春夜、花の下にて



二日後の、深夜。
俺は密かに、牧師館を抜け出した。

もともと、実行するならこの夜に…と決めてはいたが、遊子の夫が帰宅したのは、実に良い偶然だったと思う。
一方で。
親父とは顔を合わすことなく出ていけることにも、俺は酷く安堵していた。

見上げた夜空には、満月。
庭の林檎の樹に咲いた満開の花が、月光を浴びて闇に白く浮かび上がっている。

しばしの間、その美しい樹影を見上げて。
やがて俺は踵を返すと、ゆっくりと夜道を歩き出した。









幼かったあの日のように、大木の陰から沼のほとりの様子をそっと伺う。
背に翅を生やした娘たちは、今宵も夜空の下で歌い、踊り、語らいあっては笑いさざめいていた。

かつてはその美しさに魅了されるばかりだったが、今は違う。
いつまでも若く美しく在り続ける代わりに、この世の理から外れてしまった娘たち。
陽光の下に戻ることの叶わぬ、哀れな魂の群。
俺の心に押し寄せるのは、冷たい透明な水に身を浸すような深く静かな哀しみだ。


……解放して、やれたなら。


しかしながら。
それが禁忌であることは勿論のこと、自身の感傷を由来とした独りよがりな考えであることも、俺にはよくわかっていた。

俺という獲物を見つけた喜びに、爛々と輝いていた妖精達の瞳。
そこには既に、人間としての理性も情も残ってはいなかった。
良くも悪くも、彼女たちは既に、妖魔という闇の存在に成り果ててしまったのだ。

だだ、一人。
織姫と名乗った、あの妖精を除いては……。


あれから二十年近い年月が過ぎたが、俺は不思議と、今でも織姫の心はあの日のままだ…と確信していた。
実際に教会の記録を紐解けば、俺と彼女が出会ったあの夜を起点に前後数十年間に限り、ウィリーの犠牲者は激減している。
俺と出会う前も、その後も……ずっと。
「次はない」と女王に脅されながらも、彼女は己の力の及ぶ範囲で、人々の命を救ってきたのに違いない。

ちなみに、近隣の村々の戸籍や死亡記録を一通り調べてみたが、織姫という名は残っていなかった。
ただ、親父とお袋が村の教会に赴任した直後に、密かに村外れを通過しようとした人狩りの荷馬車から、若い娘や子供達が逃げ出す事件があったらしい。
そして、怒り狂った狩人たちの手によって、哀れにも殺されてしまった一部の犠牲者を、村の共同墓地に葬ったのだという。
その埋葬者の中に、年の頃15~18くらいの娘が居た…との記録が、若き日の親父の筆跡で残っていた。

胡桃色の頭髪…という容姿の記録から、恐らくはこの娘こそ織姫なのだろうと思う。
幼い黒髪の男児(こちらも死亡を確認したとの記載があった)を庇うようにして息絶えていたと添え書きされていたけれど、そんな記述にさえ、哀しいほどに彼女に相違ないことを確信させられる。

本来ならば、誰よりも真っ先に天国に迎えられて良い筈の、心優しい娘。
その魂が、ウィリーの女王の妖力に縛られ、意に添わぬ殺生に荷担しなければならないことに苦しんでいる。

救いたい……。
そう思うことは、祓魔師としては至極当然で。
だけどそれ以上に、それが単なる俺のエゴであることも、充分に自覚していた。

何として、でも。
彼女の魂を、輪廻の輪の中に引き戻したかったのだ……俺、は。

遠い未来の、どこかで。
或いは、こことは違う次元で。
彼女と一緒に、出逢いからそのすべてをやり直したい…と。
そう、望んでしまったから……。





「………居た!」

闇の中、懸命に瞳を凝らして。
湖畔を取り囲む樹の下、最も立派な林檎の樹の下に、ようやく求める姿を見つける。

樹の幹に背を預け、うっとりと満開の白い花を見上げるその横顔は、やはりあの夜のままで。
若く、美しく……そして、どこか哀しげな微笑みを浮かべていた。

とくり…と、高鳴る心臓。
早春の夜風に晒されて冷え切っていた筈の身体が、じわりじわりと熱を持つ。
胸をきゅう…と締め付けてくる痛みはあまりに甘美で、その場違いさ加減の酷さに、思わず自嘲含みの苦笑を漏らしてしまう。

……そう。
出逢ったあの夜からずっと、俺は彼女に恋をしていたんだ。
どうしようもなく惹かれて、苦しいほどに愛しくて。
来世などという不確定な未来のために、今生での俺の全てを賭けようだなどと考えるほどに、は。

「織姫……」

他の誰でもなく、彼女こそが。
俺にとっての、「護るべき、たった一つのもの」なのだ。





「……さて、そろそろ行くか」

軽く目を閉じ、ひとつ深い呼吸をして。
ゆっくりと瞼を持ち上げながら、不適な笑みを口元に刻む。

やがて俺は樹の陰から出ると、ウィリーの群へと向かって、力強く足を踏み出した。














ざわ……と。
俺の気配を察したのか、不穏な空気が妖精達の間を流れた。
俺を振り返り、俺の首から下がった銀の十字架と、手にしていた銀製の弾丸の入った拳銃とを見留めた妖精の口から、悲鳴と金切り声が上がる。

「女王さまっ……! 祓魔師が…っ!!」

ある者はドレスの裾をからげて走り、またある者はその翅を羽ばたかせて宙を滑りながら、彼女達の女王の元へと逃げていく妖精達。
俺はゆっくりと…しかし確実に彼女達との距離を縮めると、銀梅花の冠を戴いた妖精と真正面から向き合った。
流石に女王だけあって、俺の十字架にも銃にも動じた様子は見せず、あの夜と同様に、美しくも酷薄な光を宿した瞳で、俺を見返す。

「……何をしに来た、お若い祓魔師どの」

闇に響いた声は、重く、威厳に満ちていて。
俺がただの村人だったならば、例え男といえども、今頃は腰を抜かしていたかもしれない。

「お前も教会組織に連なる者なれば、妾と教会との盟約のことは知っておろう…?」
「……安心しろ。俺は別に、あんたらを狩りに来たわけじゃねぇ」
「それだけの装備をしておきながら、どの口がそれを言うか!」
「これは、保険だ。本懐を遂げる前に、あんたらは勿論、他の妖魔や妖獣の類に殺れちゃあ意味が無ぇからな」
「………本懐…?」

怪訝そうに、女王がその柳眉を潜める。
俺は軽く頷くと、おもむろに首から下がる十字架を外した。
そして拳銃と一緒に、それらを沼へと向かって思い切りよく放り投げる。

派手な水音が、上がって。
それを合図に俺へと襲いかかろうとした配下の妖精達を制しながら、女王は低めた声を唇の間から押し出した。

「……何が、望みじゃ?」

その、問いかけに。
俺は姿勢を正すと、凛と声を張り上げた。



「織姫と言う名の娘を、今宵一夜、我が妻として、貰い受ける権利を! 対価は、我が命にて!!」



驚愕に満ちたざわめきが、妖精達の間に広がる。
暫くの間、俺の顔をじっと見つめて居た女王は、やがてにたり…と愉快そうにその口の端を吊り上げた。

「……そうか。お前は、あの時の…!」

嘲りを含んだ甲高い女王の笑い声が、夜の森に木霊する。
……やがて。

「織姫を、此処に!」

女王の命じる声に、群の奥から一人の妖精が引っ張り出されて来た。
彼女は手足を突っ張らせながら必死に抵抗しているようだったが、数人がかりで手を引かれ、背を押されては抗いきれるものではない。
ついに織姫は女王の前へと引き出され、倒れ込むようにしてその場に跪く。

「織姫や…今宵一夜、其処な愚かな若者の相手をしておやり。得意の舞踏で、とびきりの夢を見せてやりながら、あの世へと送り出しててやるがいい!」

その、命令に。
しかしながら織姫は、激しく首を横にしつつ「嫌です!」叫んだ。

「私には、出来ません! ああ、女王様…どうか、どうかお許しを……寧ろ…出来ることなら、この方をこのまま、村へ……」
「それは、ならぬ!」

哀願する声を、ぴしゃり…と切り捨てる女王。
その瞳が、赤味を帯びて妖しく煌めいた。

「…っ、?!」

びくんっ…と硬直する、織姫。
その身体が、今度は未熟な操者の動かす操り人形のように、ぎくしゃくと不自然な動きで立ち上がった。
ぐるっ…と。目に見えない強い力で身体を反転させられた織姫の瞳が、真正面から俺を見る。
転がり落ちるのではないかと心配になるほどに大きく見開かれた目の縁には、涙が溢れんばかりにばかりに盛り上がっていた。

「……どう…し、て……?」

歩き始めたばかりの幼児のようなおぼつかない足取りで、俺へと向かって歩いてくる織姫。
目の前まできて、まるでぶつり…と糸を切られたかのように崩れた華奢な身体を、俺は両腕でしっかりと抱き留めた。

「一…護……く…」
「……逢いたかったよ、織姫…ずっとずっと、逢いたかった…!」
「どうして……私、『生きて』って、言ったのに……」
「生きたよ。一生懸命、俺は生きたよ……!! 
悪魔憑きだの何だの言われながらも、学校にだってちゃんと通って……うんと勉強して、祓魔師にもなった。
自分で言うのもなんだけど、俺、結構な腕利きだったんだぜ?」
「………」
「親父と一緒に二人の妹を護り育てて、無事に成人させもした。
一人は職について立派に働いているし、もう一人は牧師に嫁いで、実に見事に教会の運営を切り回しているよ。
だからもう…俺のやるべきことは…俺でないとどうしても出来ないってことは、粗方終わっちまったんだ。
だから、此処に来たんだよ。
今度は、俺の…俺自身の夢を、叶えるために」
「………一護君の、夢…?」

腕の中、ゆっくりと顔を上げた織姫が、前髪の隙間から俺の顔をじっと見つめる。
秀でた額にかかった胡桃色の前髪をそっと指で払い退けながら、俺はちいさく微笑んだ。

「とにかく、先ずは踊らないか…? 俺、一応は練習してきたんだけど…足を踏んだら、ごめんな?」








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