春夜、花の下にて



「一人で、立てるかしら……? 本当は手を貸してあげたいのだけれど、私が坊やに触れると、生気を奪ってしまうから…」

妖精の娘の言葉に、俺は慌ててその場に立ち上がった。
無様に尻餅をつき、ただ震えるばかりだった自分の醜態が今更ながらに恥ずかしくなって、パンパンと意味もなく派手な音を立てながら、服についた泥や落ち葉を払う。

「では、行きましょう。森の出口まで送ってあげるわ、坊や」
「……坊やじゃ、ない!」
「え……?」

幾分強めの口調に、きょとんとして俺を見返す妖精の娘。
本当に今更な話だったが、この妖精に子供扱いされることが、どうにも我慢ならなかったのだ。

「俺…一護って言うんだ」
「いち…ご……君?」
「そう。ひとつを護る…って書いて、一護」
「………素敵な、お名前ね!」

再び、ふうわり…と優しく娘が笑う。
俺は急速に顔に熱が集まるのを感じながら踵を返すと、急いで先刻まで身を潜めていた大木のところまで駆け戻った。
そして地面に置いたままだったカンテラを取り上げながら、娘を振り返る。

「……俺が、前を歩く。俺、男なんだし…」

眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうにそう言えば。
妖精の娘は一段と微笑みを深くして、こっくり…と首を前に振った。

「よろしくお願いね、ちいさな騎士さん!」
「……ちいさいは、余計だ」

ふてくされ気味に呟いて、足下の小石を蹴り上げる。
幼いからこそ救われた命だというのに、このときの俺は、自分が子供であることを酷く不満に感じていたのだった。








牧師であり、祓魔師でもある親父のこと。
双子の、妹たちのこと。
好きな教科や、食べ物のこと。
そして…俺を庇って死んだ母親の、在りし日の想い出……。
そんな他愛のないことをつらつらと話しながら、暗い夜道を歩いていく。

「そういや、ねぇちゃんの名前は?」
「織姫」
「……星の、名前だ!」
「よく、知ってるね」
「かあちゃんに、教わったんだ。かあちゃん、星座や植物の名前に詳しかったから…」
「そう……」

俺に半歩遅れて付いてくる妖精の娘は、俺の話に相槌を打っては、時折、小さな鈴を振ったような笑い声を立てた。
振り返れば、柔らかく細められた薄茶の瞳が優しく俺を見返す。
その笑顔はまるで、春の日の陽だまりのようで。
目にした回数を重ねるほど、心がほわほわと暖かくなっていくような気がした。


彼女は、闇の住人である筈なのに。
夜の森に迷い込んだ男たちを死に至らしめるという、恐ろしい妖精なのに。




森の出口が近づいてきた頃、娘が俺に尋ねた。
将来の夢は、何か?……と。

「……わからない。なんとなく、とうちゃんとおんなじ道に進むのかな…て思ったりすることはあるけど」
「そうだね…一護君が大人になるまでには、まだまだ沢山の時間があるものね!
ゆっくり、考えたらいいよ。
でも……どんなお仕事に就くにせよ、一護君はきっと格好良くて、素敵な男の人になるだろうなぁ…。
きっと、女の子にモテモテになるよ!」
「……何、馬鹿なこと言ってんだよ」

ふふ…と小さく笑った娘は、しかしながら次の瞬間、びくり…と身体を強ばらせて立ち竦んだ。

「……?」

訝しく思いながら、娘の視線を辿る。
すると前方に、ちろちろと揺れる小さな橙色の光が見えた。

「とうちゃん……」

カンテラをかざして立つ親父の表情は、とても険しくて。
俺たちに向かって突き出されたもう片方の手には、光を弾く銀の十字架が握られている。

「……さぁ、お戻りなさい…! あなたの、世界へ…!!」

優しすぎるほど優しい声に、思わず背後を振り返った。
そこにあったのは、声音から予想したとおりの静かな微笑み。
穏やかで、慈悲深くて……背に翅さえなければ、聖母マリアの降臨とさえ思えるような……。

一方、で。
俺の脳裏を横切ったのは、俺に対して冷たい視線を向ける村人たちの姿。
口汚く俺を罵る声が、耳の奥に蘇る。

「……一護…っ!」

俺の名を叫ぶ、親父の声。
しかしながら俺が足を踏み出したのは、森の外へではなく、妖精の娘に向かって…だった。

「いちご、く…?!」
「嫌だ! やっぱり、帰りたくない!! 俺をもう一度、沼まで連れて行って!!!」
「…一体、何を言い出すの?!」

ドレスに取り縋りながら訴える俺を、困惑も露わに娘が見下ろす。

「そんなことをしたら、今度こそ殺されてしまうわ」
「構わねぇよ! 死んだら、かあちゃんのところに行けるもの!!」
「一護くん……」

深く深く、ため息を吐いて。
それから俺の背の高さに合わせて身を屈めた娘は、真っ直ぐに俺の目を見つめた。

「あなたは、生きなければ。だって…お母様が守ってくださった、命なのでしょう…?
あんまり早くあちらに逝ったら、お母様…きっと悲しまれるわ」
「でも…村の人たちは俺を恨んでる。俺の方が死ねば良かったと、思ってる」
「そういうことは、いずれ時間が解決してくれるものよ。
何年かして一護君が立派な大人になったら、それこそ誰も何も言わなくなるだろうし、寧ろ、あなたが生き残ってくれて良かった…って言う人だって、出てくるよ。
『護りたい、たったひとつ』にだって、いつかきっと出会える筈だから…」
「………」
「さぁ、手を放して。先刻も言ったけれど…私に触れていると、あなたの身体に障るの」
「……どうしても、駄目?」
「駄目」

微笑みは、そのままに。
しかしながら、きっぱりと告げられた拒絶の言葉に、俺はただ唇を噛んでうなだれることしか出来なかった。

「……さよなら、一護くん。もう二度と、夜中に沼に来ては駄目よ?」

立ち上がり、踵を返そうとする娘。
俺は慌てて、ドレスを強く掴み直そうとした。
けれど…つい一瞬前まで確かにあった筈の布の感触が、忽然と掌から消え失せたではないか。

驚愕に目を見開いた俺の耳に響いたのは、けたたましい雄鶏の鳴き声。
ついに、朝がやって来たのだ。

目の前の娘の姿が、徐々に輪郭をあやふやにし、曙の光に溶けるように透き通っていく。
さようなら…と、再度動きかけた唇。それを遮るように、俺は必死に叫んだ。

「ねえちゃんっ…ねえちゃんには、夢は無ぇの?!」
「夢………私、の…?」

鸚鵡返しに、呟いて。
暫しの間、うつむき加減に何事かを思案する娘。
やがてゆっくりと顔を上げると、その形の良い唇からぽつり…と言葉がこぼれ落ちた。

「……ちゃんと、死ぬこと」
「っ、?!」
「神様の元に召されて、魂を休めて……そしていつかまた、輪廻の輪に戻れたなら、どんなにか…」
「…ねぇ…ちゃん……」

くしゃり…と。
目の前の娘の顔が、苦しげに歪む。

「私、は……本当は、もう…誰も、殺したくなんか……!」

ざわ…と。
突然吹いた強い風に、森の木々が音を立てて枝を揺らし、枯れかけた葉を振り落とす。

咄嗟に閉じてしまった瞼を再び持ち上げたときに、は。
妖精の姿は既に、俺の瞳には映らなくなってしまっていた……。












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