佐保姫



ゆっくりと、階段を昇ってくる足音。
あれは、一兄のものだ。

私の部屋の前で、足音は止まって。
小さく二回、ノックの音。

「夏梨………?」
一兄の、声。

私がベッドにうつ伏せになったまま、返事をしないでいると。

「入るぞ……」

かちゃりとドアが開いて、一兄が入ってくる気配を感じた。
それでも私は動かない。
顔すら上げずに、ベッドに伏したままで。

一兄はゆっくりベッドに近づいてくると、その端に腰掛けながら
「どうした?」
くしゃり…と、私の頭を撫でた。

「井上が、心配してたぞ……? 何か気に障ることをしてしまったんじゃないか………って」
「…………………じゃ………い…の」
「え?」
「……織姫さんが、どうのって訳じゃないの」

顔を枕に埋めたまま、私は答えて。

「ただね……同じ事するから………お母さんと」
「お袋と?」
「そう……。同じことして……同じ事言って……。
同じように笑うから………だから」

ちょっと、思い出しちゃって……さ。

そう呟いた私の頭を、「そうか」と言いながら、一兄はもう一度撫でる。

その、大きな優しい手のひらの下で。
「ホントに……参っちゃったよ、もう……………」
苦笑する私の脳裏に、朧気に浮かぶ風景は。





春の野原。
一面のしろつめ草と、風に揺れるタンポポの花と綿毛。

母と遊子と、散歩がてらに遊びに来て。
遊子と母は、しろつめ草で花冠を作りはじめ。
私はひたすら、タンポポの綿毛を吹き飛ばす。

やがて母が遊子を呼び、花冠を被せ。
遊子はお姫様みたいとはしゃぎ回り。
その遊子を優しく見つめていた母が、私を振り返る。

夏梨、あなたの分もあるのよ……と。

でも…そのころの私は、既に。
髪に花を飾っても、遊子のように可愛くはなれないとわかっていて。

いらない。
似合わないもん。

そう言って首を横に振る私に、母が笑う。

お花の似合わない女の子なんて、いないのよ……と。

そして。
小さな花束を作ると、私の胸のポケットに挿して。

ほぅら夏梨、お花の勲章よ……。
とってもよく似合うわ……。





……あれは、母が亡くなる少し前のこと。
母と過ごした、最後の春の日の。
大切な……大切な………記憶。

だけど。
想い出すと辛くなるから。
辛くて、哀しくて、寂しくて……。
どうしても、泣いてしまうから。
敢えて、想い出さないようにして。

そうしたら…いつの間にか、本当に忘れてしまっていた。

その大切な想い出を。
今、私は取り戻した。

そこには、辛さも、哀しみも、寂しさも伴うことなく。
ただただ、暖かく優しい気持ちだけが溢れ出て……。


そんな風に、幸せな気持ちで母を想い出すことが出来たのは……きっと、あの人のお陰。

母によく似た空気を纏う、胡桃色した髪をした……。
優しい優しい、春の日差しのような、あのひとの……。







「ねぇ、一兄……」
「……ん?」
「ずっと、さ……。解けない氷…みたいのが、あったんだ。心の中に」
「………うん」
「なんかさ…さっき泣いたら……一緒に解けちゃったみたい」
「そうか……良かったな………」
「ん……」

くしゃくしゃ……。
一兄が、私の髪を撫でる。

「一兄……織姫さん…てさ……」


春の女神、みたいな人だね。


そう、呟いたら。

一兄は「そうか?」と言った後。
実の妹に真顔で恋人をほめられたことが、照れくさかったのか
「まぁ、確かに、あいつの頭ん中には常春なところがあるからなぁ」
なんて言うもんだから。

ぽかっ。
拳骨を一発、お見舞いして。

「…ってーな、何すんだ夏梨!」
「許さないよ」

ゆっくり、身を起こして。
「私のお義姉さんを悪く言う奴は……」
一兄を見据え、にっと口の端をつり上げる。
「たとえ一兄だって、許さないんだからね!」

一兄は、ぽかんとした顔で私を見た後。
軽く吹き出し、くつくつと声を立てずに笑い始めた。
「まったく……あいつも…よくまぁここまで、お前らに好かれたもんだ」

肩を揺らし続ける、一兄に。
私もつられて笑い出す。


ねぇ、一兄……?
本当に、よかったね。
織姫さんと、出逢えて。
織姫さんと、恋が出来て。
織姫さんが、この家に来てくれることになって。




本当に、本当に、よかったね………。









一兄は一度部屋から出て、冷たい水で濡らしたタオルを持ってきてくれた。

「これで瞼冷やしてとけ。
腫れぼったいままで降りてくると、みんな心配するから。
掃除も済んだし、夕飯になるまで休んでろよ」

その言葉に甘えて、しばらくベッドに寝転び続けて。
どのくらい経っただろうか……。
ふと、階下から漂ってきた臭いに顔をしかめた。

部屋のドアを開けると、ますます強まるその臭い。
それは……なんつーか、こう……恐ろしく和洋中折衷で。

階下に降り、キッチンのドアを開けると。
ガスコンロ周りで、一兄と織姫さんと遊子が頭をつきあわせて、なにやら騒いでいた。

「いや、美味しいよ? 美味しいけど、さ……」
「だって、黒崎君はざるがいいって言って、夏梨ちゃんはかけがいいって言って、遊子ちゃんはカレーが好きだって言うし、おじさまは『たまにはラーメンで年越し…なんてのもいいねぇ』って仰るし」
「だからって、それぞれに全部作ることないだろうよ」
「だって……」


大晦日にみたいな日に、我慢とか諦めるとかって、したくないし、させたくないんだもの。


にっこり笑う織姫さんの向こう側に。
私は再び、在りし日の母の姿を透かし見る。





あの時は年越し蕎麦じゃなくて、クリスマスケーキだったけど。

一兄はチョコが良いって言って。
遊子は生クリームが良いって言って。
私はアイスのが良いって言ったら。

イブの日、食卓には全種類のケーキが並んでた。

あきれ顔の親父に向かって、母は笑って言ったのだ。
『折角のクリスマスに、我慢なんてさせたくないの……』





思わず綻ぶ、私の口元。
ああ…本当に。
なんて素敵な人が、家族になるんだろう……。


母が逝ってから。
私たち家族はみんな、それぞれの心の中に、解けない氷を抱えて生きてきた。
年月が経って、母の居た頃のように笑えるようになっても、それは心の片隅に残り続けて、解けることはなかった。

だけど……。

一兄と織姫さんが、出逢って。
いつのまにか、がっちがちに凍ってた一兄の心が解けて。

遊子も親父も、そして私も。
春の陽射しのような織姫さんに、すっかり魅せられて。

気がついたら……氷は、どこかに消えてた。



そう……まさしく織姫さんは。
我が家にとっての、佐保姫様だったんだ……。





「あ、夏梨ちゃん!」
遊子が私に気がついて、声を上げる。
振り返った一兄と織姫さんが、私に微笑みかける。

「丁度よかった! そろそろお食事にするの。
手を洗ってきて配膳を手伝ってくれるかな?」

織姫さんの言葉に頷いて、私は洗面所へと向かう。

扉を開けると、バケツのロウバイが目に入って。
ふと思い立って、私は携帯電話を取り出した。

ウェブを起動させて、入力を始めると……。

「何やってんの、お前」
後ろから、一兄の声。

「うん、ちょっとね……調べ物」
「ふぅん……?」
操作を続ける私の横をすり抜けて、一兄が先に手を洗い始める。

私はピッとボタンを押して……画面に表示された結果に、思わず笑みを浮かべる。

「何、にやけてんだよ」
「……一兄、これ見て?」

私は手にしていた携帯電話を差し出した。
怪訝そうな顔をしながらも受け取った一兄が、画面を見て軽く目を見開く。

「ロウバイの花言葉、調べてみたの」
私はくすりと笑って。

「なんか……まんま、織姫さん…って感じだよね?」

検索の結果、表示された文字は。

『慈愛』
『優しい心』


一兄が「そうだな」と言いながら、優しく目を細める。

あーあ、鼻の下のばしちゃって。

私は軽く、肩をすくめて。
それから……。

「一兄……?」
「んぁ?」
「おめでとうございます。末永くお幸せに……ね?」
「……なんだ、いきなり」
「ん……ちょっとね。言いたくなったの、今……」

一兄は「そうか」と言って苦笑気味に笑うと、「ありがと、な?」と、私の頭をぽんぽんっと軽く叩いた。

その時、キッチンの方から
「ちょっとーっ、たかだか手を洗うのに、一体何分かかってんのよぉっ」
という遊子の声。

「おぅ、悪ぃっ!」
「ごめーん、今行く!」

それぞれ返事をして、それから。
私と一兄は、顔を見合わせて笑った。

「さっさと手ぇ洗ってこいよ。遊子怒らすと面倒だ」
「わかってる! すぐ行くよ!!」

コックを、勢いよくひねる。

手を洗いながら…ふと、鏡前にあったコップに挿されたロウバイの小枝に目を留めた。

……髪はともかく、帯に挟むくらいはしてみるか。

そんなことを考えて。

水を止める。
手をよく拭いてから、キッチンへと折り返す。
丁度そのとき、お鍋を抱えた織姫さんが出てきて。
「夏梨ちゃんは、ビール持ってきてくれるかな?」
「了解!」
にっこり笑って踵を返した、そのたおやかな後ろ姿をしばし見送って。



ーーーお母さん……?

心の中で、そっと亡き母に呼びかける。


また、この家に春が来るよ……。
お母さんによく似た、優しい綺麗なお姫様が……。
春を連れて、一兄のお嫁に来るよ………。



「夏梨ちゃーん、早くーーーっ!」
遊子の声に、現実に引き戻されて。
「今、行くよ!」
両腕にビール瓶を抱えて、私は台所を飛び出した。



私の大好きな家族と…。
大好きな、お義姉さんとなる人の元へ………。












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