麦雨三景



【第二景:織姫】





梅雨だから仕方ないとは言え、生憎の雨天だった。
在住市内ながら初めて降り立つ駅、その改札の向こうの見知らぬ街並みは、細い針のような雨にけぶり、曖昧な輪郭を灰色の世界に浮かび上がらせている。

駅を出て少し歩くと、小さな花屋があった。
場所柄のせいか、地元の駅前の花屋に比べて、圧倒的に仏花が多い。
予め束に纏められ、値段別に分けて店先に並んでいる中から、お財布の中身と、遺影から受けた故人の印象とを照らし合わせて、1束を選び出す。
開けたままのサッシ戸を潜り、奥から出てきたエプロン姿の中年女性に会計をお願いしながら、白百合を2本追加してくれるよう頼んだ。 
遺影でしか、知らないけれど。
真っ直ぐに伸びる茎と、華やかさと凛々しさを併せ持つその花が、とても似合う人だと思ったから。


「……気に入ってくださると、良いのだけれど…」


片腕に花束を抱え、片手に傘をさして、急な上り坂を登っていく。
一歩一歩、踏みしめるように。
気温は肌寒いくらいなのに、額や背には、うっすらと汗が滲みはじめていた。
この時期特有の不快さに、つい足を止めて顔を顰めたものの、両手が塞がっていては、拭うことも叶わない。

ひとつため息を吐いて、再び坂を登り出す。
お彼岸やお盆とは遠いこの日、しかも悪天候の中、霊園を目指す人影は自分以外には見当たらない。
少々見てくれが悪くなったり汗臭くなったところで、さほど問題はないだろう。
バイト前にシャワーを浴びる時間も計算して、家を出る時間を決めたのだし。


やがて坂を登り切った先、今度は見上げる高さに続く石段を登りきって、ようやく霊園へと足を踏み入れた。
たつきちゃんも、流石にお墓の位置までは知らなかったから、端から一つずつ、墓石に掘られた名前を確認していく。

「あった……」

供えられている花が未だ新しいから、多分間違いないだろう。
念のために墓誌を確認すれば、やはりそこには「真咲」と言う名が彫り込まれていた。

肩と頬とで傘の柄を挟み、両手を使って花束をほぐす。
黒崎君とご家族の供えたお花のほとんどが未だ綺麗で元気だったから、私が持ってきたものからは、百合の花と菊とを一輪ずつ挿すのが精一杯だったのだ。
活け切らなかった花は、途中で前を通り過ぎた観音様や、お地蔵様にお供えしていこう…そんなことを考えながら、花を簡単にまとめ直し、墓石へと向き直る。

曲げた腕の内側に花束と傘を押さえ込みながら、どうにかこうにか、手を合わせて目を閉じた。

「……初めまして。黒崎君の同級生の、井上織姫と言います。
今日は突然押しかけてきて、申し訳ありません」

かける挨拶の言葉に、当然ながら返事はない。
私はゆっくりと目を開けると、手に傘を持ち直した。

「……今日は、謝りに来たんです。
これまでのことと…これから先のことについて……」

一度目を閉じ、そして開く。

「去年…黒崎君は何度も死にそうな目に遭いました。
そのうちのいくつかは、私を助けるために…です」

ごめんなさい——と。
そこだけ無意識に、声量が落ちた。
視線もまた、足下へと落ちる。

黒崎君のお母さんは、黒崎君を庇って亡くなったのだと聞いた。
自分の命を投げ出してまで、救った子供
その命を、何度も死の危険に晒した私……。


——恨まれて、いるだろうか?


きゅっと、下唇を噛む。
だとしたら、更に罪を重ねようとしている私は、一体どうすれば……。

重く沈みかけた思考を払い除けるように、頭を振る。
今更、だ。
だってそれはもう、2ヶ月も前から既に始まっている筈だ。
私が朽木さんに、相談を持ちかけたのだから。
薄紅色の花びらが舞い散る、その下で。
そして、朽木さんは約束してくれた。
黒崎君の力を、必ず取り戻させてみせる……と。


「……黒崎君が力を失ったこと…もし、ホッとしていたならごめんなさい。
子を、戦場に送り出して喜ぶ母親なんて、居ないですものね。
でも——私はもう、今の黒崎君を見ていられないんです」

霊が見えなくなって、清々した…そう言いながら、痛みを堪えるように笑う、寂しげな横顔も。
花の飾られた道の端で、誰かを、何かを探すように首を廻らす後ろ姿も。
時折虚空を見つめ、耳を澄まして…やがて視線を下げながら、ため息を吐く——そのときの、落ちて丸まった肩のラインも。

「ごめんなさい……」

黒い御影石の墓石の表面を、雨水が覆うように流れていく。
まるで、子を想って泣く母の頬を濡らす、涙のように。

「代わりに…約束します。
この先、黒崎君がどんなに大きな怪我しても、きっと私が治します。
たとえそれがどんなにか、絶望的なものだったとしても…絶対に……!」


そう——例えば、その代償として。
この命を、引き換えることになったとしても……。










最後にもう一度、墓石に向かって手を合わせて。
踵を返して、霊園の門へと向かって歩き出す。
途中、霊園全体を見守るように立つ観音様にお花を供えようとして、ふと、傘要らずなくらいに雨が弱まっていることに気がついた。

傘を閉じ、空を仰ぐ。
遠くの雲間から伸びるのは、いく筋もの天使の梯子。

観音様の顔へと視線を向ければ、来てすぐ目にした時よりも、微笑みが深くなっているように見えて……。
それは遺影の中のかの人に、ほんの少しだけ似ている気がした。







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