春夜、花の下にて
※ジゼル(クラシックバレエの演目)パロ
俺が9つのときに、お袋が死んだ。
貴族の馬鹿息子が酔っ払って馬車を暴走させ、それに跳ねられそうになった俺を庇ったのだ。
お袋は、元々は修道院の見習いシスターだったこともあり、とても信心深かった。
そのお袋が、まるでボロ雑巾のようになって地に転がり、泥に塗れて死んだ。
どんなに俺が、俺たち家族が祈ろうと泣き叫ぼうと、奇跡は起きなかった。
一方、相手の男はと言えば、その地位と権力に守られ、裁かれることも罰せられることもないまま、今ものうのうと生きている。
何日も何週間も何ヶ月、何年待っても、奴に天罰なんか下らなかった。
だから俺は、神様なんてものを、今では全く信じていない。
それなのに俺が祓魔師になる道など選んだものだから、周囲の人間たちは皆一様に仰天した。
学校の先生なんかは、やっと信仰心を取り戻してくれたか…と嬉し涙まで流したものだが、やはり祓魔師である親父だけは複雑そうな表情を浮かべ、ただ黙って俺の顔を見つめただけだった。
親父は、知っていたんだ。
俺の、目的を。
たった1つの、望みを……。
俺の住む村には、古くから伝わる伝説がある
嫁入り前の若い娘が死ぬと、ウィリーという妖精になり、夜毎森の中心にある沼のほとりで踊りに興じるのだという。
そして迂闊にも迷い込んできた男を捕らえては、体力尽き果てるまで共に踊らせ、最後には沼に突き落として殺してしまうのだ……と。
だから村の者は誰も…特に男達は、深夜の森には近づかない。
しかしながら、お袋が死んで四ヶ月が過ぎた頃、俺は夜中にこっそり家を抜け出して森へ、その奥の沼へと向かった。
当時の俺は精神的にひどく追い詰められて、かなり自暴自棄になっていた。
お袋の死について、家族は誰一人として俺を責めなかったけれど、世間の連中全てがそうであったわけではない。
普段は牧師として、村の教会を任されている親父。
その妻として甲斐甲斐しく働き、病人や孤児に惜しみなく救いの手を差し伸べ、看護してきたお袋は、多くの村人達に慕われていた。
故に、その死の原因とも言える俺の存在は、お袋を慕う者達の悲哀や喪失感、表立って顕すことのできない貴族に対する怒りの捌け口として、ある意味打って付けだったのだ。
親父の目の届かぬ場所で日々繰り返される、嫌がらせ。
そんなことされるまでもなく、元より誰よりもお袋の死に責任を感じていた俺は、いつしかお袋の後を追うことばかりを考えるようになっていた。
そんなある日、瀕死の状態の旅の男が親父のところに運ばれてきた。
彼は道に迷ってウィリーの森に踏み込んでしまい、もう少しで彼女達に殺されるところだったのだと言う。
「だが、これ以上はもう動けない…と膝を折りかけたとき、妖精の一人が耳元で囁いてくれたんだ。
『時告げ鳥が鳴くまで、後もう少しです。それまでどうぞ、保ち堪えてくださいまし』…と。
その声かけのおかげで、俺はなけなしの体力を振り絞ることができたんだ。
その妖精の言う通り、時告げ鳥の第一声が響くなり、妖精達の姿は霞んで、朝の光の中にかき消えてしまったよ。
私が今、此処でこうして温かなスープを飲んでいられるのは、あの、栗色の髪をした妖精のおかげだ。
そうさなぁ…そこの肖像画の女性に、よく似ていたような気がするよ」
男が指差したのは、お袋の若き日の姿を描いた肖像画だった。
ウィリーになるのは、若くして死んだ未婚の娘だけだ。
だから、旅人を救ったという妖精がお袋であるはずは無い…そう頭では解っていたけれど、一度火のついた心を鎮めることは難しかった。
何より俺は、もう一度お袋に会いたくて堪らなかった。
そして、詫びたかった。
俺のせいで死なせてしまって、ごめんなさい…と。
かくて。
小さなカンテラ一つを手に持って、俺は森の奥へと続く道を、小枝や落ち葉を踏みしめながら、ただ只管に歩いて行った。
今思い返せば、よくもまぁ道にも迷わず、狼などに襲われることもなく、無事に沼まで辿りつけたものだと思う。
漆黒の闇に沈む森に、恐怖を覚えた記憶もない。
それだけあの日の俺は、幼いなりに必死だったのだろうし、自分の足下しか見えないほど思い詰めてもいたのだろう。
何はともあれ、沼の側近くまで来た俺は、耳に届いた鈴の音のような笑い声に思わず足を止めた。
慌てて身を屈め、藪に隠れるようにしてそろり、そろり…と前進する。
大木の陰に隠れて様子を伺えば、沼のほとりの草地で、若い娘達が楽しげに笑いさざめきながら、踊ったり花を摘んだり、摘んだ花で花冠を作るなどしているところだった。
それは、休日の昼間などに此処で見かける光景とさして変わりは無かったが、娘達の中に見知った村人の顔はなく、その背には蝶のそれに良く似た翅が生えている。
「……ウィリーの、群だ…」
喘ぐように呟き、こくり…と唾を飲み込んだ。
不思議と、恐しいとは思わなかった。
青白い月の光の中に浮かび上がる妖精達の姿は幻想的で、あまりに美しかったからだ。
暫くの間、当初の目的も何も忘れて目の前の光景に魅入って。
しかしながら風に翻った長い栗色の髪を視界に捉えた途端、俺は後先も考えずに大木の陰から飛び出した。
「かあちゃんっ…!!」
地を蹴り、大きく腕を広げて、ぎゅう…と強く、抱きつく。
だけど……。
『……違う…!』
次の瞬間、俺は弾かれたように後ずさり、勢い余ってその場に尻餅をついた。
痛みと衝撃とで瞑っていた目をおそるおそる開けば、大きく見開かれた薄茶の瞳と視線がぶつかる。
くっきりとした、二重瞼の目。
すっ…と通った、鼻梁。
卵形をした、顔の輪郭。
その顔立ちは確かにお袋のそれと似通ってはいたけれど、目の前の妖精は明らかに別人だった。
額を縁取る髪の色もお袋よりは幾分薄く、栗色と言うより、胡桃に近い。
『やっぱり、かあちゃんじゃなかったんだ……』
それは半ば覚悟していたことだったとはいえ、やはりお袋には二度と会えないのだ…という確証はすぐさま深い絶望へと変わり、じわり…と涙がこみ上げてくる。
次第に視界が滲み、ついに目尻から滴がこぼれ落ちそうになった……まさに、その時だった。
「まぁ…今宵の客人はまた、随分と可愛らしいお方だこと」
その声を聞いた途端、ぞくり…と背筋を走る悪寒。
いつの間にか、胡桃色した髪の妖精の周囲に、他の妖精達が集まってきていた。
先刻は、ただ美しいとばかり思っていた娘たちだったが、今や、彼女たちの瞳は獲物を見つけた夜行性の肉食獣の如く、危険な光をはらんで爛々と輝いている。
なかでも一際大きく美しい翅を持ち、頭に銀梅花の葉で造られた冠を戴いた妖精の、酷薄な光が閃く眼差しに射すくめられた途端、意志とは無関係に身体がガタガタと震え出した。
にぃ…と。
不自然なまでに紅い色をした唇の端がつり上がる様子に、心が恐怖で凍りつく。
そのとき、だった。
「女王さま…どうぞ、お慈悲を……! この子はあまりに、幼すぎます」
柔らかな声が響くと同時に、揺れるドレスの裾で視界を遮られた。
俺がお袋と見間違えた妖精が腕を広げながら、女王と呼ばれた妖精との間に割って入ったのだ。
まるで、雛鳥を庇おうとする親鳥のように。
「……妾の邪魔をする気かえ?」
冷え冷えとした女王の声が、闇に響く。
非難めいたざわめきが妖精達の間に広がり、俺は震える身体を一層縮こまらせたが、俺を庇った妖精は全く怯む様子を見せなかった。
「御身のためを思えばこそ、申しております。このように幼い子をも手にかけたとあれば、流石に村の者も教会も黙ってはおりますまい」
「……………ふん…」
淡々と語られる言葉に対し、つまらなそうに鼻をひとつ鳴らして。
ちらり…と、まるで虫けらでも見るような目つきで俺を一瞥したのち、ウィリーの女王は優雅な動作で俺たちに背を向けた。
「興が醒めた。さっさとその子供を、森の外に連れておいき」
「……ありがとうございます!」
「但し! 見逃しは、此度が最後じゃ」
「女王…さ、ま……?」
「先日も、獲物に余計な助言をしたばかりであろう? 妾が気づかないとでも、思うたか」
「………申し訳…ございませぬ…」
「三度目は、無い。良く、覚えておおき」
「はい……」
胡桃色の髪の妖精が低く腰を落とし、深々とその身を折ってお辞儀をする。
しかしながら女王は、俺たちを一度も振り返ることなく、お供の妖精を引き連れてその場を去っていった。
他の妖精達もまた、ちらりちらりと俺たちを振り返りながらも、三々五々と沼の周囲に散っていく。
『…助かった……!』
風に揺れる胡桃色の髪をぼんやりと眺めながら、俺は大きく息を吐き出した。
それと同時に、一つの確信を得る。
先日、教会で保護した旅人を救ったのは、やはり目の前の妖精だったのだ……と。
「……大丈夫、坊や?」
振り返った妖精が、心配そうに俺の瞳をのぞき込んだ。
俺が頷くと、ふうわり…と優しい微笑みがその顔に浮かぶ。
それを目にした瞬間、とくり…と。
酷く場違いに甘い音を立てて心臓が高鳴ったことを、俺は今でも良く覚えている。
それほどまでに、娘の笑顔は優しくて美しかった。
.