little rest
勝手知ったる、井上ン家の台所。
コンロの前に立って、小さな鍋を見守る。
温めているのは、甘酒。
酒粕のじゃなくて、ちゃんとした麹仕立ての奴。
これにホンの少し生姜の擦り下ろしを入れて飲むのが、ここ最近の彼女のお気に入り。
沸騰直前で火から下ろし、大きめのマグカップ二つに注ぎ分ける。
用意しておいた生姜をひとつまみずつ落としながら、脳裏に蘇るのは昨夕の電話での会話……。
「……ごめんなさい。この週末…そっちに行けなくなっちゃった」
受話器の向こう側から聞こえた、消え入りそうな彼女の声。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
あんまり弱々しい声から病気を疑った俺に、そうではないと返事して。
「仕事が……どうしても終わらなくて………」
「へぇ…珍しいな……」
俺は軽く、目を見開いた。
仕事を理由に彼女がデートのキャンセルを申し出るのは、多分…彼女が幼稚園教諭として働き始めてから、初のことだ。
「今月はもともと行事が多くて…ちょっと押せ押せになってはいたんだけど……」
ぽつりぽつりと彼女が語るには、昨日の午後、降園した担当園児の親から、目を離した隙に子供が居なくなってしまった……と、電話があったらしい。
半狂乱の母親をなだめ、一緒に近所を探し回って……それで、午後済ます予定だった作業がまるまる残ってしまったのだという。
……ちなみに。
居なくなったと思っていた子供は、自宅の押入から見つかったそうだ。
こっそり入り込んで遊んでいるうちに、眠ってしまった……というオチだったそうで。
「週明けの月曜日に、間に合わせなきゃならないの。
だから……本当に本当に申し訳ないんだけど、今回は………」
「じゃあ、俺がそっちに行くよ」
「……え?」
「今月は金銭的にも時間的にも余裕有るし……さ。
勿論、俺が傍に居ちゃあ、お前の仕事の邪魔になるってんなら止めるけど」
「邪魔なんて事はないけど……でも、きっと何も構ってあげられないよ……?」
「いいよ。その代わり俺が構ってやるから」
「へっ?!」
「食事とか、作ってやるよ……と言っても、たいしたモンは作れねぇから、あんまり期待されても困るけどな」
「そんな…悪いよ………」
「何で? 何時だったか…俺がレポート終わんなくてデートおじゃんにしたときには、お前がそうしてくれたじゃねぇかよ?
良い機会だから、お返しさせろって」
「でも………」
「出かけたりできなくてもさ…傍に居られりゃ、それでいいんだ。俺は……」
「黒崎君………」
ゆっくり、二呼吸ほどの間を空けて。
「………じゃあ…来てもらっても、いい?」
躊躇いがちに届いた、声。
「ああ、喜んで」
俺がそう返事をすると、ふっと彼女が笑う気配がして。
……ありがとう。
いつもの穏やかさを取り戻したソプラノが聞こえた瞬間、思わず俺の顔も綻んだのだった……。
マグカップを手に、部屋に戻る。
そっと部屋の入り口を開けて中を覗き込めば、真剣な表情で作業を続ける彼女の姿。
井上の集中力が人並み外れている事を知ったのは、つき合い始めてからのこと。
今も、俺が部屋を空けていた事にすら、多分気づいていないんだろうな……と思う。
実際、俺が今日ここに来たときも、呼び鈴鳴らしても応答がなくて…それは予想済みだったんで…合鍵使って勝手に入らせてもらったくらいだ。
まぁそのくらいだからこそ、俺たちと行動を共にしながらもあの成績をキープ出来ていたんだろうし。
反面……一度『あっちの世界』に旅立ってしまうと、なかなか戻って来られない所以でもあるのだろう。
ただ……よく「寝食を忘れて」なんて言うけれど。
彼女の場合は「寝」はともかく「食」を忘れる事はまずないから、まだしも安心だったりするのだ。
……いやはやホント、集中力にもホトホト感心するけど……さ。
時計を見上げる。
夕食をとってから、約四時間経過。
『そろそろ、だな』
内心で俺が呟いた直後。
ふっ……と、彼女の手が止まる。
顔を上げ、どこか虚ろな瞳をして。
そして、呟く。
「お腹、空いた……」
『………ほら、な?』
たまらず、吹き出す。
彼女の腹時計の恐ろしいまでの正確さにも、心底舌を巻く俺だった。
「……何、笑ってるの?」
僅かに頬をふくらませて、彼女が俺を見上げる。
「別に?」
「……嘘。どーせ、食いしん坊とか思ってたんでしょ」
「ああ、一応自覚はあるんだ?」
「………う」
口を尖らせ気味に俯いた彼女の横顔に、ぷっと軽く吹き出して。
「ほら…少し、休めよ」
彼女の前に、静かにマグカップを置く。
「ありがとう……」
俺を見上げて、ふわっと微笑んで。
それから、両手で包み込むようにカップを取り上げると
「わーい、甘酒だぁ!」
まるで幼い子供のように、それはそれは無邪気に嬉しそうな声を上げる。
こくん…と、一口飲んで。
美味しい……と呟きながら、幸せそうな笑顔でほぅっとため息を吐く。
そんな一連の仕草に、俺は小さく笑いながら。
「……い…しょっと」
彼女のすぐ隣に、腰を降ろした。
俺もまた、一口カップの中身を含んで。
そして軽く、眉根を寄せる。
「………ちっと、甘すぎたか?」
「黒崎君には、そうかもね。私はこのくらい濃い方が好きだけど……」
ふふっ……と小さく笑う彼女を横目で見つつ、もう一口飲む。
ーー直後。
とすっ……と、肩に軽い衝撃。
彼女がその頭を、俺の肩口に凭れかけてきたのだった。
「えへへ、充ー電!」
少し照れたような口調でそう言って、彼女は目を閉じる。
俺はマグカップを反対の手に持ち変えると、空いた手で彼女の胡桃色の髪をゆっくりと梳いた。
「いい気持ち……」
うっとりと、彼女が呟く。
「こうしてもらうの、好き」
「そうか?」
「うん…好き………」
「そっか……」
彼女の頭に、頬を当てて。
鼻孔をくすぐる香りに微かな目眩を覚えながら、手は尚も彼女の髪を梳き続ける。
「俺も……」
「え?」
「こうしてんの、結構好きだな。お前の髪、すっげー手触り良いから……なんか癖になる感じ」
「あはは…なんか照れますなぁ……」
くすぐったそうに、彼女が笑う。
「あのね……黒崎君………」
「ん?」
「……………大好き、だよ?」
「………」
髪を梳く手が、止まる。
そのまま彼女の肩に手を回し、少し体勢を変えて。
それからそっと、唇を重ねた。
軽くのつもりが、つい深くしかけて……彼女からストップをくらう。
「だーめ」
そっと俺の唇を押し返す、細い指。
「今晩中に、終わらなくなっちゃうよ」
「……無理せずに明日に回せば? 明日も日曜で休みなんだし」
「嫌です! 折角黒崎君が来てくれたんだもの、せめて明日は二人で心おきなくいちゃいゃしたいのですっ」
「いちゃいちゃ……って……」
「…………恥ずかしいので、オウム返しはしないでください」
一瞬、ぷうっと小さく頬を膨らませて。
それから直ぐににっこりと笑うと、彼女はテーブルへと向き直る。
「休憩終わり! さて、もうひと働きいたしますぞ!」
そう言いながら、テーブルの上や床に広げた沢山の色画用紙の中から、幾枚かを選び始めた……。
一度、カップを片づけにキッチンへと立って。
鍋とカップを洗って戻ってくると、井上のすぐ背後に座った。
「わひゃあっ?!」
彼女が変な悲鳴を上げたのは、俺が背後から彼女の胸の下あたりに腕を回したから。
そのまま手を組み合わせ、額を彼女の肩に預けてしまう。
「こーらー」
苦笑気味に抗議する、井上の声。
「……嫌、か?」
「嫌じゃないけど……この後ハサミを使うから、動かずにいてね?」
「ん……」
しばらく、そうして。
「ごめんな?」
ぽつり、つぶやく。
「どうして謝るの?」
「俺……邪魔してんなって思って」
「そんなことないよ? 美味しいご飯つくってもらって、甘酒つくってもらって……とっても感謝してますぞ?
それに……ね?」
傍にいてくれて、本当に本当に嬉しいの……。
作業を止めた井上の手が、俺の髪にそっと触れる。
もう片方の手は、組んだ俺の手を包むように静かに重ねられていて……。
そこから感じる温もりが、何だか泣きたくなるほどに愛おしい。
「ありがとう、来てくれて……」
「うん……」
「こっちこそ、ごめんね? やっぱり退屈でしょう……?」
「いや、それはねぇよ?」
「だって……」
「本当だよ……なんか楽しいんだ。ただの色画用紙が、お前の手で花だの動物だのに変わっていくのを見るのは」
そう…それは、ちょっとした魔法のようで。
次は一体、何が生み出されていくのかと……彼女の隣で本を読みながら、時折視線を彼女の手元に向けて眺めるのは、とても興味深くてわくわくすることだった。
「なぁ……?」
「はい?」
「俺にも何か、手伝える事あるか?」
「え?」
「あんまり器用じゃねぇから、たいした事はできねぇけど……でも俺が手伝えるなら、それだけ早く終わるんだし」
「いいの?」
「ああ」
一度彼女から離れて、今度は隣に座り直す。
「それじゃあね……」
井上は濃淡様々な緑色の紙を数枚取り出すと、葉っぱの形をした厚紙と一緒に俺に差し出した。
「この型紙使って、切り取れるだけ葉っぱを切り取ってくれる?」
「了解!」
テーブルに紙を広げ、その上に型紙を置いて鉛筆でなぞり、それをハサミで切り抜いていく。
「出来るだけ無駄無く、お願いね?」
「おう」
一枚、また一枚と切り抜きながら…ふと、思いついたアイディアを井上に提案する。
「何枚かさ、虫食いにしてみたらどうかな?」
「そうねぇ……うん、いいかも! じゃ、お任せしちゃっていい?」
「ああ」
ちょきちょきとハサミを動かしながら、次第に顔に笑みが上る。
隣の井上も、小さく鼻歌を歌い出す。
俺の視線に気づいて振り向いた井上が、ふわりと笑って。
そしてもう一度、「ありがとう」と言った。
「来てくれなかったら…今頃、泣きながらやってたかもしれない……」
「そっか……」
こつんと、額をくっつけて。
掠めるように、口づけて。
微笑みを、交わして。
そして再び、それぞれの作業を続ける。
静かに穏やかに、流れる時間。
こんなふうに過ごす夜も、案外悪くないもんだな……。
そう、思いつつも。
ふっ……と、芽生えた悪戯心。
「なぁ、井上」
「はぁい?」
「終わったら…一緒に風呂でも入るか?」
「……え……ええええっ?!」
終
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