胡蝶の夢

⭐︎第四夜⭐︎

単行本58巻 180p









「……ところで、一護とはどこまで行ったのだ?」

湯上がりの体を、ふかふかのバスタオルに包んで。
鏡前に並んで腰掛け、化粧水を肌に叩き込みつつ問い掛ければ、井上は、何を今更と言わんばかりの表情で、ことり…と首を傾げた。

「どこまで…って、図書館とお薦めされた甘味処だけですよ?」
「そ、そうか」
「そうですよ! 
いやだなぁ、もう!
ここに御招待くださった朽木先生がいらっしゃらない時に、抜け駆けして新規にお店を開拓だなんて不義理、たとえ黒崎先生が提案しても私が許しません!
だから、どうぞ安心してくださいね」

にっこりと笑いながら、ドンと来い的に胸元を拳で叩く姿に、思わず苦笑する。
そんな気遣いは、今後は無用だぞ——そう返しても、井上は頑として首を縦には振らなかった。


『相変わらずヘタレだな、一護』


〝どこまで〟には、二つの意味をかけていた。
ひとつは、井上が答えたように二人が訪れた場所を。
もうひとつは、二人の関係の進展具合について、だ。

井上は天然な面は確かにあるが、決して察しが悪いわけでは無い。
むしろ、頭の回転は早い方だ。
仕事柄、沢山の書物を読んでいるから、比喩表現なども多種多様に脳内の引き出しに溜め込んでいるし、男女間におけるあんな事やらそんな事やらについて、疎いわけでも無い。
加えて、喜怒哀楽が素直に顔に出るし、嘘を吐くことも苦手だ。
故に、一護が告白するなり何なり行動を起こしていたなら、私の問いかけに対して、多少なりとも挙動がおかしくなるに違いないのだ。


『まぁ…一護も大概だが、井上の頑なさも、正直ここまでとは思わなんだ……』


井上の使うドライヤーの音に隠れて、ひそり…とため息を吐く。
一護の想い人が、私だ…などと。
古くから付き合いのある道場仲間や、朽木の屋敷の者たち、兄様や姉様が聞き及んだら笑い死にしそうな誤解は、とうに解けた筈なのだが……。
相も変わらず、井上の一護に対するガードは固い。
日頃の様子から、井上もまた、一護に想いを寄せているのは間違いないのに、だ。


「うまくいかないものだな」
「え? 何か言いました?」

無意識に声に出してしまった胸の内、それに井上がわざわざドライヤーを止めて反応する。
私は慌てて首を横に振ると、右手を差し出した。

「手伝おう。それだけの長さがあると、大変だろう」
「え?! だだだ大丈夫ですよ?! あの、なんなら先にお部屋に戻られてもかまいませんし」
「別に、待つのが嫌なわけじゃない」
「で、でも」
「いいから、貸してみろ」

半ば強引に井上からドライヤーを取り上げると、背後に移動して、手櫛で美しい栗色の髪を梳きながら、風を当てる。
何やら恐縮した様子で肩を丸める井上の耳元で、私は少し大きめの声で、昔を思い出したのだと告げた。

「子供の頃、よく姉様と交代で、髪を乾かしあったものでな」
「そうなんですか…」

それきり口をつぐみ、大人しくされるがままになっていた井上は、私がドライヤーを洗面台に置くと同時に、ぽつりと小さくつぶやいた。

「私も小さい頃は、よく兄に髪を乾かしてもらったんです」
「……そうか」
「兄は15歳も年上だったし、私が兄の髪を乾かすことはありませんでした。
でもその分、もし兄が結婚して、姪や甥が出来たりしたら、その時には……なんて」
「うん……」
「——朽木先生、私…」

何かを言いかけて、口篭って。
大きく息を吐き出した後、井上は「なんでもあリません」とゆるりと首をひと振りした。
淡い苦笑を、口元に閃かせながら——。








「自分には、幸せを求める資格はない——そう、言いたかったのではないかな」

恋次の部屋でレポートの推敲を手伝いながら、数時間前の記憶を反芻する。
私の指摘した誤字を修正入力しながら、赤毛の婚約者殿は盛大なため息を吐いた。

「以前、一護が言ってたアレか」
「うむ」
「どうしたもんかねぇ…」

ガシガシと赤毛を掻きむしりながら、複雑な表情で恋次がぼやく。
こればっかりは、他人にはどうにもできねぇからなぁ——と。

「確かに、井上の気持ちをどうこうすることは出来ぬ。
ただ——ちょっと、やってみたいことがあるのだ。
実行に移すには、兄様やお祖父様のお力を、少しお借りすることになると思うが」
「へぇ…? 何をやらかす気だ?」
「兄君の葬式に現れたと言う、恋人と名乗った女性のその後を、調べてみようと思うのだ。
兄君が亡くなられてから10年以上経っておることだし、もしも新たな御縁を得て、今は幸せに暮らしているというなら、井上の気持ちも幾分和ぐのでは…と思ってな」
「なるほどねぇ…」

ふむ、と思案顔で顎をひと撫でして。
次ににやり…と口の端を吊り上げると、うまくいくといいな——と言いながら、恋次が大きな手で私の背を軽く叩く。
その優しさと励ましを嬉しく思いつつ、私はくしゃりと鼻の頭に皺を寄せた。

「それにしても、半日以上も二人きりで過ごす時間をくれてやったというのに、本当に図書館と甘味処に寄るだけで帰ってくるとは——。
いくら井上がああだからといって、一護は一護でヘタレが過ぎるだろう!」
「まぁ…そこは俺も同意見だ。でもよぉ、ルキア」
「なんだ?」
「一護が強引に井上に何かしたなら、それはそれでお前、絶対に一護を許さないんだろう?」
「当たり前だ! 万が一にもそのようなことがあったら、八つ裂きにしてくれる!!!」


思わず、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって怒鳴ってしまった——が。
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた恋次の顔を見て、ハッと息を呑む。

「我ながら、矛盾が過ぎる——だろうか?」
「そんなことは無ぇと思うぜ。
お前さんの場合は二人のどちらとも親友と言える間柄なんだし、こと井上に関しては、同い年とは言え妹みたいに思ってるんだろう?」
「——うむ」

まぁ、複雑だよな——と、苦笑する恋次の言葉に頷きつつ。
そう言えば、婚約したばかりの頃、兄様の恋次に対する態度は、いつもどことなく不機嫌で微妙に当たりも強くて。
それこそ鍛錬にかこつけて、道場で扱き倒していたなぁ…なんてことを、ふと、思い出したのだった。








終
5/5ページ
スキ