胡蝶の夢

⭐︎第三夜⭐︎

2006年週刊ジャンプ30号
巻頭カラー
JET 108〜109p








「朽木先生、黒崎先生、こちらに積んである本はもうお下げしても?」
「ああ、よろしく頼む」
「助かります、井上さん」

俺とルキアが頷くと、井上さんは笑顔で本の束を抱え上げた。
手伝おうかと声をかけたくなるの堪えて、書庫へと向かう後ろ姿を見送る。
先生方は、レポートに集中なさってください——と。
これまで何度も断られてきたのだから、いい加減こちらも学習すべきである。

「しかし、井上に同行してもらったのは正解だったな。
こちらの要求通りの資料を、こうも的確に選んでくれるとは。
おかげで、最後の日くらいは観光に出かけられそうだ」

新たな参考図書に手を伸ばしながら、どこか浮き浮きとした口調で呟くルキア。
往路の車中で、お勧めの喫茶店や雑貨屋があるとか何とか話していたから、レポートが予定より早く完成したら、残りの日程は2人で街歩きをして過ごそうとでも画策しているのだろう。

「……いいな、お前らは。元々、文章書くのは得意だもんな、国語教師だけあって。
俺は最悪、持ち帰りだ」

呻くような恋次の呟きに、ルキアが苦笑をこぼす。

「最初から整った文を書こうとするな。
下書きさえあがれば、校正やら清書やらは手伝ってやる。
なんなら、この機会に一護にAIの使い方でも教わったらいい」
「そうだな、そうするか。頼むぜ、一護!」
「……別に構わねぇけどよ」

ため息混じりに頷けば、ルキアと恋次2人同時に、ニタリ…と人の悪い笑みを浮かべやがった。
反射的に、身構える俺。

「安心しろ、一護。貴様が井上と2人きりになれる時間も、ちゃんと確保してやるから」
「そうそう! ちょうど今日あたりじゃねえか? 俺とルキアでやっといた事前の仕込みが功を奏するのは」
「仕込み——?」

俺が眉間の皺を深めるとほぼ同時に、恋次のパソコンからメール到着を知らせる音が響いた。
お?——と呟いてキーボードを操作していた恋次の口元に、悪巧みを成功させた悪人のような笑みが浮かぶ。

「噂をすれば、何とやら——ってな」

その呟きに首を傾げたところで、丁度井上さんが室内に戻ってきた。
手にしていた携帯に向けていた視線を恋次に向け、明日には受け取れそうですね——と声をかける。

「みてぇだな。俺も今、メールを確認したところだ」
「良かったな、恋次!」
「……何の話だ?」

一人だけ蚊帳の外に置かれていることに、若干ムッとしながら恋次に問うと、市内の公立図書館に転送依頼をかけていた本が届いたのだという。

「俺らの地元にも、ここの書庫にも置いてない資料があってな。
井上が、所持している図書館を見つけて、こっちの図書館経由で借りられるよう手配してくれたんだ」
「へぇ……」

いつの間に、二人でそんなやり取りを——と。
嫉妬という感情が頭をもたげるのを押さえつけながら、感嘆の声を漏らす。
そんな俺の心のうちを見透かした様に、ルキアが生温く微笑んだ。

「一護、明日は貴様が井上に付き添ってやれ。我らの中で、最も進みが良いのだし」
「そ、そんな……! 私一人で大丈夫ですよ、車の運転も頼めるのですし」

ここに来るまでは恋次のワゴンで来たが、市中へのちょっとした外出には、別荘備え付けの乗用車を使用、運転も管理人さんが引き受けてくれている。
だから井上は一人で大丈夫だと言い張ったが、折角のルキアたちが作ってくれた機会だ、無駄にしたくはない。

「俺も、気分転換に少し街歩きでもと思っていたので……付き合わせてもらえるなら、むしろ有難いです」
「黒崎先生……でも…」
「それに、今ちょっと検索してみたのですけど…ここ、俺の好きな作家に所縁のある土地なんで、図書館内に特設コーナーあるようなんです。
折角だから、見学してみたいかな——って」
「なるほど…そういうこと、でしたら……」

井上さんはその表情と声に困惑を残しながらも、なんとか俺が同行することを了承してくれた。
ほっ…と息を吐き出した、俺の視線の先。
井上さんからは見えない位置にいるのを良いことに、ルキアと恋次がチェシャ猫のような笑顔を浮かべながら、サムズアップして寄越す。
やがて井上さんが庫内の整理にもどってしまうと、「そう言えば!」と言いながら、ルキアが実にわざとらしく掌をパンッと打ち合わせた。

「図書館の近くには、ガイドブックにも載るような有名な甘味処があるぞ。
是非、寄ってくるといい。
確か、テイクアウトも出来た筈だが…」
「……お前ら二人と、管理人さん達の分があればいいのか?」
「おお、土産に買ってきてくれるのか?!
いやぁ、悪いな一護! 催促したつもりは針先ほども無いのだが」
「嘘吐け!!」

ぶはっ!…と。
盛大に吹き出した恋次が、腹を抱えて笑い出した。







「……それにしても、我ながらなんつータイミングで思いつくかな」

図書室の隅でパソコンの電源を入れながら、独りため息をつく。
壁の時計は、日を跨ぐ少し前を指していた。

文章の前後が、うまく繋がらない箇所があって。
食事中も入浴中もずっと脳の片隅に引っかかっていたのだが、諦めて寝ようと片足をベッドに突っ込んだまさにその瞬間、これなら…と言う一文節が閃いてしまったのだ。
しかも、そこをクリアできれば下書きはほぼ完成、あとは仕上げるだけになるから、今頑張っておけば、明日の井上さんとの外出を心置きなく楽しめる筈だ。

「さて、やるか!」

軽く気合いを入れ、キーボードを叩き始めて。
百字ほど打ったところで、躊躇いがちにドアをノックする音が部屋に響いた。

「……はい?」

こんな夜更けに、いったい誰が何用で——と。自分のことは棚の上に放り投げ、眉間に皺を寄せつつ部屋の入り口の扉へと視線を向ける。
果たして、そっと押し開かれたドアの隙間から顔を覗かせたのは、井上さんだった。

「ど、どうしたんです、こんな時間に?!」
「……黒崎先生こそ、何してらっしゃるんです」

慌てて席を立って駆け寄る俺に対して、彼女は至極冷静な口調で問いかけてくる。
いや——冷静というより、怒ってる?
いつもの陽だまりのような雰囲気とは真逆のオーラに気圧されながら、しどろもどろに事情を話せば、案の定、明日はひとりで図書館に行くと言い出した。

「運転は、管理人さんにお願いします。
ですから先生、明日はゆっくり起きて、その後またレポートに専念なさってください」
「嫌です」

きっぱりと首を横にすれば、薄茶の瞳が大きく見開かれた。
そこに映る俺の顔、その口の端が自嘲気味に吊り上がる。

「俺と二人で出かけるのは、そんなに嫌ですか?」
「そんなこと、言ってません! 私はただ、先生のお身体が心配なだけで……」
「早ければ30分、かかっても1時間あれば終わる見込みですから、明日の体調に問題が出るようなことはないと思いますよ」
「——それなら、良いのですけど」
「加えて言うなら、息抜きに外出したいのも本当です。
俺の楽しみ、奪わないでください」
「先生……」

本当に、嘘じゃないのですね?——と上目遣いに尋ねられ、今度は深く縦に首を振る。
すると井上さんは至極小さなため息を吐いたあと、唐突に話題を変えた。

「牛乳アレルギー、無かったですよね」
「……は?」

戸惑いを隠しきれず、目を瞬かせながら頷くと、実は台所にホットミルクを作りに行くところなのだと言う。

「夕方にコーヒーを飲んだのがまずかったのか、全然眠くならずに困ってしまって。
蜂蜜を入れてミルクを飲むと、入眠効果があるそうなので」
「あ…なんか聞いたことあるかも」
「もし良かったら、先生の分もお作りしてきますよ?
就寝前にディスプレイなどを見ると、寝つきが悪くなったり、睡眠の質が悪くなると言いますし」
「確かに——では、お言葉に甘えても?」

ここで漸くいつも通りの柔らかな微笑みを浮かべると、井上さんは踵を返して台所へと廊下を進んで行った。
角を曲がるところまで後ろ姿を見送り、ドアを開けたままでデスクへと戻る。
カップを二人分持ってくるなら、手で直接持つにせよ、お盆に乗せてくるにせよ、ドアを開ける
のは難儀だろうと思ったからだ。

「夜中に男女が室内に二人きり…という状況も、あまり宜しくはなかろうしな」

頭をひと振りして気持ちと意識を切り替え、レポートの作成に戻る。
筆が乗っている状況を妨げられたにも関わらず、井上さんの笑顔を思い起こせば俄然やる気と集中力が増すあたり、我ながら現金なものだ——と苦笑を漏らした。

「お待たせしました」

井上さんが戻ってきたのは、20分ほど経った頃。
ちょうど良いサイズの鍋を探していて、思ったよりも時間がかかってしまったと、軽く肩を竦める。
礼を言ってカップを受け取り、口元に近づけると、ふわり…と立ち上った芳香が鼻腔をくすぐった。

「……ブランデー、ですか?」
「はい、香り付けに数滴ほど」
「いいですね。
なんかこう、ふっと肩の力が抜ける感じがします」
「それはよかったです!
もっとたっぷり入れるレシピもあるのですけど、今回はお仕事に差し障らない程度に」
「ありがとうございます。
井上さんのにも、入っているんですか?」
「いえ」
「ですよね」

井上さんは、お酒に弱い。
かつて、俺とルキアが差し入れたサバランを食べて酔ってしまったことがあり、それ以来、俺もルキアも、材料に酒が入ったものは極力選ばないよう気をつけていた。

「……で、一体何してるんですか」

てっきりすぐに自室に戻ると思っていた井上さんが、ドア近くに椅子を移動させている。
俺の問いかけに振り返った井上さんは、にっこりと微笑みながら、俺を見張るのだと言った。

「さきほど、かかってもあと1時間もあればと仰いましたよね?
私が戻るまで20分ほどかかりましたから、片付けの時間など含めても、残り40分程度で終わるはずですよね?
そのくらいでしたら、ミルク飲みながら本でも読んで、お付き合いできますので」
「——信用されてないんですね、俺」
「先ほども言いましたけど、お身体が心配なだけです。
良くも悪くも、先生は集中なさると寝食を忘れてしまうんですもの」

多少の自覚はあるので、反論出来ない。
椅子に腰掛け、すまし顔でミルクを飲み始めた井上さんに心の中で白旗を上げつつ、パソコンの画面に向き直る。
甘い雰囲気には程遠いが、2人で居られることは単純に嬉しかったし、明日へ向けて気持ちは更に前向きになっていた。

『——絶対に、あと40分で終わらせてやる!』

軽く目を閉じ、ふう…と一つ息を吐き出して。
意気込み新たに、俺は再びキーボードを叩き始めた。







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