星の河を渡る日



ただいま——と、居間の扉を開く。
途端に、食欲をそそる香りに全身を包まれた。
目の前のテーブルには、彩りも豊かに盛られた料理の数々。そのどれもが、俺の好物ばかりだ。

「おかえりなさい、お兄ちゃん!」

キッチンから出てきた遊子の手には、ハレの日に使うことにしている、とっておきのカトラリー。
お袋が生前大切にしていた、銀のアンティークの。

「ちょうど、全部のおかずが出来上がったところだよ!
今日の主役に頼むのはちょっと申し訳ないんだけど、手洗いうがい済ませたら、冷蔵庫からケーキ出してもらえる?」
「わかった」

踵を返しながら、ちら…とテレビ前のローテーブルへと視線を向ける。
ガラスの天板の上には、リモコン以外何も乗ってはいなかった。

密かに、ため息を吐く。



洗面所の入り口で、夏梨とすれ違った。
風呂を洗っていたらしい。

「おかえり、一兄!」
「あぁ、ただいま。そろそろメシらしいぞ」
「それじゃあ、あたしはヒゲに声かけてからリビング行くよ」
「おう……と、夏梨!」
「なに?」
「俺宛の郵便物、無かったか?」
「さぁ……? 先に帰ってきたのは遊子だし、ローテーブルに置いてないなら、来てないんじゃない?」
「だよな……」
「——あのさ、一兄」
「ん?」
「そんな顔するくらいなら、自分から電話でもなんでもすればいいじゃん」

ぐ……と、喉を詰まらせる。
夏梨は呆れ顔で一つ肩を竦めると、俺に背を向けつつぼそり…と呟いた。

「まぁ…それが出来るくらいなら、そもそもこんな状況になってないか」
「………」

離れていく背中を見送りながら、知らず拳を握り込む。
反論すらできない自分に、反吐が出そうだ。




「この箱か、遊子?」
「そう!」

リボンの掛かった白い箱を、冷蔵庫から取り出す。
包装紙の色も、そこに躍るロゴやシンボルマークも、今ではすっかり見慣れたそれ。

「今年は久々に、遊子が作るのかと思ってたけど」
「うーん…そうしても良かったんだけど、やっぱりあの店の味に敵うケーキは作れないし。
それなら、料理に時間と手間を掛けたいと思って——って、あれ?
もしかしてお兄ちゃん、織姫ちゃんへの義理で、あの店から買うようになったと思ってた?」

黙って頷けば、遊子は苦笑混じりに「違うよぉ…!」と首を横にした。

「ホントの最初はそうだったけど、結果、この辺りのケーキ屋の中では断トツに美味しかったからだよ!」
「そっか……確かに、どれも外れと思ったことないもんな」
「うん! でも——」

一瞬前までの笑顔は何処へやら、急に顔を曇らせて俯く遊子。
その萎れた花のような姿に、眉根を寄せる。

「どうした……?」

なるべく優しい口調になるよう努めて問い掛ければ、遊子は俺と視線を合わせないまま、歯切れ悪く呟いた。

「織姫ちゃんの居ないお店は、やっぱりちょっと変な感じ……まるで、苺の乗っていないショートケーキみたいで」
「——別に、二度と戻らないってわけじゃねぇんだぞ。契約期間は、来年の春までの筈だ」
「そんなの…もし織姫ちゃん自身があっちを気に入っちゃったら、簡単にひっくり返る話じゃない!
お兄ちゃんは、不安にならないの?!」

声を荒げて、俺を恨めしげに睨む遊子。
俺は夏梨相手のとき同様、やっぱり何も言い返せないまま視線を逸らし、黙々とケーキの包装を解き始めた。

「ゆーず! 一兄に八つ当たりしちゃ駄目だよ。
それこそ、織姫ちゃんが悲しむ」
「夏梨ちゃん…」
「その代わり、一兄自身にはいくらでも突っ込み入れてやりな!」
「——おい」
「なぁに、一兄? 実際、今の状況を作り出した原因の9割は、一兄にあるでしょ。あたし、そこは容赦しないつもりだから」

抗議しかけた俺に向かい、夏梨が思いっきりあかんべをする。
夏梨の言う通りだという自覚のある俺は、今回も口をつぐむ以外に出来ることがなかった。

なんとも言えない気まずい空気が、リビングを満たす。
それを破ったのは、勢いよくドアを開けて部屋に飛び込んできた親父だった。

「すまん、待たせたか?!」
「そんなことないよ、お父さん」
「なら、良かった……と、そうだ一護!」

首を横に振る遊子の姿に安堵の息を吐くと、親父は俺に向かって封筒を差し出した。
表に書かれた俺の名前、その少し丸みを帯びた文字に思わず目を見張る。

「医院宛てに届いた郵便物に、紛れてた。気付くのが遅くて、悪かったな」

親父の言葉途中でひったくりたくなるのを必死に堪えながら、敢えてゆっくりと手を伸ばす。
受け取って裏面を確認すれば、そこには筆跡から予想していた通りの名前があった。


——井上織姫。


ふ…と視線を感じて顔を上げれば、家族3人ともが、酷く生温い目つきでこちらを見つめている。
俺はまるで狼に三方を塞がれた羊よろしく、じり…と一歩後ずさった。
背と掌に、どっ…と嫌な汗が噴き出すのを感じながら。

「あ……と、その…」
「——なるべく早く、戻ってきて」
「へ?」
「できれば10分以内で。5分以内なら、なおベスト。ケーキ、汗かき始めちゃってるし」
「わかった! サンキューな、遊子!!」

身を翻して、リビングを飛び出す。
大方、自分達も中身を見たかったとでも騒いでいるのだろう——親父と夏梨の喚く声と、プライバシーがどうのと宥める遊子の声を背後に聞きながら、階段を駆け上がり、自室へと転がり込んだ。

息を整えながら鋏を手に取り、丁寧に封を切る。
中から取り出したのは、ポップアップ式のバースデーカードと、四つ折りされたチラシらしき紙。

『就職活動、頑張ってね!』

カードに手書きで添えられたメッセージは、僅かにそれだけ。そのことに少なからず落胆しつつ、チラシを開く。
それは、今の井上の居住地近くにある遊園地の、期間限定で営業時間延長する旨を告知するもので。下部には、打ち上げ花火イベント実施予定日の一覧があった。
そのうちのいく日かが、ペン書きの赤丸で囲まれている。

「……?」

首を捻りかけたところで意図に気づき、慌てて携帯のスケジュール管理アプリを立ち上げた。
画面と紙面とを交互に見比べ、通話ボタンを押しかけ——思いとどまって、メッセージを打ち込み始める。
書いては消しを繰り返し、結局送信できたのは、カードに対するお礼と「7日の夕方からなら、なんとか」という一言だけだった。

「俺も、大概だな」

自嘲を浮かべつつ、階下へと降りる。
待っていた家族は好奇心丸出しの顔で俺を迎えたけれど、口に出しては何も言わずにいてくれた。
有難く、俺もだんまりを決め込む。

食後に携帯を確認したら、返事が届いていた。
「了解」と、「おやすみなさい」を表すスタンプのみの、実にシンプルな。
まだ21時を過ぎたばかりだが、朝が早い——と言うより、まだ夜と言っていい時間から1日が始まる井上は、とうぜんながら就寝も早い。
こちらから掛け直すことは、もうできない。

遊子と食器を洗いながら「8月7日の夕飯は要らない」と告げた。
遊子は何かを言いたげな顔をしながらも、「わかった」と短く答えて。
それきり違う話題を持ち出し、井上の名を口にすることはなかった。







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