春夜、花の下にて



明るい満月に照らされて、藍色に沈む夜の森。
芽吹いたばかりの柔らかな草の上を、織姫の手を取り、共に踊る。

俺達の周囲では、他の妖精達が大きな輪を作り、美しくも物悲しい旋律をその声で紡ぎながら、軽やかに舞い踊っていた。
長い手足を優雅に動かし、硝子細工のような翅を震わせながら輪舞に興じる…その光景はあまりに美しく、ウィリー達の恐ろしい習性を一瞬どころでなく忘れさせるほどだ。

織姫の顔へと視線を落とせば、他の妖精たち同様に、どこか陶然とした表情を浮かべていた。
やはり彼女もウィリーの一員、踊りを好む本能からは逃れられないのだろう。
勿論織姫とて、最初から素直に俺の申し出を受けてくれたわけではない。
嫌だと言い張り、頑なに首を横に降り続けていた。
それでも……。
女王から妖力を込めた声で俺の相手を命じられれば、僕たる織姫には逆らう術などありはしないのだ。

俺の元へと進み出たとき同様、織姫は今にも泣き出しそうな顔をして、油の切れた機械のようなぎこちない動作で、俺に片手を預けてきた。
その手を優しく握り返し、細い腰を引き寄せながら、俺は彼女に請い願った。
俺のためを思うのなら、どうか笑顔を見せて欲しい……と。

まるで何かを喉に詰まらせたような顔をして俺を見返した織姫は、一度俯き、ただ黙って肩を震わせて。
やがてゆっくりと顔を上げると、ほんのわずかではあったけれど、目尻を下げ、両の口の端を持ち上げてくれた。
その微笑みは、彼女の背にある透明な翅のように脆く儚げで……俺は、まるで心臓を握りつぶされたかのような痛みを胸に覚えた。


……生前の彼女は、青空の下で、どんな風に笑っていたのだろう?


ふと浮かんだ疑問に一層強く募っていくのは、彼女を救いたい…という想い。
しかし俺は、このあといくらも経たずに、自分の見込みの甘さを痛感させられることになった。
わずかな時間踊っただけだというのに、体力の消耗具合があまりにも激しいのだ。

『正直、これほどまでとは…』

今、この瞬間も、織姫に直接触れている俺の掌からは、刻々と生気が抜き取られていくのがわかる。
その勢いたるや、耳を近づけたならば、しゅうしゅう…という音が漏れ聞こえるのではないかと思うほどだ。
幼かったあの夜、織姫は決して俺と手を繋ごうとしなかったけれど…なるほど、これでは年端もいかぬ子供の命などひとたまりもないだろう。
木こりや農夫など、体力にはそれなりに自信があったであろう男たちが、いともあっさりと犠牲になってきたことにも得心がいく。

『……この分だと、戻れそうにないな…』

元より、命を賭する覚悟でここに来た。
とはいえ、家族をむやみに悲しませることなど俺の本意ではない。
だから、目的を果たすと同時に夜明けを迎えられるよう算段して森に踏み込んだつもりだったのだが…それよりずっと早くに、限界は訪れそうだった。

『ごめん、遊子…夏梨に、親父も……』

家族に対し、心の中で詫びを言う。
その次の瞬間、俺は何かに躓いて、大きく体勢を崩した。
さほど巧くもない踊りの最中に気を逸らせてしまったせいなのか、或いは、タールのように全身にまとわりつく疲労のせいなのか……。
どちらにせよ、咄嗟に俺を抱き止めようとした織姫をも巻き添えにして、俺は無様に地面へと転がった。
そして一度倒れてしまえば、もう立ち上がることは出来なかった。

………ここまで、か。

目を閉じて、深く息を吐き出す。
腕も脚も、まるで鉛になったかのように重い。

「一護くんっ…!」

悲痛な声で、名を呼ばれて。
閉じていた瞼をなんとか持ち上げ、のろのろと首を巡らせれば、傍らに膝をついた織姫が涙の溜まった瞳で俺の顔を覗き込んでいた。
どうしよう、どうしよう…と、譫言のようにおろおろと呟いて。
白く華奢な手を俺の頬や肩付近に近づけては、触れる直前になって慌てて引っ込める…という動作を幾度も繰り返す。
俺を抱き起こそうとする彼女本来の優しさと、触れれば更に俺から生気を奪ってしまうという妖魔としての性との間で、織姫は混乱状態になっているようだ。

やがて織姫は「ああ……!」と絶望しきった声を溜息混じりに吐き出すと、手で顔を覆って激しく肩を震わせ始めた。
指の隙間から零れ落ちた幾粒もの透明な滴が、彼女のドレスと地面とを濡らしていく。

その、悲嘆に暮れる織姫の上に、すっ…と黒い影が射す。
いつの間に近寄って来たのだろうか、織姫の背後には女王が立っていた。
相変わらず虫けらを見るような目つきで俺を見下げてはいるが、その瞳には、悪戯を思いついた子供のような光もまた、愉快そうに踊っている。
訝しんで僅かに眉根を寄せた、そのとき。
気味の悪いくらい甘く優しい女王の声が、静まりかえった沼のほとりに響いた。

「織姫……そやつを、お前の接吻であの世へと送っておやり」
「……じょ、女王さま…っ?!」

勢いよく顔を上げた織姫が、涙まみれの顔で呆然と女王を降り仰ぐ。

「出来ません、そんなこと……私には、出来ません!!」
「ならばこれまで同様、その男もまた、沼底へと沈めるだけのことじゃ」
「…っ、?!」

大きく息を飲み、その場に凍り付く織姫。
俺はどうにか指先を動かすと、ドレス越しに彼女の膝頭に触れた。

「一護くんっ…」

慌てて俺を振り返った織姫に向かって、出来うる限るの優しさを込めて微笑んで。
掠れた声を、喉の奥から絞り出す。
どうか、女王の言うとおりにしてくれ…と。

「いち、ご……くん…?!」
「惚れた女との接吻で、逝けるんだ。溺死なんかとは、比べものにならないくらい、幸せな逝き方じゃねぇか」
「…いち…ご、く……」
「……………頼む、織姫」

あいしてる……と、唇の動きだけで伝えれば。
俺の瞳を真っ直ぐに見返すこと数秒、織姫は静かに涙を拭うと、俺の首の下へと彼女の片腕を差し入れた。

織姫の腕に支えられながら、ゆっくりと半身を起こしていく。
そして俺たちの目線の高さがほぼ同じになったところで、まるで磁石が引き合うように、至極自然に唇が重なった。
軽く触れただけで離れていこうとする織姫を、彼女の後頭部に回した手で引き留める。
織姫は一瞬身体を強ばらせたものの、それ以上抗う様子は見せなかった。
温度こそ死者のそれであったけれど、言葉では容易に言い表せぬ甘さと柔らかさをもつ彼女の唇の感触に、しばし酔いしれる。
角度を変えては優しく啄み、ときに柔く押しつけて……そうする間にも、俺の命は彼女へと向かって確実に流れ出していくのがわかったけれど、それと反比例するように、俺の心は幸福感で満たされていった。

この世界でたった一つ、護りたいと願ったもの。
この人を、こそ…と思い定めた愛しい相手との、生涯ただ一度の接吻……。
そこに産まれるのは、どうしたって歓喜と言う名の感情だけだ。

他人からみれば、さぞかし滑稽な眺めだろうとは思う。
生涯唯一の相手が、ウィリーだなんて…と。
何を、莫迦なことを…と、嘲笑する者だって在るだろう。

しかしながら俺は、運命の巡り合わせというものに、思いを馳せずにはいられなかった。
たとえば、織姫が人狩りの凶刃に倒れることなく生き続けていたとして。
20歳近く年齢の違う俺と彼女の人生が重なる可能性など、果たしてあっただろうか……?
織姫が老いることのないウィリーだったからこそ、俺は彼女に追いつけた。
一人の男として、この腕に彼女を抱きしめることが出来た。
これを奇跡と呼ばずに、なんと言えば良いだろう……?



………これでもう、何も思い残すことは無い。



俺は穏やかな幸福感に包まれながら、口の奥、親知らずを抜いた跡に仕込んであった丸薬を強く噛みしめた。
弾力のある表面が破れると同時に、口咥内に清涼な液体があふれ出す。
俺はもう一度、優しく織姫の頭部を押さえつけると、触れあう唇の隙間から、彼女の口咥内へとその液体を流し込んだ。

「………ん…ぅ…?」

微かに声を漏らした織姫の喉が、こくり…と音を立てて俺の与えた液体を飲み下す。
直後、彼女の肩が大きく跳ねた。

「あ……あ…っ、ああああああああっ…!!!」

苦しげな悲鳴を上げながら、まるで弓のように背中を反らす織姫
俺は身体に残った僅かな体力全てを総動員して、彼女の細い肢体を抱きしめた。
丸薬は、俺が浦原さんに頼んで作って貰ったもの。
濃度を高めた聖水を、妖力では関知できない特殊な素材で封じ込めたものだったのだ。


「……ごめん、織姫…ごめん、な…?」

俺の腕の中、激しく痙攣する織姫の身体を抱きしめながら、耳元で謝罪の言葉を繰り返す。
いくら天使のような心を持っていたとて、彼女はウィリー…妖魔の一人だ。
体内に取り込んだ聖水による浄化の力で、人ならぬその身を、内側から灼かれていっているのに違いなかった。
それはどんなか辛く、苦しいことだろうか……。

「許せ……!」

いま一度強く、織姫の身体を抱きしめ直した……その、直後だった。
パシッ…と。
薄い膜や殻のようなものが割れる音が、微かに響いて。
同時に腕の中にあった彼女の質量が、忽然と消え失せた。

ちりちり…と。
まるで雪の降り始めに聞くようなかそけき音に包まれながら、静かに瞼を持ち上げる。
目に映ったのは、玻璃細工のような薄い翅を持つ蝶の群れ。
その数、数百とも数千ともつかない沢山の蝶達は、月光を受けて淡く虹色に輝きながら、螺旋を描くようにして天高く舞い上がっていく。

『あぁ…還せたんだ……』

安堵の溜息を吐きながら、再び地面へと倒れ込む俺の身体。
月を目指して昇っていく蝶たちを見送りながら、俺は自然と瞼が落ちるままに目を閉じた。

「…おのれ、よくもっ……!!」

耳に届いた妖精達の怨嗟の声は、どこか遠くて。
沢山の手によって、身体を乱暴に抱え上げられるのを感じたものの、指先ひとつ動かすことも、目を開けることも億劫で仕方がなかった俺は、一切の抵抗をせずに成すがままになっていた。
やがて、身体を宙に放り投げられる感覚。
そして派手な水音を耳にすると同時に、全身を水に覆われる。
恐らく、沼に投げ落とされたのだろう。

早春の沼の水は、とても冷たくて。
俺の皮膚はぴりっ…とした痺れを感じるが早いか、一瞬で麻痺し、無感覚になった。
不思議と、息苦しさを覚えることは無くて。
沼底へと沈んでいきながら、俺はゆっくりと意識を手放した。





………どのくらい、経ったのだろう。





ふと、冷たい水の中に居る…という感覚が消えたことに気がついた。
そして沼底に向かって下降していた筈なのに、寧ろ、上へ上へ…と優しく押し上げられているような気がして仕方がない。
更に、瞼を閉じて居てさえも感じる周囲の明るさに内心訝しんでいると、ふわり…と右手に誰かの手が重なり、優しくそっと握られた。

「……一護?」

穏やかに響いた懐かしい声に、おそるおそる目を開ける。
視線の先にあったのは、柔らかな笑みを湛えたお袋の姿だった。

「かあ…ちゃ……?!」
「頑張ったね、一護…!」

ただただ絶句し、瞠目するばかりの俺の動揺に、気づいているのかいないのか。
お袋はにこにこと笑ったまま、すい…と片腕を持ち上げた。
そして細く長い人差し指で、彼方の一点を指し示す。

「………さぁ、行っておあげなさい…!」

白い花を満開に咲かせた、林檎の大樹。
その幹に背を預けるようにして、一人の娘が立っていた。
生憎俺の居る場所からは顔を見ることは出来なかったけれど、背に流れる長い髪は、綺麗な綺麗な胡桃色だ。

とくり…とひとつ、鼓動が高鳴る。

お袋に背を押し出されるようにして一歩を踏み出せば、何もなかった筈の足下には、一瞬にして緑の草原が広がった。
頬を撫でる風に、若草が揺れて。
頭上から降り注ぐ陽射しは暖かく、青く晴れ渡った空には小鳥のさえずりが軽やかに響く。

躊躇いながら、それでも一歩一歩大地を踏みしめて。
林檎の樹まで残り10メートルほどに迫ったところで、ふいに娘が俺を振り返った。

二重瞼の下の茶水晶の瞳を持つ目が、大きく見開かれて。
それがゆっくりと細められると同時に、薔薇の花びらのような唇が、優しく上向きに弧を描いていく。

「…一護くん……!」

鈴の音のような声に引き寄せられるようにして、俺は娘へと向かって走り出した。
再び愛しい人に出逢えた喜びに、胸を震わせながら……。













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