一重薔薇にまつわる三つの小話



駅から自宅へと向かう途中の、住宅街。
黄昏時。
最後の角を曲がったすぐ先に、井上が立っていた。

「……どうした、こんなところで」
「あ、黒崎君! お帰りなさい!!」

俺を振り返り、にこにこと笑いかける井上は、いつも通り廃棄パンの入ったコンテナを首から下げている。
もしかしなくても、俺の家へとパンのお裾分けに来てくれたのだろう。

「いつも言ってるけど……来るなら連絡しろよ、迎えに行くから」
「だって…うちの店、駅からも黒崎君のお家からも少し距離があるし、最近はだいぶ日の入りが遅くなったもの。
そんなに心配しなくても、大丈夫だよ!」

苦笑気味に井上は言うけれど、正直、危機感が足りないと思う。
客の中に、ストーカー気質のヤバい奴が居ないとも限らないのに。

「俺だって、無理はしねぇよ。
それに…俺ん家への往復途中に何かあったら、遊子や夏梨が悲しむと思うから」

俺が妹たちの名を出すと、途端に井上の眼差しが陰った。
俺としてはかなり複雑だが、井上の無茶や油断を諭すのに、俺の家族や竜貴の名はかなり有効だ。
使わない手は、無い。

「んで——何、こんなところで突っ立ってるんだ?」

話を振り出しに戻すと井上は再び笑顔になり、彼女の斜め上あたりを指差した。
視線を向ければ、そこには幼児の掌ほどの大きさの白い花が、フェンスいっぱいに咲き誇っている。

「すごいよねぇ。つい見惚れちゃって」

確かに、壮観だ。
恥ずかしながら、毎日前を通り過ぎて居たにもかかわらず、さして花に興味のない俺の目には、今の今まで映ることもなかったのだけれど。

井上に倣い、じっくりと花を眺めてみる。
……なるほど。
優しい曲線を描く花弁がふうわりと綻び広がっている様は、無垢な子供の満面の笑顔のようで。
井上が惹きつけられるのも、至極当然だと思えた。

『それにしても……』

内心、密かに首を傾げる。
この花を見ていると、心臓に纏わりつくような既視感に襲われるのは何故だろう。
——しかも。
同じ花や、似た花を見た記憶…ということでは、なく。
例えるならば、大切な昔馴染みに再会した時のような……そんな、懐かしさ。
灯りの点るような暖かさと、細い針先で突かれたような痛みが、胸の奥底で、甘く切なく渦巻くような……。

「何の花なんだろうな」
「えっと……多分、薔薇だと思うよ」
「薔薇?!」
「うん。具体的な品種名はわからないけど……野生種やそれに近いものには、こういう一重のがあるって聞いたことある」
「へぇ……」
「八重咲のように豪奢ではないけど、私、このシンプルな可愛らしさが、とても好きなの」

確かに、井上の言う通りだと思った。
夕風を受けて、たおやかに揺れるその花は。
派手さこそ無いものの、花の女王たる気高さはそのままに、素朴で可憐で……。



『——ああ、そうか』



唐突に、腑に落ちた。
先ほどから続く、不思議な既視感の正体に。

井上、だったんだ。

作り物の青空の下、「怪我しないで」と涙を流してくれた、あの時の。
共に虚と対峙してきた、数多の瞬間の。
命を救わんとして力を駆使する、その時の。

真摯に訴える、瞳の色。
凛とした、横顔。
全てを包み込むような、穏やかな微笑み。
負傷者に駆け寄る後ろ姿、靡く髪、ふわり…翻ったスカートの裾。

そんな、過去の情景を。
かの日の、井上の姿を。
俺は無意識に、重ねていたんだ。

目の前の、白い花に——。








「そろそろ行こっか、黒崎君」
「——あぁ、そうだな」

気がつけば、空の色が変わっていた。
踵を返し、家まで残り数十メートルを、井上と肩を並べて歩き出す。

「今日はね、試作品も持ってきてるの。みんなの意見や感想、聞かせて欲しくて」
「そりゃ、楽しみだ」

俺を振り仰いだ井上が、やわらかく目を細める。
その笑顔が、あの白い花に重なる。
二十歳を超えて、見かけも立ち居振る舞いも、少し大人びたように見えるけれど。
魂の核を成す部分は、きっとあの頃のままなのだろう。

恐らく、は。
この先もずっと……。



門の中へと、先に井上を通してやりながら、今来た道を振り返る。
藍色に染まり始めた世界、ぼんやり白くと浮かび上がる花の群れに、今度は未来を透かし視る。

いつの日にか、彼女が純白の衣装に身を包むであろう、その時に。
隣に並び立つのは、やっぱり俺でありたい……と。
知らず、拳を握り締めた。









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