星の河を渡る日


井上の様子がおかしくなったのは、バスを待つ人の長蛇の列に乗車を諦め、駅までの帰り道を徒歩へと切り替えてから、程なくのことだった。

普段は使わないが、俺がいるなら大丈夫だろう——と、井上が帰路に選んだ裏道は、街灯も少なければ人通りもなくて。
どこか気持ちが落ち着かない俺の隣で、井上は
小さく鼻歌を歌いながら、まるで踊るような足取りでふわふわと歩いていた。

その、ご機嫌——としか言い表しようのない様子に、一層複雑さを増していく俺の心。
駅に着いてしまったら、俺が電車に乗ってしまったら、次に逢えるのはいつになるかもわからないのに。

しかしその気持ちは、花火の終わりに俺が彼女に告げた言葉と大きく矛盾するようにも思えて。
尚更、八方塞がりな気持ちになりかけたところで、不意にがくん…と井上の膝が折れた。

「うぉあっ?!」

咄嗟に、井上の腕を掴む。
なんとか地面に激突するのは防いでやれたが、井上はそのままズルズルと力なく地面に座り込んでしまった。

「い、いのうえ?!」

慌てて、正面に回り込む。
肩に手を置き、顔を覗き込んで…次の瞬間、俺はギョッとして目を見張った。
さして明るくもない街灯の光でも充分わかるほど、井上の顔が赤かったのだ。
いや、よく見れば顔だけじゃない。
袖口からすらりと伸びる腕も、首も、耳も、露出している肌は漏れなく朱に染まっていて。
潤んでいるのか、やたらと煌めいて見える瞳は焦点を結ばず、ぼんやりとしている。

初めは、熱でも出したのかと思った。
具合が悪いのを無理して、俺に付き合っていたのではないかと。
しかし——。

「おい、井上っ?! お前まさか、これを喰ったのか?!」

道路に飛び散ったショルダーバッグの中身を拾い集めていた俺は、手に取った小箱の表面を何気なく見て、瞬時に青褪めた。
それは、結構な度数の洋酒を内包している、チョコレート菓子だったのだ。

「……ちゃんと、加減したつもりらったんらけろな」
「呂律も回せねぇで、加減もクソも有るか! そもそも酒入りの菓子なんざ喰うなよ、饅頭で酔っ払った前科持ちのくせして!!」
「ぅ……」

俯いて、肩を丸める井上。
俺はため息を吐きつつ、もう一度、井上の腕を掴んで引っ張り上げた。
そして、ふらつきながらも何とか立ち上がった彼女の、細腰を両手でがっちり掴むと、「うりゃっ」と肩に担ぎ上げる。
反射神経はともかく、死神化していない時の俺の腕力は、あくまで人間としての筋力しかないから、虚圏での時ほど軽々…とはいかなかったのだ。
それでも——酔い潰れた啓吾あたりを背負ったときに比べたら、井上は随分と軽い。

「ひゃぁあああっ?! く、くくくくろしゃきくんっ?! な、なにを…」
「うるせぇ、黙って大人しく担がれてろ! すぐそこに公園あるみてぇだから、着いたら下ろしてやる」
「れ、れも…」
「遊園地で人混み抜けたとき、4年前がどうのと言ってたろ。ついでだから7年前のこと思い出しつつ、反省でもしてろ」
「ええぇぇえ……?!」

抗議とも批難とも、困惑ともつかないおかしな声で呻きながらも、とりあえず井上は大人しくなった。






「大丈夫か?」
「うん……」

公園のベンチ、水を飲ませて数分経ったところで、井上の様子は大分落ち着いたように見えた。
皮膚から赤味も引いてきたし、滑舌もそれほど悪くない。
廃棄パンを少し食べたきりの胃に、そこそこ度数あるアルコール入れて体を動かしたから、一気に酔いが回ったのだろう。
一方、摂取量はさほどでもないようだから、醒め始めるのも早い…と言ったところか。

「ごめんね、帰宅の予定を狂わせて…」
「そこは気にすんな。終電乗り逃したわけじゃねぇんだから」

乗車予定だった電車から終電までは、時間にも本数にも未だかなりの余裕があった。
井上の普段の就寝時間との兼ね合いで早めの帰宅を考えていただけだから、今のところ、それほど切羽詰まった事態にはなっていない。

「……なんで、あんなもの喰った」

わざと、なんだろ?——と。
なるべく詰問口調にならないよう努めつつ問いかければ、井上は決まり悪げに視線を地面に落としつつ、こくりと首を縦に振った。

「……笑って、お見送りしたかったの。笑って、またねって言いたくて」
「井上……」
「花火終わった時、黒崎君、私に言ったでしょう? 空座に帰ることに、縛られなくていいって。
それ、私のためを思っての言葉だって、頭ではわかるんだけど…でも……」

ぱたた——と、地表付近から微かな物音。
細い肩が、震えている。

「縛られてなんか、いないよ。
帰りたいの、本当に。
まだ春まで8ヶ月もあるのに、毎日毎日、心からその日を願って、指折り数えて……」
「——なら何で、そもそも空座を離れた?」

俺の傍から…とは、言えなかった。
でも、井上には俺の内心などお見通しなのだろう。
俺を見上げた瞳が、泣き笑いの形に歪む。

「怖かったの。黒崎くんの、足手まといになるのが」
「井上——」
「……黒崎君も、知ってるでしょ? 織女も牽牛も、本来はとても働き者だった…って」
「ああ」
「私ね、黒崎君からの交際のお申込みがあったとき、本当に本当に嬉しくて……。
でも同時に、堪らなく不安になったの。
就職試験や卒業を控えた大事な時期に、私、邪魔をせずにいられるのかしら…って。
逢いたいと請われたなら、それがどんな時でも断る自信なんてない。
私自身も甘えが出て、いろいろと我儘を言いたくなるかもしれない。
そうやって黒崎君の貴重な時間をどんどん削ってしまって、結果、進路や卒業に悪影響が出たらと思うと、怖くて怖くて……。
そんなときに、出向の話が出たものだから——」
「物理的に、距離を置いてみようと思った…? そうすれぼ、邪魔のしようもない——って」

こくりと首を縦にした井上の口から、ふう……と、重く苦しげな吐息が漏れる。

「此処で楽しく、活き活きと暮らしているように見えるのなら、それは無理してでも、そうあろうとしているからだよ。
寂しがってただ泣き暮らして、少しも成長せずに時間を浪費してしまったら、それこそ来年の春、黒崎君の傍に戻る資格なんて失くしちゃうと思うもの……」

銀色の光がまた一粒、彼女の頬を転げ落ちていった。
躊躇いつつも手を伸ばし、指先でそっと痕を拭いとる。

井上は黙って、俺にされるがままになっていた。

いつもの彼女なら、俺に気を使いすぎるが故に、弱音を吐いたり泣くことなど滅多にない。そう簡単に、触れさせもしない。
こんなにも素直に心中を吐露するのも、触れることを拒まないのも、未だ酔いが残っているからなのだろうか。

本当は、素面で今くらい打ち解けてくれるのが理想なんだがな…と、憂いつつも。
一方で、これは最大の好機かもしれない…と、期待に胸が膨らんでいくのを、俺は抑えられなくなっていた。





——今ならば、聞けるんじゃないだろうか。
あの日から今、この瞬間にに至るまで、ずっと保留にされ続けている答えを……。





あの、冬の日。
井上は黙って、ぼろぼろと涙を零すばかりで。
迷惑だろうかと問い掛ければ、激しく首を横に振るくせに。
ではOKなのかと尋ねても、途方に暮れた顔をして俺を見返すばかりで……。


だけど——。


『交際のお申込みがあったとき、本当に本当に嬉しくて……』

『来年の春、黒崎君の傍に戻る資格なんて失くしちゃう』


脳内で反芻するのは、今さっき聞いたばかりの井上の言葉。
とくりとくり…と、次第に鼓動が速度を上げていく。

『——焦るな、俺』

意識して、呼吸を深くした。
急いて強引に気持ちを引き出そうとすれば、きっと井上は、また頑なに口を閉ざしてしまうに違いないから。

「わかってくれてるみてぇだけど……でも、敢えて言っておくぞ」
「……?」

顔を上げた井上が、戸惑いつつも先を促すように首を傾げた。
不安気に揺れる薄茶の瞳を覗き込み、怯える子供を宥めるような気持ちで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「俺は別に、空座に戻ってくるなと言ってるわけじゃねぇ。
こっちでの暮らしが、空座でのものより生き甲斐や楽しさにおいて勝るなら、より自分らしく生きられると感じたなら、それを優先してほしいと思っただけだ。
足手まといになりたくないのは、俺も同じだから——」
「黒崎、く……」

また新たな銀色の軌跡が一筋、井上の頬に刻まれた。
もう一度、手を伸ばす。
頬に、触れる。
今度は指先だけでなく、掌全体で包み込むようにして。

井上は、避けも逃げもしなかった。
薄茶の瞳が、真っ直ぐに俺を見る。

吸い込まれそうだ——と。
そのまま引き寄せられるように口付けたくなる衝動を、どうにかこうにか理性で押さえつけて。
呼吸を、ひとつ。
俺はもう一度、あの日と同じ言葉を口にした。

「………好き、だ…井上…」
「——っ、?!」

井上の顔が、くしゃりと歪む。
涙を次々と溢れさせながら、きゅっ…と唇を強く噛み締める様は、まるで「その言葉」を口にしようものなら、世界が崩壊するとでも思っているかのように見えた。

「莫迦、血が出るぞ」

親指でそっと、唇を撫でる。
それは純粋な気遣い故だったのだが、井上の肩が派手に跳ね上がり、指の先を酷く熱い吐息が掠めると同時に、自分のやらかしを悟った。

「わ、悪ぃ…っ!」

唇が結構な性感帯のひとつだと言っていたのは、啓吾だったか水色だったか——。
とにもかくにも、慌てて頬から手を離そうとした、その瞬間。

「………き……」

微かに耳に届いた声に、大きく目を見開く。

「いの、う……?」
「好き……大好き………!」
「——!!」

思わず細い肩を引き寄せ、自分の胸元に彼女の額を押し付けた。
腕の中、肩を震わせ、大きくしゃくり上げる井上。
シャツを握る指先、そこに込められた力が愛しくて、胸の奥がじわりと熱くなる。

「待ってるからな」
「うん……」
「いや——いっそ、迎えに来ようか。軽トラでもレンタルして。荷物も何も、丸ごと全部運んで帰れるように」
「ええ?」

ぐすぐすと鼻をすする音の合間に、本気を疑う苦笑混じりの声。
俺は僅かにムッとしながら、耳元でささやいた。

「そん時には、指環と花束持参で、店に乗り込んでやるからな! 腹括っとけ!!」

ひく…と、大きく息を呑む気配がして。
少しの間を置いたのち、再び細い肩が震え始めた。







.
4/5ページ
スキ