佐保姫
今日は大晦日。
もうすぐ午後のお茶にしようかな?っていう時間帯。
医院は、昨日の午前中までで年末休業に入った。
その後から家族みんなで始めた大掃除が、どうにかこうにか終わりかけていて。
「そろそろ……かな」
時計を見て、呟く。
担当していた二階のトイレの掃除を終えて。
バケツの中で雑巾を洗って、ぎゅっと絞りあげたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
「来た……」
すると。
どたばたと玄関へと走る足音が三人分、家の中に轟き渡る。
「遊子っ、親父っ、あいつは俺の客だ! なんで毎回俺より先に出迎えようとするんだよっ!」
「別にいーじゃん! 一兄のケチっ」
「ケチとかいう問題かよっ?!」
「ええい、二人とも下がりなさい! ここは家長の俺が先ず最初に出迎るのが、筋というも……どわっ!」
一兄の主張は、全く持って正しいと思う。
遊子と親父が大人げないというか、もうちょっと弁えたらどうなんだ……と、思う。
ため息を吐きながら、バケツ片手に階下へと降りて。
玄関が見えるところまでくると、たたきに倒れ伏して一兄に踏みつけられている父親と、苦虫をつぶしたような顔をして、開け放たれた玄関扉の外を見ている一兄が見えた。
「………ったく、遊子の奴」
忌々しげに、呟く一兄。
その背後から外を覗き見ると、本日のお客様である織姫さんと、その彼女の首っ玉に飛びついている遊子の姿がみえた。
……やれやれ。
小さなため息を吐いたその瞬間、ふと、織姫さんが顔をあげて。
視線がまともにぶつかる。
すると。
織姫さんは片手を挙げて、ひらひらと私に向かって手を振ってくれた。
私も軽く片手を挙げて、挨拶。
いつ見ても、織姫さんは可愛いくて綺麗だなぁ……なんて思いながら。
織姫さんは、片腕に遊子をぶら下げながら戸口まで来ると、深々とお辞儀をして。
「今年もお言葉に甘えまして、お邪魔させていただきます」
顔を上げて、にっこりと笑う。
まるで花が綻んだような、それはそれは素敵な笑顔。
「堅苦しい挨拶はそんくらいにして、早く中入れよ。寒かったろ?」
「そうだよ、織姫ちゃん! 君はもう家族も同然なんだから、仰々しい挨拶なんて必要な……ぐぉっ」
さりげなく、織姫さんの手を握ろうとした親父の鳩尾に肘鉄を喰らわせながら、一兄が家の中へと彼女を招き入れる。
お邪魔します…と言いながら玄関にあがってきた織姫さんから、ふわりと甘い…それでいて、清涼感のある香りが漂ってきて。
私は軽く眉を潜めながら、首を傾げて呟いた。
「珍しい……織姫さん、今日は香水つけてるの?」
「え……? ううん……何にもつけてないけど………」
きょとんとして私をみた後「ああ、きっとこれだわ」と言いながら、織姫さんは手に持っていた大きな紙袋の中から、ゆるく巻いた新聞紙を取り出した。
開いた上部からのぞくのは、木の枝らしきものと、それにびっしりと咲いている黄色い花。
その花びらは、一見半透明の樹脂製のように見えて……一瞬、造花かと思ったんだけど。
「蝋燭の蝋に梅と書いて、ロウバイと言うのですって。
ここに来る途中、通りすがりのお家でお裾分けしてもらったの」
本当に素敵な香りよね……。
腕の中を花を見つめながら、うっとりとした表情で織姫さんは呟いたのだった。
「結婚記念樹なんですって」
ぱきん……。
花切り鋏でロウバイの枝を切りそろえながら、織姫さんが言った。
来る途中のお家の庭に、この花が枝いっぱいに満開で咲いていたの。
冬晴れの空に、この花弁の黄色が凄く映えて綺麗で……。
しかも、この香りでしょ?
しばらくその下で、ぼぅっと見とれてしまっていて。
そしたらね、たまたまその時、家の方が外に出てこられて……。
お正月飾りにしようと、枝を切りに来たのですって。
それでね、『良かったら、どうぞ……』って、私にもわけて下さったのよ……。
枝を受け取りながらね。
結婚の記念に植えた樹の花で、毎年新年を祝えるなんて…なんだか素敵だなぁって思ったわ……。
織姫さんはそんな話をしながら、綺麗に高さを揃えた枝を、洗面台の脇の水を張ったバケツに、そっと差し入れた。
……何でも、お正月の飾りとかは、31日に飾るといけないんだそうで。
鏡餅や門松じゃなくて生花だから、果たして「一夜飾り」に該当するのかわからないけれど……一応気にした方がいいかなってことになり。
じゃあ、いつでも飾れる状態に準備しておいて、日付が変わってから花瓶に活けよう……という結論に達し。
とりあえず洗面所で、ちょきちょきやっていたという訳。
遊子はずっと、金魚の糞みたいに織姫さんにまとわりついたままで。
私は私で、掃除ロッカーが洗面所にあるものだから、用具を片づけつつ、なんとなく二人の会話を聞いていたんだけど。
「私の時には、どんな苗が貰えるのかな……」
織姫さんが呟く。
そう……一兄と織姫さんは、この秋めでたく正式に婚約した。
挙式は、春の予定だ。
「婚姻届や出生届を役所に出すと、苗木の引換券が貰えるんですって。
私の時にも、ロウバイがあったら嬉しいんだけどな……」
「もしなかったら、私と夏梨ちゃんで苗木をプレゼントするよ!」
ね、夏梨ゃん!……と言いながら私を振り返った遊子と、遊子につられてこっちを見た織姫さんに、私は黙って頷いた。
……確かに、ありふれた結婚祝いよりも、いいかもね。
心の中で、呟く。
「本当? それは嬉しいなぁ……」
ふふっ……と、穏やかに微笑む織姫さん。
その笑顔に、私はついついみとれてしまう。
何て言うか……もともと綺麗な人だったけど。
一兄と婚約してから、一層美しさに磨きがかかったと言うか。
二十代半ばにさしかかった、年齢的なものもあるのかもしれないけれど。
しっとりと落ち着いた、大人のイイオンナって感じになってきた気がする。
独り、そんな事を考えている隣で。
「ところで織姫さん、これどうしよう?」
困ったような顔をしながら、遊子が織姫さんに差し出したのは、半端な長さで残ったロウバイの小枝たち。
「こっちにもお花いっぱいついてるし、捨てるのは勿体ないよねぇ」
「そうねえ……。コップか何かにでも、ちょこっと活けようか?
……あ! ちょっと待って!」
織姫さんは「ぱんっ」と手を打ち鳴らすと、瞳をきらきらさせながら遊子の手から花のついた一枝を取り上げた。
そして。
「遊子ちゃん、明日はお着物だったよね?
簪の代わりに、髪にこのお花を挿してみたらどうかしら?」
すいっと手を伸ばして、遊子の耳の上に枝を挿す。
「ほら! 可愛い!! 遊子ちゃんたら、まるで佐保姫様みたいよ?」
「佐保姫?」
「春の女神様のこと」
「え~~~っ、やだぁ、織姫さんたら誉めすぎ!」
照れてきゃいきゃい騒ぐ遊子を、幼い我が子を見つめるようにして目を細めて眺めていた織姫さんは。
くるりと私を振り向いて。
「夏梨ちゃんも、一緒にこのお花付けて、初詣に行こうよ!
三人お揃いで」
無邪気な子供のように、瞳をきらめかせて提案してくる織姫さんに、私は慌てて両手を横に振った。
「私は、いいよ!
なんかこう……柄じゃないっていうか………。
私の顔は親父や一兄の系統だからさ、髪に花挿すなんて、絶対に似合う筈ないもの」
絶対に無理無理!……全身使って、必死に否定する私に。
「お花の似合わない女の子なんて、いないわ」
織姫さんはゆっくりかぶりを振りながら、やんわりと微笑んで。
「でも……そうねぇ………夏梨ちゃんは頭につけるより……」
そう言いながら、ごくごく短い枝ばかりを数本選んで、くるっと輪ゴムでまとめていく。
「こっちに付けた方が、似合うかな?」
すっと伸びた白い手が、私の着ているシャツの胸ポケットに、小さな黄色いブーケをそっと差し込んだ
「うん、やっぱり素敵。夏梨ちゃん、お花の勲章を付けてるみたいよ?」
ふわり……と、織姫さんが笑う。
その素敵な微笑みが、何故だか急に、ぐにゃりと歪んで。
あれ?と思ううちに、その歪んだ顔の織姫さんが、息をのみながら大きく目を見張るのが見えて。
おろおろと、酷く狼狽えた声が、その綺麗な桜色の唇からこぼれる。
「……一体どうしたのっ?! 夏梨ちゃん!!」
「どうしたのっ……て?」
織姫さんたら、何をそんなに慌てているんだろう。
そう、思った瞬間。
ぱたたた………。
何かが床にこぼれた音がして、思わず足下を見る。
更に、ぱたぱたと音がして。
床には、水が落ちて出来た染みが数カ所。
……え?! 私、泣いてる………?!
慌てて目元に手をやると、そこはもう涙でぐしょぐしょに濡れていて。
私は腕でごしごしっと顔を拭うと
「ごめん、なんかゴミでも入ったみたい!」
そう叫んで、慌てて洗面所から飛び出した。
「夏梨ちゃん!!」
私を呼び止める織姫さんと遊子の声には振り返らず、一気に階段を駆けあがると、自室に飛び込み、後ろ手でドアを閉める。
バタンと大きな音を立てて閉まったその扉に背中を預けながら、ずるずると崩れるようにその場に座り込んで。
「お…母……さ…ん…………」
小さく呟いて。
溢れる涙をそのままに、自分の膝に顔を埋めて、私は声を押し殺して泣いた………。