」
激しくかぶりを振りながら、も。
唇を強く噛みしめ、その場にうなだれる竜貴。
きつくきつく、苦痛に耐えるように目を瞑って……そんな彼女の耳に届いたの、は。
「………すみません、僕が言い過ぎました」
ひどく優しく労りの隠った、かつての弟弟子の声だった。
のろのろと顔を上げた竜貴に、篤志は静かに微笑む。
「半月、先輩達と過ごしてきて……仮初めの客に過ぎなかった僕でさえも、先輩達の作る空間に居ることは、とてもとても心地良かった。
これまで過ごしてきた、どの場所よりも………。
一歩間違えば、あの場所を失う事になるかもしれない……そう思ったら、どうしたって足は竦みますよね。
仕方の無い事だったと思います」
「篤志………」
にっこりと、笑って。
くるりと竜貴に背を向けて、篤志が広場の出口へと向かって歩きだす。
黙って見送る、竜貴の視線の先。
しかしながら広場を出る直前、篤志はもう一度足を止め、顔半分だけ彼女を振り返った。
「篤志……?」
「先輩が夢見る光景と、僕が見たいと願う光景が、実は全く同じモノなんだって言ったら………先輩はそれを、信じてくれますか?」
「え………?」
竜貴の目が、大きく見開かれていく。
「篤志、あんた………あんた、一体………?!」
「今まで、井上先輩を独り占めしてきてすみませんでした。
明日の午後には皆さんに先輩をお返し出来ると思います。多分……ですけど。
でも…それまでは、先輩は僕の…僕だけの『彼女』です。
一切の手出しは、無用に願います」
「あ、篤志っ?! ちょっと、待っ………」
戸惑いつつも駆け寄ろうとする竜貴を制するように、軽く片手をあげて。
「………さようなら、たつき先輩」
二人の上に広がる秋空のように、透き通るような笑顔をひとつ。
そして再び、踵を返して歩き出す。
それきり今度は立ち止まらず、振り返らず……に。
マンションのエントランスの中へと、篤志の姿は消えて行った。