桜幻想〜夢見草の見る夢〜
【桜幻想 Ⅲ】
初出:2021.04.04・04.18
『今夜か?』…と。
クエスチョンマーク含めて4文字のメッセージを、井上に送る。
『よく分かったね!」
返事が戻ってきたのは、それから1時間後のこと。
時刻から察するに、おそらく休憩時間中なのだろう。
『俺も、一緒して良いか?』
ダイニングテーブルに寄りかかりながら、震える指で送信し、息を詰めて画面を見守る。
数秒後、井上お気に入りのスタンプで返事がきた。
可愛らしいうさぎのキャラクターが、「OK」と書かれたプラカードを掲げている。
「……よっしゃ!」
思わず声に出しながらガッツポーズまでとってしまい、慌てて室内を見渡す俺。
幸いなことに遊子は台所で水仕事中、親父と夏梨はサッカー観戦でテレビに釘付けで、気づかれなかったらしい。
ひそり…と安堵のため息を吐きながら、俺はそっとリビングを後にした。
そのまま階段を上り、自室に入る。
そして机へと歩み寄り、引き出しを開けると、小さな箱を取り出した。
掌の中に包み込むように持ち、その手を額に押し当て、静かに目を閉じる。
瞼の裏側に浮かび上がるのは、今日の麗かな陽射しのような井上の笑顔。
「……どうか…」
続く祈りの言葉を、心の中でだけ呟いて。
俺は小箱を、上着の胸ポケットへと仕舞い込んだ。
公園の門が見えるあたりまでくると、柔らかなソプラノが風に乗って耳に届くようになった。
ゆったりと流れる優しいメロディに、知らず口元が緩む。
初めて井上の歌声を聴いた夜から、今年で7年。
年月を経るにつれ、井上の選曲は、哀しく切ない短調の曲よりも、穏やかで心に明かりが灯るような長調の曲が多くなっていった。
それは多分、井上の心の変化…主に、昊さんへの想いの昇華度合いに比例しているのだろう。
そして…。
「…あ! 黒崎君!!」
入り口の門を抜けた俺に気がついた井上が、ジャングルジムの天辺で手を振る。
すぐそばにある外灯の光に包まれて浮かび上がる姿は、それこそ桜の精霊のようだ。
7年という時間は、井上をあどけなさの残る少女から、魅力的な〝ひと〟へと成長させていた。
対して、同じ時間の流れのなかに居たはずの俺の自己評価は、未だ未だ甘ったれの子供のままだ。
勿論、大学での勉強はそれなりに頑張った。
鰻屋でのバイトや、死神代行の仕事も。
それでも、井上に対して俺はいつも何か、何処か、追いつけていないと感じていた。
それは、今、この瞬間も現在進行形だ。
だけど……。
「はい、どうぞ!」
隣に腰掛けた俺に、井上がカイロを差し出す。
礼を言いつつ、俺は彼女にチョコまんを差し出した。
それは、6年前から続く、年に一度の2人の習慣だ。
「いっただっきまーす!」
あーん…と大口を開けて、井上がチョコまんに齧り付いた。
美味しいものや可愛らしいものを目の前にした時の井上は、まるで小さな子供のような振る舞いを見せる。
先ほどまでの、妖艶さすら感じさせた彼女と同一人物とは思えないような幼い仕草に、俺は微かに苦笑を漏らした。
それと同時に、心の中だけでひそりと安堵のため息を吐く。
『そう遠くない未来に、きっと追いついてみせる……だから…』
チョコまんを平らげた井上が、再び桜を見上げて歌い出した、
緩く吹く風が、はらはらと花弁を散らしていく。
まさに、花吹雪。
この、美しく夜空を舞う花弁が、数分先の未来の俺たちに対する、寿ぎでありますように…そんなことを祈りながら、上着のポケットの中で、小さな箱を握りしめる。
井上が歌い終わるのを待って、俺は彼女の名を呼んだ。
僅かに、声が掠れる。
振り返った井上が、ことり…と首を傾げて俺を見た。
「……渡したいものが、あるんだ」
差し出した掌、その上に乗った天鵞絨の小箱に、井上の視線が落ちる。
しばらく黙って箱を見つめたのち、彼女の薄茶の瞳が、前髪の隙間からそろり…と俺の顔を見上げてきた。
「……開けてみて、いい?」
頷きながら、井上の掌へと小箱を移す。
白く細い指が静かに蓋を持ち上げると、一瞬、視界の端で、小さな光が瞬いた。
「……綺麗」
井上の口角がゆっくりと上がり、比例するように眉尻と目尻が下がっていく。
困惑されたり、不快をあらわす表情をされずに済んだことに、ひとまず安堵する俺。
同時に、喉がカラカラに渇いていることに気がついて、井上からもらった紙コップ入りのお茶を口に含んだ…その時、だった。
「オーナーが『もし披露宴をやるなら、是非うちの系列のレストランで』って」
「ぶ…っ、?!」
盛大に、お茶を吹き出しそうになって。
無理にそれを押さえ込んだら、今度は水気が気管に入ってしまい、ゲホゴホと派手に咳き込む。
手から落ちた紙コップが、渇いた音を立てて地面を転がった。
「……大丈夫?」
「お、おう……げほっ!」
息苦しさに、顔に熱が集まる。
……が、やたらと頬が火照る原因は、それだけじゃない。
「井上…その………今の、は……」
どうにか正常な呼吸を取り戻したものの、どう会話を続けたら良いものやら……と。
口を開いては閉じ、開いては閉じ…を繰り返す。
すると井上は、出会った頃に良く目にしていた表情…笑顔の下に自分への諦めを隠した時の顔になって、ちろりと舌を出した。
「…………ごめんね、早とちりしちゃったかな」
「いや、違う…! そうじゃねぇ! そうじゃなくて……!!」
慌てて、首を横に振る。
視線を井上に戻せば、道化た表情は消えていた。
安堵すると同時に、今度は直向きな眼差しに気圧され、ごくりと生唾を飲む。
一度目を閉じて呼吸と心を落ち着けると、俺は静かに口を開いた。
「……いいんだな?」
「うん」
「自分で言うのもなんだけど、色々順番おかしいだろ?」
「そうだねぇ」
苦笑を浮かべつつ、「でもね…?」と。
井上が箱の中へと、視線を移す。
中に鎮座ましましているのは、小さい石の留まった指環だった。
「一度保留にしましょう…ってなった時からね、なんとなく予感がしてたの。
もし本当に2度目があるなら、私たち、こんな始まり方をするのかも…って。
黒崎君、いい加減なことしないし、出来ない人だから」
「井上…」
喉の奥に、熱い塊が迫り上げる。
1年間…いや、4年間。
違う、もっとずっと前から。
もしかしたら、7年前のあの夜から。
井上が、俺を待っていてくれた……そのことが、嬉しくて。
待たせた自分が、情けなくて……。
「黒崎君こそ、本当にいいの?」
「……何でだよ」
「就職したばかりだし…この先、もっと素敵な人と出会える可能性だって、あるでしょ?」
「無ぇよ、そんなもの」
「あら、即答だ」
「当然だろ! 茶化すなよ!!」
憮然とする俺に、井上は素直に「ごめんなさい」と目を伏せる。
俺はため息を吐きつつ彼女の掌から小箱を取り上げると、中の指環を抜き取った。
「…………手…」
「うん」
差し出された白く小さな手を取り、薬指に指環を通していく――ただそれだけの行為がひどく照れ臭く、一度引いたはずの顔面の熱が戻ってくる。
それは井上も同じだったようで、「なんか照れるねぇ」と笑い含みに呟きながら、もそり…と小さく身じろぎをした。
ちら…と覗き見た顔は、夜目にもはっきりとわかるほど赤味を帯びている。
「わ…ぴったりだ」
「ああ…井上、少し前に遊子たちの買い物に付き添って、あいつらに勧められた指環を試着したろ?」
「……たしかに、そんなこともあったけど」
「あいつらが帰宅するなり、メモ取らされたんだ。いつか必ず必要になるだろうから…って」
「そうなんだ…」
ふふ…と小さく笑って、井上は眼前に手をかざした。
箱を開けた時と同様に、留められた石が外灯の光を弾いて、きらりと輝く。
「……ありがとう、黒崎君」
振り返った井上の、微笑みが綺麗で。
それこそ、輝くようで。
俺は眩い光に吸い寄せられる羽虫さながらに、井上へと顔を近づけた。
触れた…と思った、その瞬間。
慌てたように2人して距離を取ってしまったのは、感触に違和感があったから。
戸惑って瞬きを繰り返す俺の目の前で、軽く眉根を顰めた井上が、唇から何かを剥がし取る。
「花びら、だ」
呟いた井上が、目の前の桜の木を見上げる。
その瞬間にも、たくさんの花弁が風に乗って舞い続ける。
「……嫌がらせと祝福と…どっちだろうな」
ぼそり…と、つぶやく俺。
敢えて、〝誰の〟とは言わなかった。
しかしながら井上は、俺が脳裏に浮かべた人物を、正確に視て取ったに違いない。
「どっちも…かなぁ……?』
苦笑する井上の肩に、腕を回して。
そっと自分の方へと引き寄せれば、肩にことん…と小さな頭が乗る。
体勢的に井上の顔を見ることはできなかった
けれど、微かに揺れた空気と、掌に伝わった振動に、彼女が微笑みを浮かべていることを確信する。
「……嫌がらせする気も失せるくらい、幸せになってやろうぜ」
「うん…!」
再び、井上の肩が小刻みに揺れる。
くすくすと笑う微かな声が、俺の鼓膜に優しく響いた。
終
※我ながら、プロポーズネタ、何作書くねん…と、呆れつつ。