Virus
「………ひぃ、いない…」
数ヶ月後。
通りかかった保育園の前、園庭で遊ぶ子供たちの姿を目にした一護は、柵にしがみつくようにして胡桃色の頭髪を探していた。
最近陽気がかなり春めいてきていて、そろそろ夕方の外遊びが始まっているかもしれない…と。
一護が期待したとおりに園庭には子供の姿が溢れているというのに、どんなに背伸びをし、瞳を凝らして探しても、一護のブラウンの瞳は織姫の姿を見い出さない。
「…たまたま今日は、お休みしてるのかもよ。また明後日の帰りに、寄ってみましょう」
真咲はそう声を掛けたが、一護は返事すらせずに柵の内側を見つめ続けている。
大分膨らみの目立ち始めたお腹をさすりながら、真咲は小さくため息を吐いた。
そのとき、転がってきたボールを追いかけて、保育士らしい女性が一護たちの居るほうへと駆けてきて。
当然ながら二人に気づき、拾い上げたボールを手に柵の手前の花壇の際まで寄ってきた。
「何か、ご用ですか?」
若干の警戒を見せながら問いかけてくる保育士に対し、真咲は躊躇いがちに口を開く。
「あの…井上織姫ちゃんは、今日はお休みですか? うちの子の、お友達なんですが……」
すると保育士はますます怪訝そうな顔になって、真咲の顔をじろじろと見返した。
大概のことでは動じない真咲だったが、流石にこの相手の態度には幾らかの気後れを感じざるを得ない。
「どうして、ひぃがいないの? 風邪ひいて、お休みしてるの?」
一護からの問いかけの言葉にぱちくりと瞬きを繰り返した保育士は、今度は途方に暮れたような顔になって黙り込んでしまった。
真咲と一護もまた困惑しすぎるあまり、去ることも出来ずに柵の外で立ち尽くす。
やがて保育士は「少し、お待ちください」と小声で言い残して、園舎へと走っていって。
ほどなくして戻ってきたときには、50歳代と思われるスーツ姿の女性を伴っていた。
女性はわざわざ門の外へ出てきた上で名刺を差しだし、園長だと名乗ると、外部の人間には園児の個人情報に関することは安易に答えられないのだ…と真咲に説明する。
真咲は鞄から財布を取り出し、一枚の名刺を取り出すと、それを園長に差し出した。
「私の夫の名刺です。ここから徒歩で20分ほど離れた場所で、個人医院を開いております。
井上織姫さんとお兄様とは、医院に予防接種にいらしたことでお知り合いになりました。
そこに書いてある電話番号で、事実確認をしていただいてもかまいません。真咲という名の妊娠中の妻と、一護と言う名の、空座幼稚園に通う四歳の息子が居るか……と」
「いちご……! まぁ、それじゃあ君が、ひまわり君なのね?! そう言えば、その髪の色……確かにひぃちゃんの言っていた通りだわ!!」
園長が警戒を解いてくれたことに安堵したのも、束の間のこと。
二人を待ち受けていたのは、かなりショックな現実だった。
「織姫ちゃんは、新年になってすぐに転園したんです。お兄さんの通勤に便利な園に、空きが出来たので…。先ほども申し上げましたが個人情報の問題がありますので、転園先まではお教えできません。
ごめんなさいね……」
ぽとり…と。
英語教室用の手提げ袋が、一護の小さな手を放れて地に落ちた。
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「聞いたわよ、先生! 一護君、空手を習い始めたんですって?」
「ええ、そうなんですよ。強くて優しくて、カッコいいって…そう妹たちに言われるようなお兄ちゃんになりたいって言って。
でも、元が泣き虫だから…毎回同い年の女の子に泣かされて、帰ってきてますよ」
美桜里に向かって、苦笑交じりにそう話して。
ふ…と一心は、年末に予防接種を受けに来た女の子のことを思い出した。
「同い年の女の子と言えば…青木さんが以前に予防接種の代理予約をしていったご兄妹、あれから一度も来てないですねぇ……。
帰り際、またいつでもおいでと、声をかけたんですが…いや、健康で医者にかかる必要がないだけなら寧ろ喜ばしいことだけれど」
「そうなんですか…それじゃあやっぱり、昊君も【青空こども病院】の方に乗り換えちゃったのかしらねぇ」
美桜里は、頬に手を当てながら、ふう…と小さくため息を吐いた。
その小児科医院の名は、一心も知っていた。
駅近くのショッピングモール内に開院した小児科医院で、場所柄ほぼ年中無休で開院しており、携帯やPCからの診察予約が出来るので待ち時間も少なく、そこそこ見立ても良い…ということで、かなり評判になっているのである。
「先生のところも、ネット予約を導入する予定なんてあるの?」
「いやぁ…うちはおそらくこの先もずっとこの通りですよ!」
「それだと助かるわ。私くらいの年齢になってしまうと、メールが精々で…」
「二人は、元気にしてるんですか?」
「ええ、元気よ!
昊君がどうしても残業しなくちゃならないような夜とか、休日出勤しなきゃならないような日には、織姫ちゃんを預かることもあるのよ。
そうそう…アパートから直接うちに来る日には、織姫ちゃん、いつも熊の縫いぐるみを抱えてくるの! 話しかけたり、ままごとの相手にしたりねぇ…そりゃもう、見ているだけで本当に可愛くて!!」
美桜里からの得た二人(と一匹)の近況に、一心の頬が思わず緩んでいく。
『一護が帰宅したら、エンラクもあの女の子も、元気にしているようだ……と伝えてやろう』
カルテに書き込みをしながら、一心はそんなことを考えていた。
しかし、それが実行に移されることはなかった。
「先生、大変よ!! 奥さん、この先の交差点すぎたあたりで破水しちゃったみたい……!!! 頭が出掛かってるかもって……」
「ええっ?!」
一心は椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がると、パートの事務員に後を頼み、妻の元へ向かうべく通りへと飛び出して行った。
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「…お兄ちゃん………」
呆然と立ちすくむ少女の足下にまで、迫ってくる赤い液体。
それは、地面に倒れ伏す兄の身体の下から溢れるように流れ出ていた。
周囲の野次馬が無責任に騒ぐ中、それでも良心のある者も幾人か居たらしく、警察とか救急車を手配するよう叫ぶ声がする。
しかし織姫には、それらの声が酷く遠い場所から届く音のように聞こえていた。
今、織姫の脳内で割鐘のように響いているのは、彼女が昨夜兄に投げつけた、冷たく残酷な言葉。
今朝は今朝で、「おはよう」の挨拶も「いってらっしゃい」の言葉もかけていない。
「しっかりしろ! 今、救急車を呼んだから…」
肩を捕まれ、耳元で怒鳴られ、織姫はようやっと我に返った。
その途端に、多少天然ではあるものの、決して愚鈍などではない彼女の頭脳がフル回転を始める。
『……救急車を待っていたら、駄目だ』
数日前、町中で青木美桜里と久方ぶりに再会した織姫。
その際に、美桜里の夫が少し前に自宅で倒れたこと、時間帯が悪かったせいか、救急車を呼んだものの受け入れ先をたらい回しにされて困ったことを聞いていた。
「あともう少し遅かったら、助からなかったかも……」
涙ぐみながら話していた美桜里の姿が、織姫の脳裏に蘇る。
織姫はきゅっ…唇を噛みしめ、瞳に決意の光を宿すと、倒れ伏す兄のそばに屈み込んだ。
そして、兄の身体の下に潜り込むようにしてその身を背負い、立ち上がる。
呆気にとられた周囲の人間が黙って見守る中、織姫は兄を背負ったまま、ゆっくりと歩き出した。
黒崎医院へと、向かって……。
『あの先生なら…きっとお兄ちゃんを助けてくれる……!』
その腕に思いっきり噛みついた織姫を、怒るどころか塗り薬まで処方してくれ、「お嫁においで」とまで言ってくれた優しい人。
織姫の背中にある火傷痕は、今では殆ど目立たなくなっていた。
『お願い、先生…お兄ちゃんを助けて……!』
院長夫人である真咲が亡くなったことは、織姫も噂で知っていた。
なんでも息子を庇って車に跳ね飛ばされ、そのまま息子もろとも土手下まで落ちたのだと言う。
その息子とは、中学に上がって再会した……と言っても、織姫が一護に気づいただけで、相手はまったく彼女を認識していないようだったが。
だから織姫は、これまで彼に声をかけることが出来ずにいた。
眉間に深く皺を寄せ、人を寄せ付けない空気を纏っている、学ラン姿の一護。
その彼と、熊の縫いぐるみを差し出してくれた男の子の笑顔とがどうにも重ならず、ただでさえいじめをうけ始めて心が萎縮しかかっていた織姫は、気後れすること甚だしかったのだ。
それでも彼女は、知っていた。
彼は心底困っている人間に対して、手を差し伸べることを躊躇したりはしないのだ……と。
『助けて、お願い……助けて…!』
真っ白い夏用のセーラー服が、次第に深紅に染まっていく。
道行く通勤通学者が目を丸くして通りすがっていくが、織姫は全く気にとめなかった。
兄の命を救うこと…ただそれだけが、今の彼女の全てだったのだ。
「織姫ちゃん…!」
救急車と警察を手配した近所の男が、あわてて彼女を引き留めようと声をかける。
しかしそのとき、彼は遠くパトカーのサイレンが鳴り響く音を耳にした。
昊を轢いた車は、そのまま逃走してしまっている。
たまたま犬の散歩に出ていた男は、猛スピードで走り去る車のナンバーまでは記憶できなかったものの、車種や色をかなり正確に覚えていた。
逆に、織姫は騒ぎを聞きつけてからアパートの外に出てきたので、事故そのものについては何も知らない。
どちらが警察官の聴取により応えられ、多くの情報を提供できるかと言えば、それは間違いなく男の方だった。
「……必ず、犯人を捕まえような!」
遠去かる後ろ姿に向かって、呟いて。
男は断腸の思いで踵を返すと、昊が先刻まで倒れていた場所まで急ぎ足で戻って行った。
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『あの…熊……!』
かつて妹と共に自分が暮らしていた、アパートの部屋。
サイドボードの上にちょこんと座るエンラクの姿を見留めた昊の瞳が、すぅ…と眇められた。
思い出すのは、12年前の初冬のこと。
インフルエンザの予防接種を受けに行った、小さな個人医院。
注射が嫌だと泣き叫んでいた、男の子……。
12年前の冬、織姫は一度も熱をだすことなく保育園に通っていた。
それは確かに、予防接種の効果だったのだろう。
だがそこで、織姫はインフルエンザよりももっと厄介なウィルスを体内に取り込んでしまったのだ。
『“恋患い”とは、よく言ったものよ……』
昊は、気づいていた。
裸足のまま自分たちを追ってきて、織姫に縫いぐるみを差し出した男の子が、妹の初恋の相手だということに。
その淡い想いはその後もずっと失われることはなく、今や高校生となった妹の胸の内で、鮮やかで眩しい光を放っている。
それは昊の心をじりじりと灼き、いつしか彼の胸に大きな穴を穿ってしまった。
『予防接種に行ったのがあの医院でなければ、もっと違った“現在”があったのだろうか……』
ふ…と、昊の脳裏にそんな考えが過ぎる。
しかし昊は、仮面の下の口の端を自嘲の形に吊り上げると、今更だ…と思考を打ち切った。
『何にせよ…あともう少しで、全てが元通りになる。織姫はまた、俺だけのものになるんだ…!』
うっとり…と目を細めながら、舌なめずりをする昊。
それから彼はゆっくりと腕を持ち上げると、まずはサイドボードに座るエンラクに向かって、その長く鋭い爪を振り下ろした。
生地が裂け、中から飛び出した真白い綿が宙を舞う。
何が起こったのか分からず、狼狽え怯える、織姫と竜貴。
その声に姿に、昊はますます気分を昂揚させていく。
『食べてあげるよ、織姫……文字通り、二人で一つになるために…』
それが最早“愛”ではなく、ただの“亡者の妄執”に過ぎないということに、今や完全に虚と化した昊は全く気づかないのだった………。
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『何でだよ…何であんたが、こんな事を……!!』
怒りに燃える瞳で、一護は目の前の虚を睨みつけた。
死神代行として既に幾度か虚と対峙してきて、その度に身勝手な理由で人や整を殺め傷つける彼らに怒りを感じてきた一護だったが、それでも今夜ほど激しい怒りを抱いたことは無かったように思う。
理想、だった。
目標、だった。
もうずっとずっと長いこと憧れて、その背中を目指して生きてきた。
それなのに……。
『絶対に、倒す…! 他の誰でもない、同じ【兄】である、俺の…この手で……!!』
柄を握る手に、一層の力を込めて。
一護は己の斬魄刀を、大きく大きく振りかぶった……。
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