銀河通信



【とける】
(初出:2015.11.15)







「……何で起こさねぇの?」
「うひゃあっ?!」

背後から響いた低くドスの効いた声に、思わず悲鳴を上げて飛び上がった。
霊圧関知は、割と得意なほうなのだけれど。
鍋の番をしながら読んでいた小説の世界に完全に気持ちが入り込んでいて、全く気配に気づけなかったのだ。

恐る恐る背後を振り返れば……ああ、やっぱり…思った通り!
眉間に深くふかーく数本の皺を刻んだ黒崎君が、酷く険しい表情で私を見ていて……。





……怒ってる。
絶対に、もの凄ーく、怒ってる…!!





「あの……その、えっと……」

たらり…と、背筋に冷たい汗が流れた。
気分的には数キロメートルくらいの距離を超高速で後退りたい気分なのだけれど、生憎背中には極弱火とはいえ火の点いたコンロを背負っている。
……どうしたって、逃げられない。

「井上…」
「だって…あんまり気持ちよさそうに、眠ってたんだもの!!」

名を呼ぶ声に含まれていた詰問の響きに、思わず声を荒げてしまった。
視線の先、黒崎君が大きく目を見開く。

「黒崎君、最近寝不足だって言ってたし…それなのに、どうして起こせるっていうの?!
もし逆の立場だったら、黒崎君だって絶対に、私を起こしたりなんかしない筈だよ……!」

震える声で、訴えながら。
瞼の裏が熱くなっていくのを止められなくて、顔を覆って俯いた。







……ああ、どうして。
私のやることは、いつもこう…裏目裏目に出てしまうのだろう。

私にとって黒崎君は、誰よりも何よりも大切な人なのに。
例え針先程の微かな傷でさえ、その心に刻みたくはないのに。

なのに、どうして私は………。












重い沈黙が降りる、台所。
コトコト…と、鍋の煮立つ音だけが静かに響く。
そのなかに、ひた…ひた…と裸足で床を踏む音が混じって。
ゆっくりと近づいてくるそれが止まったと同時に、ほわり…と身体が暖かくなった。

「っ、?!」

反射的に身を強ばらせた私を、より一層強く抱きしめて。
私の耳元で、彼が苦しげに呟いたのは「ごめん」の三文字。

「くろ…さ……?」
「………こういうのを、逆ギレって言うんだな…きっと」
「…?」

苦しげに吐き出された声に首を傾げていると、僅かに腕の力が弛んで。
恐る恐る顔を上げてみれば、先刻の怒り顔とは打って変わって、悄然とした表情の黒崎君。
吃驚して、軽く目を見開けば。
彼は自嘲気味に口の端を吊り上げつつ、再び私の身体を引き寄せた。

彼の胸板に額を押しつけるようにされて、暗く閉ざされる私の視界。
戸惑いながらもされるがままになっていると、私の髪に彼の頬が優しく押しつけられるのが、感覚でわかった。

「……くろさき、くん?」
「目覚ましを、かけた筈なんだ」
「………」
「無意識に止めちまったのか…それとも、セットの仕方を間違えてそもそも鳴らなかったのか……今となっちゃ、わかんねぇけど。
ともかく、俺はお前が来る前に起きて、洗い物も部屋の掃除も済ませておくつもりでいて……なのに、実際にはお前が来てくれたことにすら気づかずに、ずーっと寝こけてて。
挙げ句…目ぇ覚ましたら、美味そうな匂いまで漂ってるし。
………もう、さ。ほんっと自分が情け無くってさ。
家事させちまったこともだけど、貴重な休み潰してわざわざこっちまで来てくれたのに、無駄に時間を過ごさせちまったんだな…って」
「無駄だなんて……私、そんなこと…全然……」
「ああ、わかってる。わかってるよ……だからこそ余計に、居たたまれなくなるんだ。
お前はいつだって俺を優先して、我が儘らしいことも殆ど言わない。
『出来た彼女だな』って、ダチ共には言われる。
勿論、俺自身もそう思っているよ。
でも、時々……本当に、極まれに…なんだけど、さ。
……淋しい、って思うんだ」
「くろ、…さ……」
「昔、親父が言ってた。お袋に振り回されているのは、幸せなことだった……って。
俺だって、同じだ。甘えられれば、素直に嬉しい。
だから…今日みたいなことがあったら、拗ねるぐらいのことはしろ。
その程度のこと、いくら短気な俺だって受け止めてやれる。
俺を気遣ってくれるのは本当に嬉しいけど…お前だって仕事で疲れてるのに、時間と金かけてわざわざ此処まで来てくてるんだ。
そんな自分のことも、少しは大切にしろよ。
例え相手が俺だとしても、ちゃんと自分を…自分の心と身体を守ってくれ……」
「くろさき、くん……」

わかった……と、呟いて。
彼の背中にゆるく腕を回せば、ほう…と頭の上から大きな吐息が落ちてきた。
こめかみ近くの髪に口づけされて反射的に顔を上げれば、切なげな光を瞳に宿しながらも、穏やかに微笑む黒崎君が居て。
前髪を撫であげられて、額にひとつ口づけを貰って、至近距離で一瞬視線が交わって、再び瞼を閉ざした闇の中で、彼の吐息が唇に触れるのを感じた……その、瞬間。



ぐぅ……。



ぴき、と身体を強ばらせた後、私を抱きしめたまま、がっくりと頭と肩を落とす黒崎君。
思わず吹き出してしまったら、笑うな…と、低く呻くように黒崎君が呟いた。
可愛いなぁ…と思ったけれど、口に出してしまったらきっと盛大に拗ねてしまうから、ぐっと我慢して。
ぽんぽん…っと彼の背中を叩きながら、少し早めの夕飯を提案してみる。

「……いいけど…まだ夕方だぜ? 夜中に腹が空くんじゃね?」
「うん。だがらお夕飯の後で、コンビニまで夜食代わりのスイーツ買いに行こ? 今月からの新作、未だ食べてなくて」
「……俺に、奢らせてくれるなら」
「わぁ、嬉しい! 有り難う!!」

少し大げさにはしゃぎながら、つま先立って、彼の頬にキスをして。
踵を床に下ろしながら彼の顔を仰ぎ見れば、琥珀の瞳が柔らかく細まった。

「……手伝う。何すればいい?」
「じゃあ、座卓の上を片づけて布巾で拭いて、お箸とスプーンを並べてください」
「了解」

ぽんっ…とひとつ、私の背を叩いて。
ゆっくりと私から離れていく、黒崎君。

抱きしめられている間、ぽかぽかと暖かかった身体が急速に冷えていくのを、少し淋しく感じていたら。
台所と部屋の境目を今まさに跨ごうとしていた筈の黒崎君が、何故だか踵を返して戻って来て。
訝しげに首を傾げた私を見下ろして、にぃ…と口の端を吊り上げた。
その、やけに艶っぽい表情に、思わず息を飲む。

「また、夜に…な?」
「……へ?」
「寝かせておいてくれたおかげで疲れも取れたし、今起きたんじゃそう早く眠気も来ねぇだろうし…だから、さ」
「う、ん……?}
「……覚悟、しとけ?」
「っ、…?!」

ポンっ…と音が立つような勢いで、真っ赤に染まる。
そんな私を、満足そうな笑みを浮かべつつ見下ろして。
くしゃり…とひとつ、私の髪をかき回すと、黒崎君はまるで何事も無かったのような足取りで台所から出て行った。

「………もぅ…!」

ヘナヘナと、力なく床に座り込んで。
手で覆った顔を、膝に埋める。







………熱い。
身体が、胸が…どうしようもなく、熱くて……。















ひと月以上逢えなかった淋しさ、など。
僅かな欠片ひとつ残さず、消え失せてしまっていた。
まるで、氷が解けていくように……。





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