空に咲く花、地上の星



高校卒業後、内輪の同窓会として恒例になりつつある空座の花火大会鑑賞の集りに、今年、井上は参加できなかった。
その日は他の社員やパートさんに退っ引きならない用事が重なっていたとかで、井上は花火大会終了時刻まで遅番勤務に入らざるを得なかったのだ。

「折角、浴衣を新調したんだけど……着る機会、無くなっちゃったな……」

苦笑混じりに井上が呟いたのは、とある八月初旬の夜のこと。
例によって廃棄パンを俺の家まで届けに来てくれた井上が、遊子によって半ば強引に夕飯の席に着かされ、帰宅が遅くなり、俺がマンションまで彼女を送っている最中だった。

「まだ、八月になったばかりだぜ? この先も何かしらイベントあるだろ」
「それがね……」

八の時に眉尻を下げて、一層困った表情を浮かべた井上が言うには、イベント日に限って勤務が割り当てられていたり、竜貴達に外せない予定が入ってしまっているとのこと。

「……俺とでよければ、どっか付き合おうか?」

思わずそう声をかけてしまったのは、肩を落とす井上の横顔がとても淋しげに見えたから。
浴衣を着られないことだけではなく、親友やかつての級友たちとこの夏を過ごせないことが、残念で仕方がないのだろう。
勿論、俺なんかに竜貴の代わりが務まる筈がないと、俺自身が一番良く理解っている。
……それでも。
真新しい浴衣を着て、からころと下駄を鳴らしながら、屋台をひやかして歩く…そんなささやかな夏の想い出の一つくらい、どうにか作ってやれたなら……そう、思ったんだ。

「……………いいの?」

足を止め、大きく目を見開いて。
少なく見積もっても30秒は俺の顔をじっと見つめたのち、井上は恐る恐る俺に確認してきた。
気恥ずかしさから視線を逸らせたくなるのを、必死に堪えて肯き返せば。彼女の顔からは次第に戸惑いが消えていき、代わりにふうわりとした柔らかな微笑みが広がった。

「…ありがと、黒崎くん。すっごく…すっごく、嬉しい……!」

はしゃぐ井上の様子が、あんまり可愛くて。
肩を抱き寄せたくなる衝動を抑えるのに必死だった俺は、この後、井上を送り届けて自宅に戻るまでの記憶が殆ど無い。
翌朝目を覚ましたときなど、「あれは夢だったのではないか…?」と、強烈な不安に襲われてしまったくらいだ。
スマホのタスクアプリのなかに、確かに井上との約束の日時が記録されているのを確認したとき、俺はどれほど安堵したことだろう……。


かくて。
8月下旬の近隣市の花火大会に、俺は井上と一緒に、出かけることになったのだった。











花火大会の当日、俺はバイトを終えたその足で、井上をマンションまで迎えにいった。
井上は駅で待ち合わせようと言ったのだが、まだ明るいうちとはいえ浴衣姿の井上を街中に独りで歩かせることに、不安が拭えなかったからだ。
実際、去年の集まりのときには、集合場所に向かう途中で小川が強引なナンパに遭っている(少し遅れて通りかかった竜貴が空手で撃退して、事無きを得たけれど)。そして、いくら井上に竜貴仕込みの空手の腕と六花の力があったとて、大人の男が、それも複数人で絡んで来たならば、かわして逃げるのは容易では無い筈だ。
俺がそう力説すれば、去年の小川の怯えぶりを思い出したのか、井上は困惑気味な表情を浮かべながらも、頷いてくれた。



マンションのエントランス前にたどり着いたところで、携帯電話で到着を告げる。
やがて「お待たせしました」と微笑みながら現れた井上の姿に、俺は思わず息を飲んで瞠目してしまった。
昨年までの淡い色合いの浴衣とは違い、黒と見紛うほどの濃紺地の浴衣は、二十歳を越えた井上の、大人の女性としての魅力を存分に引き出すものであったからだ。

髪を結い上げたことで露わになった、細い首。
その華奢さと白い肌の目映さに、どくり…と痛いくらいに音を立てて心臓が鳴る。
不躾とわかっていても、まるで縫い止められたかのように視線を逸らすことができない。

「……黒崎くん…?」

まるで石化の呪縛にでもかかったような俺の意識を、井上の声が呼び戻す。
はっ…として井上の顔に焦点を合わせれば、眉尻の下がった申し訳なさそうな表情が目に飛び込んだ。

「……ごめんね、バイトや勉強で疲れてるのに…私の我が儘で…」
「あ、や……その、疲れてぼー…っとしてた訳じゃねぇから…」

だから、気にするな……と告げると、さっさと踵を返して歩き出す。
惚けていた理由について突っ込まれないための、それは予防策だった。

からころと鳴る下駄の音で井上との距離を測り、彼女の二歩先という絶妙な距離を保った歩調で駅へと向かう。
暫く間、互いに無言のままで。
いい加減それを気詰まりに感じ始めたころ、不意に頭上から蝉の声が降ってきた。
煩ぇな…と、反射的に顔をしかめた俺の耳に、「ツクツクホウシだ…」と呟く声が届く。
足を止め、顔半分だけ背後を振り返れば、にこり…と花が綻ぶように井上が微笑んだ。

「いつまでこんな暑さが続くのかな…って思ってたけど、ちゃんと、秋に向かってるんだねぇ……。
空の色も、少し薄くなった気がするし」
「……そうだな」

感慨深げな井上の言葉に相槌を打ちながら、彼女の視線を辿るようにして空を見上げる。
井上の言うとおり、ほんの少し前まで深い蒼色をしていた筈の空が、どこか薄らぼんやりとした青色に変わっていた。

「あ…ごめんなさい! こんなところで立ち止まってたら、電車に乗り遅れちゃうよね」

その言葉に再度井上へと視線を戻せば、ちろり…と小さく舌を出しながら、軽く肩を竦めて苦笑してみせる。
そして、「行こ、黒崎君!」と俺に声をかけつつ一歩踏み出したところで、井上はものの見事に小石に蹴躓づき、悲鳴を上げながら大きく体勢を崩した。

「……………あ、ぶね…!」

咄嗟に腕を伸ばし、井上の二の腕を掴んで、傾いだ身体を引きあげる。

「…ったく、転けやすいのは、相変わらずだな」
「ご、ごごごごめんなさいっ…!」

わたわたと慌てながら謝る井上の様子に、ちいさな溜息をひとつ吐いて。
腕を掴んでいた手をそっと離すと、できるだけさりげなく、彼女の左の手を取った。
びくり…と井上の肩が派手に跳ね上がったことには気づかぬ振りをして、「…ほら、行くぞ」と声をかけて歩き出す。

「く、くくくくくろくろくろさき、くん…っ?!」
「……何だ?」
「手っ、手っ…手、が…?! そのっ…」

恐らくは真っ赤になって狼狽えているであろう井上の顔を振り返らないまま、俺は一言短く「保険」と応えた。

「……ほ、保険…?」
「転倒防止の、だ。地元最寄り駅にも着かないうちに転んで怪我でもしたら、洒落にならねぇだろ」
「………ぅ……」

声を詰まらせてた井上が、俺の隣で、肩を落として項垂れる。

「……安心しろ、照れくせぇのは俺も同じだから」

相変わらず正面を向いたままで、ぼそり…と俺が呟けば、井上が顔を上げると同時に、大きく息を呑む気配がした。

「黒崎君……耳、真っ赤………」
「……そういうことは、いちいち口に出さなくていい!」

憮然とする俺に対し、くすくすと笑い出す井上。
俺は不機嫌そうに一層眉間の皺を深めてみせたが、手を離すことはしなかった。
本当はどれほど心浮かれて、鼓動を高鳴らせているか…なんてことを彼女に悟られない為には、仏頂面を引っ下げているくらいが丁度良い。

「あ……見て見て、黒崎君! 秋茜があんなに沢山…!!」

通りすがった小学校のグラウンド、かなりの低空で飛び交う蜻蛉達の姿に、井上が再び歓声をあげた。
そうだな…と、先刻同様に素っ気ない相槌をうつ俺の胸の内に、なんとも形容しがたい温もりと切なさとが染み渡っていく。


………ほら、一護! 秋茜の群だよ…!!


脳裏に蘇るのは、在りし日のお袋の声と姿。
それを引き金に、濁流のように胸の内に押し寄せてきたのは、子供時代の幸福な記憶たち。

「……っ、?!」

不意に地面がぐにゃり…と歪んだような錯覚を起こした。

「あの子たちも、秋の気配を感じて山から降りて来たのかな…? 綺麗な紅色になったねぇ…」

その声を聞いた途端、足裏に戻るアスファルトの感触。
無意識に止めていた呼吸が楽になったことを感じながら、俺はひそり…と息を吐き出した。

そう…いつだって、こうなんだ。
井上が俺に向けてくける、花のような笑顔と、優しい声……それが、哀しみの海に沈みかける心を掬いあげてくれる。
此処に居ていいのだ…と、赦してくれる。
そして。
世界はこんなにも色鮮やかで命に満ちあふれた優しい場所なのだと、教えてくれるんだ……。

「あ…婚礼飛行…! 新婚旅行の行き先は、どこかなぁ……やっぱり、小野瀬川かなぁ…」

橙色に染まる街並みに、過去を視て。
右手から伝わる温もりに、いつかの未来を夢に見る。
そんな時の狭間を歩く俺の髪を揺らしながら、秋の気配を含んだ風が吹き抜けていった。








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