この、美しい世界に……君と
【この、美しい世界に……君と】の時空より
ネコの日ネタ
※ ドン暗いので要注意
ただいま、と。
口の中で呟きながら、アパートのドアを開ける。
「にぁ」
甘えるような鳴き声に視線を下に落とせば、玄関マットの上にちょこん…と小さな影。
それは、大きな目をした茶虎の子猫だった。
「……よぅ。出迎え、サンキュ」
そっと抱き上げ、鼻の頭に口づける。
「今、餌やるからな」
靴を脱いで叩きにあがり、そのまま台所の隅へと移動すると、床に置いた籠の中から子猫用の猫缶をとりあげた。
居間に入り、座卓の前に腰を下ろす。
缶を開けて小皿に中身を移す間、子猫は俺の膝の上で大人しく待っていた。
「ほら、食えよ」
皿を床に置いてやると、ぴょんっと膝から飛び降りて。
ちゃっ、ちゃ…と微かな音を立てながら、餌を頬張りだす子猫。
可愛らしい姿の割に、その食べっぷりはなかなかに豪快だ。
「……食いしん坊なところも、そっくりだな」
思わず、苦笑する。
すると抗議のつもりか、子猫が俺を見上げて「にぃ」と不満げな声を上げた。
「何だよ、本当のことだろ?」
ちょぃっ…と、子猫の額をつつく。
すると反撃のつもりか、子猫が小さなその手で、ぱしっと俺の手の甲を叩いてきた。
ちり…と、微かに走る痛み。
それは、俺が胸の奥底に沈めたはずの、遠い遠い記憶を呼び起こさせる。
『…くろさき……くん……』
耳に甦る、か細い声。
まるで、子猫の鳴き声のような……。
その声の甘さに酔いしれた日から、もう幾年経ったのだろう。
たった一度、の。
一度きり、の。
彼女が確かに俺だけのモノだった、あの夜から。
ここから、始まるんだ……と。
あの時の俺は、そう信じ込んでいたんだ。
背中に残る、爪跡の痛みにすら幸福を覚えて……。
あれが、最後になるだなんて。
安らかな彼女の寝顔を見つめながら、どうして想像することなどできただろう。
「…井上……」
ぎゅっ…と閉じた瞼の裏には、紅蓮の炎。
俺から彼女を奪い去った、天を突くほどに巨大な火柱。
……どうして俺は、あの時、間に合わなかったのだろう。
例え、助けられなかったとしても。
せめてこの腕の中に彼女を抱きしめて、一緒に逝けたならば、どんなにか。
どんなにか、俺は……。
「にぁ?」
子猫の声に、はっ…と我に返った。
手を伸ばして首の下を撫でてやれば、ごろごろ…と嬉しそうに喉を鳴らして目を細める。
「明日、不動産屋に行ってくるな? ここはペット不可だから、引っ越さねぇとな……」
にぃ……と。
まるで俺の言葉を理解したかのように鳴いて、俺の掌に頭をこすり付けてくる子猫。
思わず口元に笑みを浮かべながら、そのちいさな身体を抱き上げた。
潰さない程度の強さで胸に抱きしめれば、ぽかぽかと。
服越しに伝わってくる、子猫の体温。
「あったけえなぁ……」
呟いて、目を閉じる。
瞼の裏が、熱くなる。
喉元にこみあげてかる、熱い塊。
飲み下そうとして、出来なくて。
堪えきれなかった涙が一滴、ゆっくりと頬を伝い落ちていった。
「にぃ?」
「……何でもねぇよ」
子猫の脇の下に手を入れ、その身体を持ち上げて。
目の高さを合せて、静かに微笑む。
「そろそろ、寝るか。なぁ……ヴェガ?」
織姫、と名付けることは出来なかった。
だって彼女は、消えたわけではないから。
この世界の隅々にまで溶けて…この世界、そのものになっただけだから。
彼女は、居るんだ。
この…ちいさな子猫の中に、も。
「……ゆっくり、おやすみ」
君、が。
いつでも、いつまででも、幸福でありますよう……。
終
(しあわせだよ。
だって…あなたのとなりは、いつだってあたたかいから……)