Orion
双子から大分出遅れた緋燕は、その小さな二つの後ろ姿を懸命に追った。
やがて、二人の頭の位置が次第に低くなり、遂には見えなくなってしまった事で、これから向かう先が下り坂である事を知る。
その、坂の始まりの位置まで辿り着いたとき。
彼は思わず足を止め、大きくその目を見張った。
坂の下は広い窪地になっており、その中央には、かなり大がかりな木製遊具が組まれていたのである。
「凄い………!」
呆然と呟いた緋燕の耳に、「ひーにぃ、こっちだよぉ!」と叫ぶ声が届いて。
遊具の足下で、両手を大きく振り回している蒼良と咲良の姿を目にした彼は、慌てて斜面を降り始めた。
それと同時に、咲良は遊具に取り付いてよじ登りはじめ、蒼良は遊具の向こう側へと駆けていく。
緋燕は本来慎重な質だったが、早く二人に追いつきたいという気持ちが焦りを生んだのだろう。
斜面の終わり近くになって足をもつれさせ、バランスを崩して倒れた体は、まるで丸太のように斜面を転げた。
『しまった……!』
地面に打ちつけられる自身の身体の痛みよりも、何よりも。
まず最初に彼の脳裏を占めたものは、常日頃自分の遊び相手を務めてくれている、朽木家の年若い使用人達の顔だった。
自分が怪我でもしようものなら、彼らは監護不行届と言うことで、上役に咎められてしまうからだ。
しかしながら。
いつもなら聞こえてくる筈の、悲鳴混じりの呼び声と。
自分に向かって駆け寄ってくる足音は、無くて。
「あ……そう、か………」
此処は、屋敷の庭では無いのだと。
緋燕は幾分ぼんやりとした頭で思い出す。
いくら待ったところで、自分を抱き起こしてくれる手は無いのだ、と。
その事に心細さを感じたのは、一瞬の事で………。
痛みを堪えつつ、ゆっくりと起きあがる。
その緋燕の口元には笑みが浮かび、瞳には活き活きとした光が踊っていた。
『………今日は、何してもいいんだ!!』
男の子なのだし、多少の怪我は構わない……そう、ルキアと恋次は常々使用人達に伝えては、いた。
それでも彼らにしてみれば「はい、そうですか」とはいかないものなのだろう。
自分の行動如何によっては、周囲の者達が罰せられる事がある。
その事に気づいた時から、幼いながらも緋燕は自制を強く働かせるようになっていた。
木登りだってしてみたい。
池に飛び込んで、魚を追い回してもみたい。
塀をよじ登って、屋敷の外の通りを見てみたい。
あわよくば、そのまま屋敷を抜け出して流魂街にだって行ってみたい。
そんな子供らしい好奇心を、彼はいつだって押さえつけてきたのだ。
「ひーにぃ、だいじょぉぶー?」
降ってきた声に、顔を上げる。
遊具から身を乗り出すようにしてこちらを見ている咲良を見つけ、緋燕は大きく頷いてみせた。
「うん、大丈夫!」
その返答に、にんまりと笑って。
咲良は再び、遊具の上部へと登っていく。
「………よぉし!」
一際強い光を瞳の中に踊らせながら、腕でぐいっと鼻の下を拭って。
遊具に向けて、足を踏み出しかけた……その時。
「緋燕……!」
今度は背後の空から、声が届いた。
慌てて振り返れば、坂の上に父母の姿。
「頑張れ、緋燕!」
「負けんじゃねぇぞ!」
笑顔で手を振る、母と。
不器用に片目を瞑ってみせた、父親に。
大きく大きく、手を振って応えて。
勢い良く踵を返し、緋燕は遊具へと駆け寄った。
先ず、どちらを追いかけようか?
数瞬迷って遊具へと手を伸ばしたのは、咲良の登って行った先に吊り橋があったからだった。
緋燕から逃れる為にはその橋を渡るより他無く、その際には彼女の移動スピードも相当落ちるだろうと予測したのだ。
ところが………。
「嘘っ……?!」
橋へと向かう梯子を上りながら、緋燕は呆然として呟いた。
手すり代わりの鎖に縋るようにして、おっかなびっくり渡っていく……そんな咲良の姿を、彼は予想していた……の、に。
鎖に手を添えてはいるもの、の。
ぐらぐらと揺れ動く不安定な足下など全く意に介さない様子で、咲良はばたばたと音を立てて橋の上を駆けて行くではないか。
加えて。
中程まで渡り終えたところで、急に立ち止まったかと思えば。
彼女は左右の鎖をそれぞれの手で掴み、びょんびょんとその場で数度、両足で高く飛び跳ねたのである。
ぐらんぐらん………と。
大きく激しく、波打つ吊り橋。
目を見張り、口をあんぐりと開けて。
驚きのあまり、緋燕の手足はすっかり動きを止めてしまった。
その彼の鼓膜を突き破るように響いた、甲高い笑い声。
きゃははははっ………と。
のたうつ蛇のような橋の動きを、歓声を上げつつひとしきり堪能して。
未だ揺れの収まりきらないうちに、再び走り出す咲良。
その姿と足音に我に返った緋燕もまた、慌てて梯子登りを再開する。
咲良に続いて、吊り橋を渡って。
網のトンネルを潜り抜け、角度60度ほどの急な板張りの斜面を、所々にある凹凸を頼りに登り切る。
障害物だらけの通路を、這ったり乗り越えたりしながら進んで。
今度は、横向きに丸太を吊るして、それを鎖で繋いだだけの橋へと………。
ここで咲良が、一度片足を踏み外した。
「わっ!」と一声上げただけで、すぐさま体勢を建て直したのは流石だったが、やはりそこからはどうしても足運びが慎重になる。
その間に、一気に距離を縮める緋燕。
そうして辿り着いた先は、彼が登ってきたのとは反対側の遊具の先端で。
三方向に、それぞれ形状や長さの違う滑り台が延びていた。
緋燕の目前には、正面の一番長い滑り台へと駆け寄る咲良の後ろ姿。
その小さな背を追いつつ、思い切り腕を伸ばす。
あと数歩で、指先が届く………そこまで追いつめた時だった。
「うわ、あっ?!」
急に脇から飛び出してきた影に、緋燕はとっさにたたらを踏んで立ち止まった。
その視界を横切って行ったのは、鮮やかな橙色。
緋燕から見て右側の、一番距離の短い滑り台から登ってきた蒼良が、妹を庇うべく絶妙のタイミングで飛び出したのだ。
つい、その姿を目で追ってしまって。
はっ……として正面に視線を戻した時には既に、咲良は滑降を始めてしまっていた。
慌てて蒼良の姿を探せば、彼もまた、左側にある筒状の滑り台へと姿を消した後で………。
「………やられた」
思わず、空を仰ぐ。
視線を戻し、ぶんっ……と強く頭を振って。
どうにか気を取り直すと、今度は蒼良を追うべく、緋燕もまた筒状の滑り台へと飛び込んだ。
それから暫く、二人を追い続けて。
やがて緋燕は、蒼良の動きが行き当たりばったりの出鱈目なものではないことに気がついた。
咲良はそれこそ適当に、自分の興味を引く遊具に挑戦しつつ無茶苦茶に逃げ回っているだけなのだが、蒼空は違う。
位置関係を把握した上で、時には自分が囮になって咲良を逃がし、逆に、緋燕の注意を故意に咲良に向けさせておいて、少し離れた場所から様子を見つつ身体を休めていたりするのだ。
『この子…凄く頭が良いんだ………』
未だ、三つなのに………と。
緋燕は内心で、舌を巻く。
おっとりのんびりな印象を受ける外見にも、すっかり騙された気分だった。
蒼良の身のこなしや敏捷さは、決して咲良に引けをとるものではなかったのだ。
寧ろ、常に全力疾走な咲良と違い、緩急つけた動きで駆け引きを仕掛けてくる分、厄介な相手とも言える。
………このままじゃ、駄目だ。
きゅっ…っと、唇を噛んで。
一度立ち止まり、緋燕は改めて双子の様子を伺った。
やはり動きに無駄が多い分、咲良の方により疲労の色が濃い。
その場で大きく、深呼吸して。
爪先を咲良の居る方へと向けると、強く地を蹴って走り出した。
猛スピードで迫ってくる緋燕の姿に、咲良もまた慌てて踵を返して。
その様子を見た蒼良も脇から飛び出し、なんとか緋燕の気を自分に向けさせようと動く。
しかしながら。
その蒼良の行動に、緋燕はもう惑わされる事は無くて………。
二つに分けて結ばれた胡桃色の髪が、ぴょこぴょこと跳ね躍る……その、小さな後頭部だけを見つめて、ひた走った。
もう少し、だ。
あと…もう少しで、追いつく………!
動け、僕の脚………!!
もっと……もっと、速く………!!!
……不意に、身体が軽くなった。
そして。
キュゥゥウウ…ン………と、耳元で風が鳴り、急速に景色が背後へと流れ出す。
「え……?!」
我に返って立ち止まった時には、緋燕の前には誰も居なかった。
「今の、何………?」
混乱しつつ呟いた直後、背中に強い衝撃。
「ぷぎゃっ!」
「わぁあっ?!」
自分のものと、咲良のものと、二つの悲鳴を聞きながら、地面に崩れ落ちる。
背中が何やら重くて動けないのは、どうやら咲良の身体が上に乗っているからのようだった。
「ひーにぃっ、咲良ちゃんっ?!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる蒼良の足音に、顔だけ動かしてそちらを見る。
「大丈夫っ?!」
「う゛ー……鼻、打ったぁ…。ひーにぃってば、急に前に出てきて止まるんだもんっ」
視界の端に、蒼良の小さな両の掌に包まれた、これまた小さな手が映って。
よっこらしょ……というかけ声とともに、軽くなる背中。
おそらく蒼良が、妹の身体を引っ張り上げたのだろう……そんな事を考えながら、緋燕もまた身体を起こす。
そのまま、尻をついた姿勢で地面に座り込むと、その彼の前に、双子が並んでしゃがみ込んだ。
良く似た薄茶の大きな瞳を心配そうに揺らして、緋燕の顔を見上げてくる。
「ひーにぃ…大丈夫? どっか痛いとこ、ある?」
「ううん、平気。どこも痛くないよ? それよりも……さ」
腕を伸ばし、二人の肩に手を置いて。
にっ……と、口の端をつり上げる。
「………つーかまーえた!」
「ふぇっ?!」
「あっ…!?」
ぱちくりと瞬きを繰り返しながら、顔を見合わせる双子達。
「負けちゃった……」
「負けちゃったねぇ……」
はぁ……とため息を吐いて肩を落とす姿に、緋燕は小さく笑って。
「さぁて…次はどちらが鬼をやってくれるの?」
ちょっと得意気に、緋燕は二人に問いかけた……………の、だが。
きょとんとした顔で振り返った咲良と蒼良の、不思議そうに自分を見つめる表情に、何やら嫌な予感がした。
「………何?」
戸惑いつつ、小首を傾げて問いかければ。
「あれ……ひーにぃってば、知らないの?」
さも意外そうに、応える咲良。
「咲良たちは未だ三歳だから、『お豆さん』なんだよ?」
「……ま……ま、め……?!」
「うん、『豆』!!」
こっくりと、肯いて。
それから、まるで年下の子を相手にしているような口調で、こう続けた。
「だから、ね? 何回捕まっても、咲良達は鬼にならなくていいの」
「…………へ?!」
目を剥いて、唖然とするばかりの緋燕の前で。
ねー?………と。
顔を見合わせつつ、双子が声をハモらせる。
「な……何、それぇっ……?!」
狼狽える緋燕を、一度だけ振り返って。
「じゃあ…ひーにぃ、そういうわけだから……」
「今度もまた、ゆっくり十数えてから来てね!」
にっこりと笑いながら立ち上がった、三つ年下の兄妹は。
身体の向きをくるりと半転させたかと思うと、てってけてーのてーっ……と。
再び彼の元から、走り去ってしまったのだった。
「そんなぁ……」
何とも情けない気持ちで、独り呟きながら。
ねっとりとした泥のような疲労感に襲われつつ、緋燕はその場に突っ伏した…………。