春夜、花の下にて



「あー…何か、かったりぃなぁ…」

背伸びをしながら、呟けば。
隣を歩いていた啓吾が、心底驚いた様子で俺の顔をのぞき込んできた。

「何でっ?! だって、これからフォークダンスだよ? 女の子達と、合法的に手を繋ぎ放題なんだよ?!」

今、俺たちは、宿泊研修という二泊三日の行事の真っ最中。
二夜目のイベントであるキャンプファイヤ-の会場へと向かうため、宿泊棟の廊下をだらだらと歩いているところだった。

「浅野さん。あんまりがっついた様子みせると、皆からどん引きされちゃいますよ?」
「う…敬語イヤァアアアアッ!」

俺を挟んで交わされる騒々しい会話に、思わずげんなりと溜息を吐いた。
正確には、騒々しいのは啓吾一人だけど。

「絶対ぇにやりたくねぇとまでは言わないけど…正直、面倒臭ぇよ……」

……告りたい相手でも居るなら、まだしも。
何の気無しにそう付け加えれば、くすり…と小さく水色が笑った。

「……何だよ」
「別に。ただ、一護ってちょっと古風なところあるよなぁ…って」

手にした携帯の画面から、ちら…とも視線を上げずに返事をする水色。
その顔を横目に見下ろしながら、俺は軽く舌打ちをした。

「どうせ、見かけによらねぇよ」
「僕、そんなこと言ってないけど」
「………」

気まずく俺が押し黙ったところで、ロビーに到着。
そのままフロント前を横切り、正面玄関から出ようとしたところで、外から駆け込んできた人影がひとつ。
人の流れに逆らいながら、きょろきょろと誰かを探しているらしい様子の同級生は、俺と一日違いで産まれた幼馴染みだった。

「どうした、竜貴!」

俺の声かけに、はっ…としたように振り返って。
ジャージ姿の同級生たちの間を掻い潜りながら近寄ってきた竜貴は、険しい表情で、彼女の親友の姿を見なかったかと尋ねてきた。

「井上? いや、見てねぇけど……。今日は一緒に行動してなかったのか?」
「一緒だったよ。でも、体育館でのレクリエーションの終わり頃に具合が悪くなった子が出て、織姫が付き添って、救護部屋まで連れて行ったの。
私は後片付けの担当だったから、そのまま体育館に残ってて……部屋に戻った時にも姿は無かったし、今、外の集合場所にも居なくて」
「……未だ、救護室なんじゃねぇの?」
「それが…付き添われた当人は、回復してもう戻って来てるの。
その子の話だと、養護の先生に『後は任せて』って言われてすぐに、織姫は部屋を出て行ったらしくて……」

ふぅ…と。
肩を落として、溜息を吐く竜貴。
勝ち気なこいつのこんな姿を目にするのは、かれこれ16年近い付き合いの中でも滅多にない。
ぽやぽや、ふわふわ、天然娘なイメージの井上は、竜貴とはまるで正反対のようだけれど、いや、それだからこそなのか、二人はまるで姉妹のように仲が良いのだ。

「館内で迷子、とか?」
「いや、いくら井上さんでもそれは無いんじゃないかな。ここの建物の造り、そんなに複雑じゃないし」
「でも…それなら何処に居るって言うんだよ?
こっそり抜け出して遊びに行こうにも、一番近い人家まで車で30分もかかる山の中なんだぜ? 実際、見渡す限り樹木ばっかだし…」
「そろそろ、陽も落ちるよね…。五月とは言え流石に山の上だけあって、夜にはかなり気温も下がるし……」

啓吾と水色の会話を聞くともなく聞いていた俺は、ふと脳裏を過ぎった光景に、はっ…として顔を上げた。

「……一護?」

竜貴が訝しげに首を傾げながら、俺を見上げる。
心当たりがある…と告げれば、竜貴のみならず、啓吾と水色の二人も、ぎょっ…としたように俺の顔を凝視した。

「俺…ちょっと行って、見てくるわ」
「ま、待って! あたしも一緒に…っ」
「一度に何人も姿が見えなくなりゃあ、騒ぎになるだろ。
だからお前たちは、俺が井上を連れて戻るまで、先生たちに気づかれないよう上手くやっておいてくれ。
……頼んだぜ?」
「え、あ……ちょっと、一護!!」

竜貴の肩を一つ叩いて、俺は玄関の外へと走り出た。
そのまま、他の生徒たちの向かうキャンプファイヤー会場とは逆の、林へと続く道に足を踏み入れる。

道の端に立つ朽ちかけた木製の標識は、その先に沼があることを示していた。











「………やっぱり、ここかに居たか」
「く、くくくくくくくくろさきくんっ?!」

できるだけ静かに声をかけたつもりだったが、相手は飛び上がらんばかりに驚いた様子で俺を振り返った。
それこそ、目玉が転がり落ちるんじゃねぇか…ってくらいに、大きく目を見開いて。

沼のほとり、白い小さな花を枝いっぱいに咲かせた樹の根本に、膝を抱えて座り込んでいた井上は、あわあわと手を振り回しながら、その場に立ち上がろうとした。
……ところが。
余程長い時間同じ姿勢でいたのだろうか、伸びきらない膝にバランスを崩して倒れそうになるものだから、俺は慌てて手を伸ばし、彼女の二の腕を掴んでその身体を引き上げた。

「……あっ…ぶね…」
「ご、ごめんなさいっ!」

肩を丸めるようにして身を縮こませ、俯く井上。
掴んでいた腕を放してやれば、さっ…と引っ込めて。
ジャージについた土を軽く払い落としたあと、か細い声で「ありがとう」と言いながら、上着の裾を両手でぎゅっ…と掴んだ。
相変わらず俯いたままで表情は見えなかったが、髪から覗く耳が酷く赤い。

俺は小さく溜息を吐くと、短く一言、「戻るぞ」と言った。
そのまま踵を返して、歩き出す。
やがて、とてて…と軽い足音がして、俺の隣に井上が並んだ。
視線を向けぬままに、竜貴が心配して探し回っていたことを告げれば、井上はぐっ…と息を飲みこんで。
一拍ほど間を置いたのち、後悔が色濃く滲んだ深い溜息を吐きだした。

「そんなに長く、居るつもりはなかったの。でも……あんまり綺麗だったから、つい…」

井上のその言葉、に。
俺の脳裏に、今さっき見たばかりの景色が広がっていく。


沼の水面が、夕陽を弾いてきらきらと輝いて。
ゆるく枝を揺らす風に、白い花弁が、はらり…はらり…と宙を舞って……。


それは、ひどく幻想的な光景で。
逢魔刻という時間帯とも相まって、まるで異世界にでも迷い込んだような錯覚を起こさせた。

「それにしても…どうして私が、あそこに居るってわかったの?」
「え? あぁ…! だって井上、開校式の間中ずっと、パンフレットに載ってた沼の写真を見てただろ?
食堂や廊下に飾ってある写真の前なんかでも、よく立ち止まってたし…」
「……………そっかぁ…」

ふふ…と、苦笑混じりに井上が笑う。

「あのね…なんだかね、とっても懐かしい場所のように感じたんだ。
勿論、ここに来るのは初めてだし、似たような場所に行ったことだって無いのに……」

……可笑しいよね?
そう言って、井上はちろり…と舌を出してお道化てみせたけれど。
俺は一言、「別に」としか応えなかった。
出来得る限り淡々と、感情の欠片も籠もらない声で……。







俺も同じだ…とは、言えなかった。
どうしても、言えなかった。







……なぁ、井上?
いつかお前に、伝えられる日はくるのかな。

白い花咲く樹の下に、井上の姿を見つけたときに。
いや……それよりずっと以前、竜貴に「親友だ」と紹介されたあの日から。
大切にし過ぎて仕舞い場所を忘れてしまった宝箱を、ようやく見つけ出せたような。
その箱の中に納められていた硝子細工を、そっと取り出し掌に乗せ、光に透かせてみたような。
そんな不思議な感覚に、心が囚われ続けていることを……。





伝えるためには、始めなければならなくて。
今の俺は、その資格すら持っていないけれど……。















宿泊棟の向こう側から、風に乗って歌声が届いた。
既に、開会式が始まっているのだろう。

「急ごう、井上!」
「あ…は、はいっ!」

井上に声をかけ、藍色に染まった世界へと走り出す。
俺達を待つ、友人たちの笑顔を目指して……。










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