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「織姫……そろそろ、お家に帰るよ」

その呼びかけに、織姫ははっ…としたように顔を上げて兄の顔を見、次に一護へと視線を戻すと、何とも形容し難い複雑な表情を浮かべて黙り込んだ。
一護もまた、そんな織姫と昊の顔とを交互に見ながら、戸惑いを色濃く浮かべて押し黙る。

そんな二人の様子を見た真咲は、良ければ夕飯を食べていかないか…と昊に声を掛けた。
しかし昊は微笑みを浮かべつつも、きっぱりと首を横にした。

「これ以上、ご厚意に甘えるわけには……。それに、下拵えも済ませてきてしまったので」

昊の返答に対し、尚も食い下がろうと口を開きかけた真咲の肩を、一心が背後からそっと掴む。
振り返った妻を目配せで制した一心は、ただ穏やかに微笑んで、「道中、気をつけて」とだけ声をかけた。

真咲同様、一心は兄妹が黒崎家で夕食を共にすることを、微塵も迷惑だなどと思わない。
寧ろ、もっと甘えてくれても良いのに…とさえ思う。
一護と織姫が予想以上に打ち解けて、仲良く遊んでいたから…尚のこと。
しかし、未だ成人にも達していない昊が懸命に妹の親代わりを務めようとする姿に、一心は幾ばくかの危うさを感じつつも、一人の大人としての敬意を払って対応をしたいとも思っていた。
過ぎた厚意は、下手をすると相手のプライドをへし折りかねない。
青年に卑屈さを感じさせることなど、全くもって一心の望むところではなかったのだ。

ただ一心は、「二、三分で戻るから、少し待っていてくれないかい?」と昊に頼み、返事すら聞かずに急いでリビングから出て行った。
その後ろ姿を戸惑いに瞬きつつ見送った昊は、織姫を振り返りながら再度「お家に、帰ろう」と声をかける。
穏やかな声音の中に、それでも確固たる兄の意志を感じた織姫は、ラグから立ち上がりると、ずっと腕に抱えたままだった縫いぐるみを一護へと差し出した。

「貸してくれて、ありがとう」

ふわり…と、笑って。
それきり一護に背を向け、兄にコートを着せて貰う織姫。
一護は黙って、その様子を眺めていた。
本当は「もっと一緒に居たい」と駄々をこねてもみたかったが、それは先刻、織姫を相手に目指すと宣言した「大好きなお兄ちゃん」像にはほど遠い。


………きっと、なれるよ!


耳に残る、優しい声。
一護は俯き、きゅっ…と唇を噛みしめる。

そのときリビングの扉が開き、一心が一枚の紙を手にして戻ってきた。
待たせて済まなかったね…と言う詫びの言葉とともに差し出された紙を、昊は困惑の表情で受け取る。
紙の上部に他の字よりも大きめのフォントで書かれていたのは、【処方箋】の三文字。
顔を上げた昊が何か言うよりも早く、にかっ…と歯を見せて笑い、一心は説明を始めた。

「妹さん用の、塗り薬だよ。火傷痕に塗ってあげるといい。根気よく塗り込めば、薬を使い切る頃には大分薄れている筈だ。
市販のものは結構値が張るが、この処方箋でなら補助制度の適用になるからね。あ、容器代を要求されることはあるよ。せいぜい、数十円だが」
「……ありがとうございます」

昊は深々と頭を下げると、処方箋を丁寧に折り畳み、リュックのポケットへと仕舞った。
そしてリュックを背負い直し、再度一心と真咲に向かって頭を下げると、妹の手を取る。

「さぁ…帰ろうか」

無言で頷いた織姫は、兄に手を引かれるままにリビングを出て行った。
一度も、一護を振り返らずに。

見送る為だろう、後を追って両親もまたリビングを出て行き、一護は独り室内に取り残される形になった。
がらん…としてしまったリビングは一護の目に酷く寒々しく写り、カチコチと壁の時計が秒を刻む音ばかりがやたらと耳に付く。

ふるり…とひとつ身を震わせて。
一護はぎゅっ…と目を閉じると、縫いぐるみを抱きしめた。
先刻までずっと織姫の腕の中にあったそれからは、ふわり…と甘い香りが立ちのぼり、一護の鼻腔を優しくくすぐる。

扉の向こうからは、はっきりと言葉は聞き取れないものの、両親と兄妹が別れの挨拶を交わす声が聞こえていた。
そして、がちゃり…と響く、玄関扉の開かれる音。
瞬間…まるで弾かれたように顔をあげた一護は、床を蹴って走り出した。
リビングの扉に飛びつき、壊さんばかりの勢いで開け放つと、玄関へと猛ダッシュする。

「…一護っ?!」

呆気に取られて立ち竦む両親の脇をすり抜け、裸足で三和土へと降り立った一護は、そのまま玄関の外へと飛び出した。
そして、今にも門を出ようとしている兄妹の背に向かって、叫ぶ。

「…待って!!」

驚いて、振り返る昊。
その兄の手を振り解くようにして駆けだした織姫は、一護の元に辿り着くなり、慌てたように言った。

「一護くん、風邪引いちゃうよ?!」

暖房の効いていたリビングに居たままの格好で、上着すら羽織らず、靴下で地面を踏みつけている…そんな一護の姿に、幼いながらも母性本能を刺激されたのかもしれない。
心配そうに自分を見つめる織姫に向かって、一護は苦しげに息を弾ませながら、熊の縫いぐるみを差し出した。

「持ってけよ!」
「…っ、?!」

もともと大きな織姫の目が、それこそ転げ落ちるのではないかと心配になるほど大きく見開かれる。
慌てて織姫の元へと駆け寄った昊もまた無言のまま、困惑を全身に貼り付かせた状態で、まじまじと目の前の幼い少年を見下ろす。

やがて、一護を追って外へと出てきた両親が彼の背後へと迫って。
縫いぐるみを手にしたまま一旦兄妹に対して背を向けた一護は、一心と真咲の顔を真っ直ぐに見上げると、きっぱりとした口調で自分の意志を口にした。

「俺……エンラクを、ひぃにあげたい」
「エンラク…?」

思わず首を捻った一心に対して、「こいつのこと!」と、縫いぐるみを高く掲げてみせる一護。

「名前訊かれて、まだ付けてないって答えたら、ひぃが考えてくれたんだ!」
「……お嬢ちゃんは、笑点のファンなのかな?」

一心の問いかけを、苦笑に近い微笑みを返すことで肯定する昊。
その間に一護は織姫に向き直り、再度縫いぐるみを差し出した。
しかながら、織姫の表情には喜びではなく困惑が色濃く浮かび、ちらちらと隣に立つ兄の顔を盗み見るばかりで、いっかな手を伸ばそうとはしない。
そして昊はと言えば、俯き加減に佇み、無言で自分自身の足先を見つめていた。

身長差と立ち位置から、一心が昊の表情を伺うことは出来ない。
しかしながら一心は、青年の心の内にある葛藤をほぼ的確に見抜いていた。
真咲が兄妹を夕食に誘い、それを昊が断ったときと同様に、彼のプライドが厚意を素直に受け取ることを拒んでいるのだ。
ましてや縫いぐるみを差し出した相手は、妹と同い年の幼児である。

『卑屈な気持ちになるな……という方が、難しいかもしれん』

心の内でやるせなく呟きながら、一心が密かにため息を吐いた……そのとき、だった。

「……じゃあ、こうしましょう!」

隣に立つ妻が殊更明るい声を上げ、昊のみならず一心もまた、ぎょっ…として彼女の顔に視線を向ける。
そんな男二人の様子を全く意に介さずに一護の隣に身を屈めた真咲は、織姫と視線を合わせ、ひとつの提案を口にした。

「あげるのではなく、『貸す』というのはどうかしら?」

貸す…と、織姫が微かな声で鸚鵡返しする。
にっこり笑って頷いた真咲は、そのまま話を先へと進めた。

「貸し出し期間は…そうね、今日から20年後までにしましょう。
その頃には、あなたもきっとお仕事をしていて、自分の欲しいものを自分で手に入れられるようになっていると思うから。
それまでの、たった二十年の間だけ……ね?」

織姫がそろり…と、兄の顔を伺い見る。
真咲にそこまで言われてしまっては、昊としても流石に、頑なな態度をとり続けることは躊躇われたのだろう。

「…きちんとお礼を言いなさい」

そういう言い方で提案に対する承諾の意を伝えると、織姫の顔がぱぁ…っと輝くような笑顔になった。
息を詰めるようにして成り行きを見守っていた一護もまた、嬉しそうに破顔する。

「……ほら、ひぃ!」
「ありがとう、一護くん……!」

小さな手から手へと、受け渡される縫いぐるみ。
織姫は、それはそれは幸せそうに縫いぐるみを抱きしめながら「エンラク…」と呟いた。
その姿を、照れくささに鼻の頭を手の甲で擦りながらも、誇らしい気持ちで一護が見つめる。

「そうだ、一護! 父さんは、もっと良いことを思いついたぞ!!」

急に声を張り上げた一心に、その場にいた全員が一斉に彼を振り返った。
真咲同様に子供たちの前で屈み込んだ一心は、二人の頭にそれぞれ手を乗せると、おどけた口調で自分の案を口にする。

「嬢ちゃんがエンラクとお別れしなくても、エンラクを一護に返せる方法がひとつだけある! 嬢ちゃんが将来、一護のお嫁さんになってくれればいいんだ!!」

その、瞬間。
ほぼ同時に、ぼふっ…と音がするような勢いで顔を真っ赤に染めてしまった、一護と織姫。
そんな幼児二人の反応に寧ろ驚いたのは一心の方で、「え? え?!」と盛大に疑問符を飛ばしながら、子供たちの顔を交互に見やる。


「あら、まぁ…二人とも、まんざらでもないみたいねぇ……」


初冬の夕暮れ時、閑静な住宅街。
くすくす……と笑う愉しげな声が、夕焼け空の下に木霊した。










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