ORANGE DAY/橙色恋歌
公園に戻ると、井上はちゃんとベンチに腰掛けて待っていてくれた。
背後に駆け寄り、足を止めて。
公園まで約二km、ほぼ全力疾走状態で来たために上がってしまった息を、必死になって整える。
夕方の幾分冷えた空気に気管を刺激され、盛大に咳き込んでしまった俺に、そっと彼女が差し出してくれたのは、オレンジ色した液体の入ったペットボトル。
礼を言って受け取ると、キャップを捻ってあおった。
そのままごくごくと、一気に飲み下す。
オレンジの酸味と甘味が、疲れた身体と乾いた喉に心地よくて。
ぷはっと息をつきながら、思わず「うめぇ…」と呟いた。
「ありがとな?」
俺がそう言うと、井上は。
くすり…と小さく笑った。
いつもと同じ、日溜まりのようなその笑顔に吸い込まれるように、俺は正面から彼女を見つめて。
「井上…俺……」
言いかけて…でも、そこから先の言葉が、どうしても出てこなくて。
自分の心臓の音ばかりが、耳について。
暴れる心臓に、胸が痛くて。
……俺は思わず、その場にしゃがみこんだ。
「駄目だっ! やっぱ、すっげー緊張するっ!!」
頭を掻き毟りながら、精神的に地の底までめり込む。
……どんだけヘタレだ、俺は?!
自嘲気味に、内心で呟いて。
ふと、手を止める。
僅かに顔を動かし、視界の端に夕日を捉える。
なぁ…お日様。
力、貸してくんねぇか?
伝えたいんだ、彼女に。
夕焼け色の髪が綺麗だと言ってくれた、彼女に。
俺を好きと言ってくれた、彼女に。
どうしても、どうしても………。
今、ここで…伝えてやりたいんだ……!
そっと…前髪の隙間から彼女を見上げる。
戸惑いの表情をその顔に浮かべて俺を見返す彼女に、展望スペースの柵まで行ってくれと頼んだ。
少し困ったような顔をして小首を傾げながらも、彼女は俺の言うとおりにしてくれて。
その背後に、静かに歩み寄る。
そっと両腕を伸ばして、彼女をその腕の中に閉じ込めるようにして後ろから柵を掴んだ。
本当はそのまま抱きすくめてしまいたいのを、必死で堪えて。
彼女の耳元で、名を呼ぶ。
びくり……と、彼女が身を固くする。
そんな僅かな反応すら、胸が痛くなるほど愛おしくて。
ひとつ呼吸をすると、俺はその形の良い耳に向かって囁いた。
「お前が、好きだ……」
……言った途端に、身体がかぁっと熱くなって。
再びばくばくと音を立てて鳴りだした心臓を、持て余して。
俺はそっと、井上の肩に額を預けた。
「ごめん…も、ちょっとだけ、そっち向いてて……。
俺…今きっと、酷ぇ顔してると思うから……」
もごもごと口の中で呟くように頼むと、井上は小さく頷いて、それを許してくれた。
服越しに額に伝わる彼女の体温に、心がじわりと暖かくなる。
ずっとずっと、こうしていられたらいいのに……。
そう思った、瞬間。
ためらいがちに届いた、彼女の声。
「……しっぽとか、耳とか……ついてないよね?」
「何だそりゃ」
今度は一体、どんな脳内旅行をしてきたのやら……。
そんな事を思いながら、喉の奥で笑って。
俺はそっと、手摺りから手を離した。
ゆっくりと、井上が俺を振り返る。
何処と無く不安そうな表情の彼女に向かって、俺は精一杯の笑顔をつくって。
すると…彼女もまた、静かに微笑を浮かべて俺を見返してくれた。
「なんだか、夢の中に居るみたい……」
ぽつり呟いた彼女の、まるで寝起きのようなぽやんとした様子が可笑しくて。
「抓ってやろうか?」
手を伸ばし、そっと頬にふれて。
それから…ふにっと摘んでやった。
そうしたら。
彼女の薄茶色の大きな瞳から、いきなりぽろぽろと涙がこぼれ始めるもんだから。
仰天して。
俺は慌てて、手を離す。
そんなに強く力を入れた覚えは、無かったのだけど……。
「悪ぃ! そんなに痛かったか?!」
焦る俺に、彼女はただ黙ってかぶりを振ると。
ふんわりとした微笑みを浮かべながら、言った。
「とっても嬉しくて……あんまり幸せで……それで………」
「井上……」
笑いながら尚も涙をこぼす彼女の姿に、きゅうと心臓が締め付けられるように痛くなって。
でもその痛みは決して不快ではなくて…どこか甘く切なく感じて……。
もう一度、手を伸ばす。
今度は手の平で包むようにして、頬にそぉっと触れてみる。
親指で涙の跡を拭ってやると、彼女はとても気持ちよさそうに微笑みながら、静かにその瞳を閉じた。
ええと……その………井上さん?
………もしかして、誘ってたりなんかするんでしょうか?
いやいやいやいや、井上に限ってそんな事は無ぇだろっ!
……と、必死で心中否定しつつも。
俺の手に頬を摺り寄せるようにして目を閉じている彼女の、その表情が。
あんまりにも可愛らしくて。
愛おしさが、胸に募って…募りすぎて……。
堪えきれず……俺は彼女の桜色の唇に、自分のそれを寄せた。
触れあう直前、彼女がぱちっと目を開いて。
また慌てたようにぎゅっと瞼を閉じるのを見て。
ああ、やっぱり…誘ってたわけじゃねぇんだな……と、一瞬躊躇はしたけれど。
……無理です、今更止まれません。
触れ、る。
やわらかくて、暖かな…彼女、に。
それは何て、幸せな瞬間……。
やがてゆっくり顔を離すと。
俺を見上げた彼女が、そっと自分の唇に手を触れながら、くすりと小さく笑って呟いた。
「……………オレンジ、だ」
「…え?…あ……………あっ?!」
俺は慌てて先刻うずくまっていた場所まで戻ると、地面に立てて置いたままだったペットボトルを手に取った。
「ごめん…殆ど飲んじまって……買って、返すな?」
「あ、いいの…それ、買ったんじゃなくて貰ったものだから……新製品の試供品だって言って、配ってたの」
「そうなんだ……」
綺麗な綺麗な、オレンジ色のジュース。
「美味しかった?」
「ああ……美味かった。酸味と甘味のバランスが絶妙で。販売したら、結構ロングセラーになるんじゃねぇかな?」
そんな、他愛のない会話を交わして。
「帰るか……お前んちまで、送ってくから」
「うん。ありがと、黒崎君………」
はにかむように笑う彼女の手を、そっと取って。
陽が落ちて、藍に染まった街へと、二人ゆっくり踏み出した……。
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