麦雨三景



【第三景:一護】





竜貴から夜遅い時間にメッセージが届いたのは、お袋の命日から2日後のこと。
そこには、井上からお袋の墓の所在について尋ねられたこと、明日は日中に、明後日は夕方遅くに、井上のバイトのシフトが組まれていることが書いてあった。

一見脈絡のなさそうな二つの情報に、首を傾げて。
呼吸10回分ほどの時間が過ぎた頃に、ようやく意味するところを悟った俺は、慌てて竜貴に電話をかけてみた。
しかしながら、耳に流れ込むのは、電源が入っていないというメッセージのみ。
返信も打ってはみたが、日付が変わるまで待っても、既読になることは無かった。

浅い眠りと覚醒を繰り返して朝を迎え、起き抜け1番に確認したメッセージはやっぱり未読のまま。
電話も相変わらず、繋がらない。

妹たちと一緒に父の日のプレゼントを選びに行っている間も、帰宅後も、ずっと悶々とし続けて。
またもや浅い眠りと覚醒を朝まで繰り返した俺は、若干ふらつく頭を抱えながら身支度を整え、階下に降りた。

既に起きて家事をしていた遊子に、ちょっと出かけてくると伝えて。
父の日なんだから、夕飯までには絶対に帰ってきて…と念押しする声に、顔半分振り返って頷きながら、玄関を出る。

見上げた空は隅々まで鈍色の雲に覆われて、銀針のような雨がアスファルトを静かに叩いている。
ひとつ息を吐き出すと、傘を広げ、軒下の向こうに足を踏み出した。


駅の改札前には、井上のバイト先とはまた別のパン屋が、早朝から営業している。
全国チェーンのその店にはイートインもあって、外からは見えづらく、でも中からは改札付近がよく見える位置に、席を取った。

果たして二杯目のコーヒーが空になる頃、見慣れた胡桃色の頭髪が店の前を通り過ぎて。
霊圧感知が得意な彼女の姿が改札の中に入るのを、
、無意味と知りつつ息を潜めて待つ。
そのあとすぐに俺も店を出て、改札の中へと駆け込み、井上が降りて行ったのとは逆の向きの階段を降りた。

ちょうどホームに滑り込んできた電車に、遠目に胡桃色の髪が吸い込まれるのを確認しながら、俺もまた目の前の車両に乗り込む。
更に念のため…と最端の車両に移動しながら、我ながら何をやっているのか——と、重いため息を吐いた。
こんなのまるでストーカーだろ…と自嘲するも、引き返す気にもなれない。
悶々と思い悩み、眠りの浅い夜がこの先も続くくらいなら、いっそ見届けるほうがマシだ。

目的の駅で、これまた扉の閉まるギリギリまで待って、ホームへと降りる。
駅を降りたのは俺と井上を含めても10人程度で、紛れようがない。
念のために——と被ってきた帽子を一層目深に引き下げながら、なるべくゆっくりと改札へと向かった。

誤算だったのは、駅を出てすぐに花屋があったのを失念していたことだ。
かなり距離をとったつもりだったのに、店先に佇む姿を目にして、慌てて柱の影に隠れた。
50代くらいの女性が不審そうにチラチラと俺を横目に見ながら、改札の中へと入っていく。

困ったな…と柱の影からそっと顔を出したところで、1時間に2本くらいしか走っていないバスが、ロータリーに滑り込むのが見えた。
花屋へと視線を転じれば、ちょうど井上は花束を抱えて店内へ入ろうとしている。
俺は急いで柱の影から駆け出ると、バスへと乗り込んだ。
徒歩で行くのと同じくらいの時間をバスに乗れば、高台にある墓地の、反対側にある登り口へと辿り着く。
行き先がわかっているのだから、井上の後ろをこそこそ追っていくよりも、むしろ見つかるリスクは低いだろう……そう考えながら、窓の外へと視線を向ける。
バスが動き出した頃、花屋の店先では、ちょうど井上が傘を広げているところだった。


バスを降り、目の前の緩い坂を登っていく。
いつもの寺の門から入る道と違って、丘の下から霊園までを回り込むように続くその道は、視界が広く開けて街並が一望できる。
晴れていればそこそこ眺めも良いのだろうが、今は雨だ。
まるでモノクロの古い映画でも見ているようで、気が晴れるどころか陰鬱な気分になってくる。

「何も、こんな日に来なくても…」

脳裏に井上の顔を思い浮かべながら独りごちたが、お袋とはなんの縁もない井上にとっては、思い立ったその日以外、他の日を選びようもないのだろう。
ただ、墓参りの理由にだけは、なんとなく想像がついた。
井上の性格やこれまでの言動を考えれば…至る結論など、ほぼ一つしかない。

おそらく彼女は、お袋に謝罪しに来たのだ。
去年、俺に大怪我させたとか、危険な目に遭わせただとか……例えば、そんなことについて。  

「井上が謝る必要なんて、無ぇのにな…」

井上の兄貴のことも、藍染がらみのあれこれも、井上自身には本来、なんの罪科もない。
寧ろ巻き込んだのは俺の方で、彼女は全面的に被害者だと思うのだが、井上はまるで真逆のように考えて、自分を責めている。
六花の力で、俺の霊力を取り戻すことができなかったことも含めて……。

そんなことをつらつらと考えているうちに、霊園にたどり着いた。
反対の入り口方面へと視線を向ければ、観音像の後ろあたりで傘が揺れるのが見えて、俺は咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。

お袋の墓は、今俺のいる場所よりもずっと井上寄りで。
だからここでじっとしていれば、多分気づかれることはない。

……に、しても。

今の俺は、はたから見たらさぞかし間抜けな姿だろう。
加えて、次第に下肢が痺れだしたことに、ごく小さく舌打ちをした。
死神の力失ってからも、運動部の助っ人やら何やらで体を鍛え続けてはいるが、この体勢を維持し続けることで足首や脹脛にかかる自重は、それなりにキツい。

やがて。
かすかに聞こえていた砂利を踏む音が途絶え、ビニール特有のガサつく音にとって変わる。
それもすぐに絶えて、しばしの空白ののち、雨音に混じってソプラノの声が耳に届いた。

——井上の、声だ。

いつもよりも少し柔らかさを欠いたように感じるそれが紡ぐ言葉は、しかしながら、俺にはほとんど聞き取れなかった。
そもそもが「誰か」に聞かせる意図のないものだろうし、俺の側の環境も最悪だった。
傘を叩く雨の音に加えて、しゃがみ込んでいるが故に、地面に落ちる雨音をも、俺の鼓膜は漏れなく拾い上げてしまうのだ。
しかも、傘が音響ドームのような効果を生むという、余計なオマケまでついて。

それでも……。
幾度か繰り返された俺の名と「ごめんなさい」だけは、どうにか聞き分けることができて。
ああ、やっぱりか——と、唇を噛み締める。

そんな十字架を、背負わせたかったのではないのに。
そんなことのために、俺は戦って…そして、力を失ったわけではないのに……。






そろそろ無理のある姿勢に限界を感じ始めた頃、再び砂利を踏みしめる音が聞こえ、それは次第に遠ざかって行った。
そろり…と墓石の隙間から様子を窺えば、井上は未だ観音像の前にいて、傘を畳みながら空を見上げている。

そう言えば、いつの間にか雨音がしなくなっていた。
それに気づかないほど、自分の思考に沈みすぎていたらしい。

やがて井上は霊園から出て行き、それから更に3分ほど足の痛みに耐えてから、俺はようやく立ち上がった。
傘を畳み、鈍く痺れる重い足を引き摺るようにして、お袋の墓の前へと移動する。

墓には17日に俺たちが供えた花の他に、真新しい百合の花が挿されていた。
きっと、井上が供えてくれたのだろう。

「……ありがとな」

口の端に、自然と笑みが浮かんだ。
優しい、井上。
それ故に、抱える必要のない罪の意識を抱えて。
雨の中、こんなところまでやってきて……。
ホント…人が好いにも程があるだろ。

「お袋……井上が何を謝って行ったのか知らねぇけど…まぁ、大方予想はつくけどよ……とにかく、頼むから真に受けてくれるなよ?」

苦笑を浮かべつつ、墓石に向かって話しかける。

「決めたのは、全部俺なんだ。
井上の兄貴を還してやりたいと思ったのも、虚圏に
井上を助けに行ったのも、藍染を討つために死神の力のありったけを賭けたのも……。
全部、俺が選んで決めたことだ。
誰に強制されたわけでも、ましてや井上に何か非があったからじゃ無ぇ」

ひと息に言い切って、は…と浅く息をつく。

「後悔も、してねぇよ?
ただ……とうしようもなく、遣る瀬無さが募っていくんだ。
俺はもう、井上を護ってやれねぇから。
やっと…やっと見つけたと……そう、思ったんだけどな」

笑おうとして、失敗して。
俯いて、唇を噛む。

「……なぁ、お袋。
俺がもう一度、死神の力を欲しいと願っているんだって言ったら…嗤うか?
つい一年ちょっと前まで、いつだってそっちに連れて行ってくれていい…なんて、墓参りのたびに頼んでたくせによ」

そう——親父たち前で、それを口に出したことはないけれど。
いつ死んでもいいという投げやりな気持ちは、常に心の片隅に潜んでいた。
お袋を死なせた俺が、家族から太陽を奪った俺が、生き続けて良い意味がわからなかったから。
だけど……。

今は、違う。

「井上には、力が残ってる。
俺と関わったせいで、持っちまった力が……。
どうやら凄ぇ珍しい能力らしいから、この先また、どこの誰に狙われるとも限らねぇ。
なのに——元凶の俺が、こんな体たらくじゃ…」

無意識に握りしめた拳が、力の入れ過ぎでぶるりと震える。
喉元に熱い塊が迫り上がってくるのを必死に抑えながら、俺は声を絞り出すようにして呟いた。

「俺、もう……誰も何も、失くしたくねぇんだよ……!」








ぽつ……と。
帽子の鍔に、何かが当たる音がして。
見上げれば空からは、再び雨粒が落ち始めていた。

「あのまま、晴れるかと思ったのに。やっぱ、梅雨だな」

ぼやきながら、傘を広げ直す。
墓に背を向けながら、ふ…と、少し前に見送った井上の後ろ姿が脳裏に蘇った。

「降られないうちに、駅に着けたかな……」

そのくらいの加護は、あって然るべきだろう?——と。
帰り際、井上が花と祈りとを捧げていた観音像を見上げてつぶやいた。













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