春夜、花の下にて



side:織姫










「必ず、追いつく」

それ、が。
私の聞いた、あの人の最期の言葉でした。

だけど……。

私たちに追いついたのは、あの人ではなく人狩りの男達で。
薄笑いを浮かべた彼らの、手にした剣から滴る赤い血で、私は全てを察するしかありませんでした。

幼い弟を護るため、泣くことも嘆くこともせず、ただひたすらに気を張り続けて、数日。
思いがけず逃げ出す機会を得た私たちは、これが最後の好機…と、見知らぬ村の見知らぬ森の中へと駆けだしました。

決して、後ろを振り返らないこと。
ただ前だけを見つめて、走ること。

私たち虜囚は、そう誓い合って……。
だから、背後から聞こえる悲鳴も、剣が骨肉を断つ音も徹底的に無視し、涙をこらえ、歯を食いしばりながら、必死に逃げ続けました。
それでも流石に、幼子を連れての逃避行には限界があり、私と弟は人狩りの手に落ちてしまったのです。

髪を引っ張られ、地に転がされ、弟諸共に剣に串刺され……。
だけど、私の心は不思議と穏やかでした。
弟を逃がしきれなかったことについては、悔やんでも悔やみきれなかったけれど、あの人が居る世界に逝けるのだと思えば、死への恐怖は微塵も感じなかったのです。


ああ、それなのに……。


ふと気づけば、私は沼の畔で美しい娘達に囲まれていました。
娘達の背中には、月の光を受けて虹色に輝く翅があって。

「ようこそ、妾の新しい娘…!」

中でも一際美しい顔立ちの、銀梅花の葉で作られた冠を戴いた女性にそう告げられた瞬間、私は絶望で目の前が真っ暗になりました。
私の魂が、輪廻の輪から外れてしまったことを知ったからです。
もう二度と、あの人の魂と寄り添うことなど、叶わぬ身になってしまったのですもの……。





踊ることは、好きでした。
だけど、それを餌に生者の心を虜にし、死に至らしめるという妖精の性に、私はどうしても染まることができませんでした。
女王様には、何度も怒られました。
それでも…無闇に人の命を奪うことなど、私にはどうしても出来ませんでした。
たとえそれが、罪深き者であったとしても。




そうこうしているうちに、十余年ほどの年月が流れて…あの夜、私の目の前にあの子が現れました。
まるで暖炉で燃える火のような、空を橙色に染める夕陽のような、暖かな髪色の男の子。
私には、一目でわかりました。
あの人の、生まれ変わりだと……。


………とても、嬉しかった。
そして、とてもとても哀しかった。

「必ず、追いつく」

その約束を果たそうと、神様の御元でろくに休むこともせず、あの人は生まれ変わってきてくれたのに。
私は…私の魂は既に、彼と手を繋いでお日様の下を歩く資格を失ってしまっていたのですから。


私に出来たのは、その子供の命を救うことだけでした。
たった、それだけのことでした。


それでも……。
この夜の出来事は、私の心の片隅で点る、希望の灯りとなったのです。
彼の新たな人生に、幸多かれ……と。
夜毎、月に星に祈り続けることは、私の心を人のそれへと留めると共に、大きな安らぎをもたらすものとなりました。
そうやって、何年、何百年…と時を過ごしていくのだと思っていました。




まさか大人になったあの子が、再び夜の森に訪れてくるだなどと、どうして想像できたでしょう……?





あいしている……。

そうあの人の唇が動いたとき、私の心は不謹慎にも喜びに激しくうち震えました。
身勝手な考えではありますが、この一言を私に告げるために、この人は生まれ変わってきてくれたのだ、今宵この場に来てくれたのだ…と、とても強く感じたのです。
生前、口下手で照れ屋で不器用なあの人の口からは、決して聞くことの無かった言葉。
それを耳にしたとき、私は静かに覚悟を決めました。
彼の魂を解放することは、きっと私にしか出来ないのだ……と。



もう、私に囚われないで。
次の人生こそ、どうか自由に……。



重なった唇が、温かくて。
不器用なその触れ方が、泣きたくなるほど懐かしくて。
ただうっとりと、接吻に酔いしれて。

……あいしています。

あなたをだけを、永遠に。
いつかこの身が、灰となって消える日が来たとしても……。
そう、彼の魂に誓った直後のことでした。

彼から口移しに、何かを与えられて。
その途端に全身を襲った激痛に、私は何も考えられなくなりました。






次に意識を取り戻したとき、私はとても明るい場所に立っていました。
背に当たる感触は、大樹の幹のそれで。
恐る恐る瞼を持ち上げ、視線を上へと向ければ、視界に広がるのは枝いっぱいに咲いた林檎の花。
白い花と緑の葉の隙間からは、木漏れ日がちらちらと揺れ、真っ青な空が覗いています。


……ああ、帰ってきたんだわ。


村はずれにあるこの樹の下で、私はあの人とよく待ち合わせをしたものです。
春には共に、花を愛でて。
夏には葉の陰で、涼をとって。
秋には、紅く色づいた実をもいで。
そして…長くて寒い冬を越えたその先に、私はあの人の元へと嫁ぐ筈でした。
白いドレスを身にまとい、花模様のレースで出来たヴェールを被って……。





かさ…と。
靴が若草を踏む音に、意識を引き戻されて。
樹の幹から身を起こし、ゆっくりと背後を振り返って……。

私は思わず、大きく目を見開きました。

風に靡く、夕焼け色の髪
前髪から覗く、大地の色をした瞳。
そこにあったのは紛れもなく、愛しいあの人の姿でした。



「次こそ、もっと強くなる。強くなって、きっとお前を護り通すから……」



抱きしめられた腕の中、優しい声が耳元でささやく。
……ああ、あなた。
ならば私も、もう一度あなたに誓い直しましょう。

この先、どんな世界にどんな姿で生まれても。
私は必ず、あなたを見つけだす。
きっと、あなたに恋をする。

そして……。
私もまた、全身全霊を賭けて、あなたを護っていくでしょう。

頬を撫でる、風のように、
心を和ます、野辺の花のように。
静かな眠りをもたらす、深夜の雪のように。

いつでも、どんなときでも。
あなたの隣を、寄り添い歩きながら……。











8/8ページ
スキ