胡蝶の夢
⭐︎第二夜⭐︎
2008年週刊ジャンプ28号
巻頭カラー
JET 170〜171p
ちょっとやそっとのことでは、動じない——それが、周囲の茶渡泰虎に対する評だ。
それに違うことなく、この時の彼は、彼の友人たちの繰り広げるしょーもなーな軽口の応酬…から発展してのガチ議論などお構いなしに、黙々と自分の食事を進めていた。
だが、しかし。
実のところは心中ひっそりと、顎が地につくほど驚愕し、動揺していた。
彼の斜向かいに、胡桃色の髪を結い上げた女性が、食事をしている。
ぱくぱく、もぐもぐ、ごっくん。
ごくごくごくごく。
ぱくぱく、もぐもぐ、ごっくん。
ごくごくごくごく。
それは、所謂給食などで指導される、三角食べのお手本のようで。
食べ物、飲み物を口に含むたび、至福の表情を浮かべる姿は、見ている側もつられて口の端を知らず持ち上げてしまうほど愛らしい——の、だが。
『あの身体のどこに、あの量が入るんだ…?』
おそらく現時点で、彼女の食事量は、茶渡を含めた他の全員の総量を超えている。
にも関わらず、新たに持ち込まれた料理の皿に目を輝かせ、率先してテーブルの上の空き皿などを整理しながら「腹八分目でやめた方がいいのはわかってるんだけど…でも、やっぱり食べちゃお!」などと呟くものだから茶渡は軽く目眩がした。
ガチャッ…と。
自らが立ててしまった食器具のぶつかる音で、我に帰る。
慌てて目の前の皿の上に視線を落とせば、まだあると思っていた料理が無くなっていた。
『——いつの間に、食べ尽くしていたのだろう』
呆然とする彼の背後から給仕の腕が伸び、静かに皿を下げていく。
とりあえず、水でも飲んで気を取り直そうとグラスに手を伸ばしたところで、隣の席から小さく忍び笑う気配がした。
「流石の茶渡でも、つられるか」
「お嬢…」
「やはりこれまで、茶渡を井上とのこういった場に同席させなかったのは、正解だったな。
減量中にあの食べっぷりは、目の毒どころではないだろう」
「………」
確かに——と。
茶渡は無言で顎を引き、ルキアの言葉を肯定した。
井上織姫——その一風変わった名は、彼の親友である一護や、雇用先の令嬢であるルキアの口からよく聞かされていた。
実際に、幾度か短時間ではあるが顔を合わせたこともあるし、その際に挨拶程度の言葉を交わしたこともある。
しかし、半日以上という長い時間一緒に行動し、食卓まで共に囲んだのは、今日が初めてだった。
なるほど、皆が口々に言っていたように、感情豊かにくるくると変わる表情、特に笑顔が魅力的な娘である。
モリモリと至福の表情で料理を平らげていく様も、まるで成長著しい鳥の雛のよう…とでも言うか。
とにかく微笑ましくて、心が和む。
給仕が皿を上げ下げするたびに、感嘆の声をあげて目を輝かせ、料理の感想やお礼の言葉を口にする姿にも、大変に好感が持てた。
何よりも。
出過ぎず、臆し過ぎない会話への参加の仕方や、行き過ぎた発言へのやんわりとした嗜め、悪い方に行きかけた流れを、さりげなく修正してしまう——そんなコミュニケーション能力の高さに、茶渡は舌を巻いてしまった。
仲は決して悪くないのだが、それぞれ個性も主張も強くて、日頃から衝突することの多い一護達が、織姫に同じ空間に居てほしいと望むのも、道理と思える。
『一護のお袋さんに、似てる…か?』
顔立ち云々ではなく、全体的な雰囲気が——と。
茶渡は脳裏に、黒崎家のリビングに飾られている、ポスター大の写真を思い浮かべた。
彼が一護と知り合った時には既に故人となっていたから、直接その為人を知っているわけではないが、一護やその家族から、笑顔を絶やしたことがなかったと伝え聞いている。
ただ——。
それは単に、陽気な性格だったということだけでは、なく。
人生、ままならないことも多々あるものだと、身をもって知っていたからこそのものだろうと、茶渡はなんとなく気付いていた。
彼自身が、肉親との縁薄く、さまざまな偏見やしがらみの中で、幼少期を過ごしたゆえに。
そして。
目の前の娘からも、茶渡は同様のものを感じていた。
その笑顔の明るさも、穏やかさも、暖かさも、絶望を知るが故に浮かべることのできるものだ——と。
『佳いひとに出逢えたのだな、一護』
相変わらず、ぎゃあぎゃあと口論を続けている一護と雨竜、恋次へと目線だけを動かし、茶渡は口元に微かな笑みを浮かべた。
このところ、親友の顔からトレードマークとも言える眉間の皺が少し減ったように感じていたが、おそらく気のせいではないだろう。
『それは、ともかくとして…』
テーブルの中央に置かれた料理に手を伸ばすべく、織姫が腰を浮かせて。
その際に、否が応でも目に入ってしまった織姫の腰回りの様子に、茶渡は再び困惑を深めていた。
『意外と大胆な服を着るのだな…』
所謂、ヘソ出しというやつである。
加えて、パンツの丈もかなり短く、伸縮性の良い生地故か、形の良いヒップラインをくっきりと描き出してしまっていた。
他人の服の趣味や着こなしに口を出す気は毛頭無い茶渡であった、が。
一護達から聞かされていた織姫の人物像と、今の織姫の姿とが、どうにも脳内で結びつかないことに加え、今現在の室温とが気になって仕方がなかった。
食事を始めた頃はエアコンからの冷気を丁度良く感じていたのだが、濛々と湯気を立てていた料理がほぼ彼らの腹の中に収まったせいだろうか、うっすらと肌寒さを感じるのだ。
『女性が足腰を冷やすのは、健康上問題が多かったと記憶しているが…』
今日の集まりは、数日後に迫った一護たちのレポート作成缶詰旅行と、その帰路に茶渡と雨竜も合流して行う 、浜辺でのバーベキューの打ち合わせを兼ねている。
ここで身体を冷やして風邪でも引いて、織姫が不参加…などという事態にでもなったら、一護だけでなく、ルキア筆頭にメンバー全員が酷く落胆するだろう。
今一度、テーブルに着く面々に視線を巡らせて。
議論に夢中になりすぎて、誰も室温に気が回っていなさそうなこと、しかも織姫が、おそらく無意識に腕を摩ったのを目にし、茶渡は意を決してルキアに声をかけた。
「…少しだけ、エアコンの温度を上げてはどうだろうか。
お嬢の御友人、大分薄着のようだし」
一護の手にした肉塊をこっそり齧りとり、満足気に咀嚼していたルキアが、慌ててメイドに室温の調整を指示する。
「茶渡は本当に、気が利くな。
反して、我らの気配りの足りなさよ…よくよく、反省せねば」
ルキアが感嘆のため息混じりに茶渡を褒め、反省の弁を述べると、恋次と雨竜もまた深く頷くことで、同意であることを示した。
そして織姫も、感謝の言葉を口にしながら、茶渡に花のような笑顔を向ける。
「別に、そんなに大したことでは…」
恐縮しながら、茶渡は首を横にふった。
その際、ひどく焦った様子の親友の横顔を視線の先に捉えてしまい、内心で頭を抱えた。
『上手いこと立ち回って、一護の口から言わせるべきだったのかも——』
とは、言っても。
何をどうすればそれができたのか、事後となった今現在でも、茶渡には容易に思いつかない。
さて、どうしたものか——と。
茶渡がひっそりとため息を吐いた時だった。
「お、俺だって、気にはなってたんだ…!」
咳き込むような勢いで、一護が口を開いて。
茶渡は勿論、その場にいた全員が、ギョッとして一護へと視線を向けた。
「その……ちょっと、出し過ぎかな……って」
「出し、過…ぎ……」
織姫の顔色が、みるみる青褪めていく。
呆気に取られて身動きすくら取れない茶渡の視界の隅で、雨竜が軽く眉間を摘みながら、「馬鹿が」と言う形に口を動かした。
一護自身も、失言と気づいたのだろう。
今度は彼の顔から血の気が引いていき、入れ替わるように、織姫は顔と言わず露出している肌の全てを、じわじわと朱に染めていく。
「あ、あの……この格好は、その………仕方なく…の、もの……で………」
今にも泣き出しそうな表情でそこまで言うと、織姫はちょっと手洗いに行ってくると早口に言い残して、部屋を駆け出て行ってしまった。
「い、井上さ…」
「待て、井上!」
狼狽も顕にギクシャクと腰を浮かせた一護に対し、何の迷いもなく勢いよく席を立ったルキアが、織姫の後を追って走り出す。
一護の側を通り抜けざま、脳天に拳骨を振り下ろしつつ、「この、たわけ者めがっ!」と吐き捨てて。
「何するんだ、ル——痛ってぇ! れ、恋次!! お前まで——ぶふっ!!」
ルキアを咎めようとした一護の後頭部を、今度は恋次が平手で力一杯ぶっ叩き、抗議しつつ顔を上げかけたところに、雨竜の投げつけた手拭いが直撃する。
若干、やり過ぎでは……とチャドは内心思ったが、縋るような視線を向けてきた一護に対しては、無言で首を横に振った。
「……お前は、国語の教師だろう」
その茶渡の言葉に、グッと喉を詰まらせ、大きく頭と肩とを落とす一護。
意外と手厳しいことを言うんだな——と、恋次が茶度に苦笑を向けた。
「皮肉や嫌味を言ったつもりはない。
せっか努力して培った知識や能力を、こんな時に活かせないのは、損だと思っただけだ」
それは茶渡にとって、本心からの真摯な言葉だった。
実際一護と話していると、その語彙力や、咄嗟に引用してくる四字熟語やら諺やらの多さに感心させられることは多い。
だからこそ、「出し過ぎ」は無いだろうと思ってしまう。
たとえ片恋中の相手ゆえに、実力を発揮しにくいのだとしても。
「まぁ、しかし…なんであの服装なのかってのは、俺も気になってはいたんだよな。
いつもの井上の格好とは、だいぶ違うから」
ほいっと、ミニトマトを口の中に放り込みながら恋次が言うと、「……実は、僕も」と雨竜も頷く。
「それと、仕方なく——って。一体、どう言うことだろう?」
すると、ルキアと入れ代わるように室内に入り、他の給仕の者たちと空いた皿を下げていたメイドの1人が、「あの…」と躊躇いがちに口を開いた。
「ん? 何か知ってるのか、ちよ」
「はい……その、井上様がこちらに到着された時、ほぼ全身、ずぶ濡れの状態だったんです。
なんでも、近道にとすぐそこの公園の中を通ったら、目の前で小さな子が噴水に落ちたとかで——」
「あー…なるほど。自分の服が濡れるのも構わず、助け上げたってわけか」
「そのようです。
汚れたお召し物は急ぎ洗濯に回したのですが、代わりに御着用いただく服をお選びするのに、少々手間取りまして。
ルキア様も若奥様も、井上様よりも小柄で細身でいらっしゃる上に、Aラインのワンピースを多くお持ちなものですから……」
「それであの、融通の効くシャーリングのブラウスと、伸縮性の高い生地のパンツに落ち着いた——と言うわけですね?」
「はい」
それなら、得心がいく——と。
茶渡は無意識に顎に手をやりつつ、頷いた。
きっとルキアが着用するときには、ブラウスの裾がパンツやスカートのウエスト位置に丁度よく被るのだろう。
「井上様も、最初はあのお姿で皆様の前に出ることを躊躇っておいででしたが、タイミングが良いのか悪いのか、喜助様が通りかかりまして」
「げっ……また来てんのか?! あの、マッドサイエンティストの、遠縁の叔父貴殿!!」
「昨日から、夜一様と御一緒に滞在中でございます」
「うわ……このあとはできるだけ、西の離れには近づかないようにしよう———んで?」
「よくお似合いだと褒めちぎられたあと、その……黒崎様もお喜びになるのでは、と仰られまして」
「へ……?」
間抜けな声を漏らしながら、一護がポカンと口を開けて固まった。
その後頭部を、恋次が再度平手でぶっ叩く。
「後でちゃんと、フォローしておけよな」
「…………」
「それにしても、二人ともなかなか戻りませんね。
お手洗いは口実だろうけど……井上さん、そんなにショックが大きかったのかな」
壁掛け時計を見上げながら、雨竜が呟くと。
茶渡の視線の先、恋次の言動に特に反発もせず、ただ黙って後頭部をさすっていた一護が、びくり…と身体を強張らせた。
「そ、それは違うと思います!」
ちよが慌てて首を横に振りながら、織姫が部屋を出て行く直前に、たまたまクリーニング部門から服が届けられたところだったのだと説明する。
「井上様は今、ルキア様のお部屋で着替えをなさっておいでです。
お二人とも食事はもう充分とのことで、このあと、デザートのタイミングに合わせてお戻りになられますよ!」
ちよの言葉、に。
静かに目を伏せた一護が、ゆっくりと息を吐き出しつつ肩の力を抜いていくのを、茶渡は黙って見守っていた。
その後。
戻ってきた織姫とルキアを交えて、多少のぎこちなさを残しつつ再開された打ち合わせ、は。
次第に元の空気に戻っ——たら戻ったで、再びしょーもない脱線を繰り返し続けたため、かなり遅い時間帯にまで及んでしまった。
終電までは少し猶予があったが、白哉と緋真の計らいもあって、茶渡、一護、雨竜、織姫の4人は、朽木家の車で自宅へと送ってもらうことになり、今しがた雨竜が降車したところである。
再び夜道を走り出した車の次なる目的地は、織姫のマンションだ。
所要時間は、15分といったところか。
助手席に座る茶渡がミラー越しに後部座席の様子を伺うと、織姫も一護もそれぞれ無言で窓の外の景色を眺めていた。
ただ、微動だにしない織姫に対し、一護の方は時折視線を織姫の方に向け、物言いたげに口を開いては閉じ、結局また窓の外へと視線を戻す——ということを繰り返している。
結局のところ。
今ここに至るまで、一護は織姫に対するフォローのタイミングを失ったままだった。
『このまま有耶無耶にしてしまうのも一つの手かもしれないが、一護の性格上、それは悪手だろう……』
そんな茶渡の心中の声が聞こえたわけではないだろうが、ふ——と一護がバックミラーに目をやり、がちっと二人の視線が重なった。
軽く目を見開いた一護に対し、茶渡は視線の動きで『今のうちにどうにかした方がいいのでは?』と促してみる。
10年来の親友からの無言のアドバイスを正しく汲み取ったらしい一護は、一度目を閉じてゆっくりと息を吐き出すと、静かに織姫に声をかけた。
同時に、茶渡はミラーから窓の外へと視線を転じる。
二人の様子を、覗き見るようなことはしたくなかった。
かと言って。
一護に対する心配故に、耳ダンボになってしまうのは許して欲しいところである。
「その……昼間は、すみませんでした」
「いえ、私こそ——急に部屋から出てしまって…。
黒崎先生も、茶渡さんと同じように、心配…してくださっていたのですよね……?」
優しく響いた織姫の声に、茶渡の口元が微かに緩んだ。
やはり織姫は、一護のことをちゃんとわかってくれているのだと思うと、安堵と嬉しさとが込みあげてくる。
「だとしても、もっと別の言い方があったのは確かだと思います。
不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳なかったです」
「そんな……もう、気にしてませんから」
「なら、良いのですけど——それと、ですね」
「はい?」
「似合わないとは、思いませんでした」
「へ?! あ、あの…………えぇ?!」
「ででででで、でもっ……!」
「は、はいっ!」
「お、俺は、いつもの……今着ている服の組み合わせなんかの方が、その…………もっとずっと、似合っていると思います……よ?」
「あ、ありがとうございます……!」
それきり会話が途絶えてしまったので、茶渡は罪悪感を抱きつつも、再びミラーへと視線を向けてみた。
そこに写っていたの、は。
互いに真っ赤になって照れながらも、慈しむような笑みを向け合う、一護と織姫の姿で……。
『良かったな、一護……!』
茶渡は再び仄かに口元を綻ばせると、目を閉じて、シートの背にゆったりと身体を沈め直した。
終